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「物心付いたときからイルカが好き」 英語7点だった少年がハワイのドルフィンガイドになるまで

佐藤智子プロインタビュアー、元女性誌編集者
ハワイ島でイルカと運命的な出会いを果たす(写真提供/Dolphin Eyes)

 ハワイ島在住のドルフィンガイドで、写真家のダイスケさん(Ronald Daisuke Jourden)。64頭のイルカと顔見知り。「イルカと会話できる」ガイドとして有名。(第1回記事

 1986年ハワイ生まれ大阪育ち。ハーフで生まれ、物心が付いた時からイルカが大好き。いじめなどの試練を乗り越え、イルカの調教師を目指すが、何度も夢が絶たれる挫折を経験。一転、ひょんなことから、一気に道が開かれ、2012年ハワイ島へ移住。憧れのイルカと泳ぐ仕事に就く。年間330日を海で過ごすうち、イルカたちと会話できるようになり、素潜りで写真を撮り始める。

 「毎日の生活の中で道が分からなくなった人、夢があるけれどかなえれない環境や、踏み出す勇気がない人へ」と、イルカから受け取ったメッセージを添えた写真集、DVDを制作している。

 「勇気づけられ癒されてもらえたら嬉しいです」というダイスケさんの『夢のかなえ方』とは?(連載3回分の第2回)

素潜りでイルカと泳ぐダイスケさん(撮影/Atsushi Sugimoto)
素潜りでイルカと泳ぐダイスケさん(撮影/Atsushi Sugimoto)

―― 写真集やDVDを拝見すると、その中によく使われている言葉があるなと思って。それは「夢」という言葉なんですけど。それがキーワードになっているなと。「夢をかなえた経験者」としての話を聞きたいんですが、小さいときからイルカが好きというのは、何がきっかけだったのか覚えています?

ダイスケ 本当に分からないんですよ。物心付いたときからイルカが好きだった。

―― どこかに見に行ったわけじゃないのに?

ダイスケ うちの両親も海の仕事をしていなかったし。

―― 絵本を読んだわけでもなく?

ダイスケ 読んだわけでもなく。小さいときからラッセンのパズルとか好きで。

―― イルカという存在はどうやって知ったの?

ダイスケ それも覚えてないんです。でも、幼稚園の卒園文集で先生が園児たちを「生き物で例えると」というのがあって、僕は「イルカ」と書いてあったのを覚えているんです。

ダイスケさんの写真集『In Between Dreams』には、イルカから受け取ったメッセージが書いてある(撮影/佐藤智子)
ダイスケさんの写真集『In Between Dreams』には、イルカから受け取ったメッセージが書いてある(撮影/佐藤智子)

―― 実際に、イルカ関係の仕事に就きたいといつぐらいに思ったの?

ダイスケ 中学校2年生のときには計画していました。

―― そのときは何になりたかったの?

ダイスケ イルカの調教師に。

―― その夢をかなえるために、どういうアクションを起こしたんだろう。

ダイスケ 僕、それまで日本の中学校にいて。

―― そうか。生まれたのはハワイだった?

ダイスケ お父さんが軍の仕事をしていたのでハワイで生まれただけで、5歳からずっと日本の小中学校に行っていたんですね。

―― だから、日本語が上手なんですね。

ダイスケ いや、日本語しかしゃべれなかった。英語のテストも7点とか1桁台なんですよ。

―― 家庭の中では日本語で話していたの?

ダイスケ お父さんは日本語がしゃべれないんだけど、母が通訳して。母あってのコミュニケーション。

―― 「いじめにあった」と、写真集のプロフィールに書いてあったけれど。

ダイスケ いじめにあったのは小学校低学年。髪の毛の色が違うとかで。

―― 容姿のことで。

ダイスケ たぶん、自分のメンタルも弱かったこともあるんだけれども。当時は6歳とか7歳とかで、仲間外れにされて泣いちゃったりして。大変な時期もありました。

―― そういういじめにあっているときも、イルカが支えになっているということはありました?

ダイスケ ありましたね。

―― イルカの写真を置いているとか、イルカの絵を描いていたとか?

ダイスケ イルカを描いていましたね。

夢をかなえている自分を想像できるかどうか

―― 「将来、イルカの調教師になるんだ」という夢があって、支えられていたのかな?

ダイスケ 当時は、そういうことを考えられる余裕はなかったと思うんだけれども。中学校に入ってから、絶対サラリーマンにはなれないと思っていたんです。

―― どうして?

ダイスケ サラリーマンの人にすごく申し訳ない、失礼な感じなんですけれども。満員電車に乗って、上司にガミガミ言われて、月曜日から金曜日まで決まった時間に仕事して、飯のために生きるという形が、すごく僕は嫌だった。団体行動が、まず苦手だったので。

―― じゃあ、「そういう道は違う」と思って、イルカの調教師にどうやってなろうとしたの?

ダイスケ まず、僕は夢をかなえるために実践していることがあるんです。

―― 聞きたいですね。

ダイスケ 「夢をかなえている自分を想像できるかどうか」というところで、まずビジョンを持たないと始まらない。

―― なるほど。

ダイスケ 想像できることで夢がかなうのだから、想像できないことを言っても絶対かなわないから。夢というのを持つことはすごく大事だし、夢をかなえるのはすごく簡単だと思う。自分は、例えば、イルカの調教師に「なりたい」ではなくて、「なった」と完了形で考えるようにしていたんだけれども。

―― どういうイメージだったの?

ダイスケ イルカの調教師=日本で調教している、のは違うなと思ったから、「ハワイだ」と思った。

―― なぜ、ハワイだったのかしら?

ダイスケ なぜかは分からない。でも、自分の生まれがハワイというのもあったのかな。うちの両親はもうハワイに住んでいなかった。家族でハワイに行くことはあったので、ハワイの空気は感じていたんだけれども。オアフ島は人が多過ぎてゴミゴミしていて嫌だなと思っていて、自分の中でマウイ島に移住してイルカの調教師になろうと決めていた。

「幼い頃からなぜだかわからないけど、イルカが好きだった」(写真提供/Dolphin Eyes)
「幼い頃からなぜだかわからないけど、イルカが好きだった」(写真提供/Dolphin Eyes)

英語7点だった僕が留学するまでに

―― それで、イルカの調教師になれる学校を選んだとか?

ダイスケ 僕は、田舎の中学校にいたんですけれども、イルカの調教師になるために必要なことは何だろうと思って、当時インターネットもないし、まずスキューバダイビングのライセンスを持っておくことと、海洋生物学を勉強することが大事だと思っていました。それなら、ハワイ大学の海洋生物学を学ぶのが一番近道だと思ったんですね。

―― なるほど。

ダイスケ 当時英語は7点だから、ハワイ大学なんて絶対行けないと思ったから、今できることは何だろうと思って、14歳のときに、中1の英語の教科書に出ている英単語を全部覚えて点数を上げることをしました。

―― でも、お父さんがアメリカ人なわけだから家では英語でしゃべるというのは駄目なの?

ダイスケ うちの父親はずっと英語でしゃべっていました。でも、僕からしゃべる自信がなかった。日本人が英語をしゃべれない90%の理由がそれです。間違いを起こすのを恐れてしゃべらない人がいるように。僕はそうでした。

―― では、ヒアリングはできた?

ダイスケ はい。でも、読み書きができなかったので、すごく勉強して、英語の点数がどんどん上がっていって、中間試験で7点だったのが、期末テストは80数点になっていた。1カ月半くらいで。

―― すごい。80点も上げたのね。

ダイスケ それで、自信が付いてきて、英語は結構いい点数取れるようになった。

―― 教科書をもう一度、勉強し直したの?

ダイスケ し直した。英単語をまず全部覚える。文法は「パズルみたいにひっくり返せばこうやって文ができるんだな」という仕組みを全部勉強したら、すごく英語の点数が上がった。

僕が夢を実現するために14歳から続けていたこと

―― ハワイ生まれでハーフというと、英語がしゃべれて当然みたいに周りは見ちゃうわけでしょう。

ダイスケ そうですね。でも、成績悪かった子の成績が上がると先生にも目を掛けてもらえるようになって、将来の夢を真剣に一緒に考えてくれるようになった。

―― そのとき、イルカの調教師になるという夢はみんなが知っていたの?

ダイスケ 中学校の卒業アルバムには「ハワイに行っても頑張れよ」とか書いてありました。

―― やはり、夢は公言したほうがいいのかな。

ダイスケ 絶対、言霊というのはあると思う。それで、こうなりたいというのを全部書き出して逆算していく。いきなりゴールを見ると途方に暮れて気が遠くなっちゃうので、砕いて砕いて小さくしていく。

夢に向かって着実に進んでいく。明るい未来が待っているはずだった(写真提供/Dolphin Eyes)
夢に向かって着実に進んでいく。明るい未来が待っているはずだった(写真提供/Dolphin Eyes)

―― それはいつからやっていたの?

ダイスケ 最初にしたのは14歳。

―― 14歳で何歳ぐらいまでのビジョンがあったの?

ダイスケ 18歳から22~23歳まで。

―― 10年先ぐらいまでを見据えて、今何をするかと遡って英語を勉強したわけですね。

ダイスケ そうです。14歳のときに勉強して、英語のレベルがアップして、中学3年生になったら第1希望の高校から推薦が来ました。で、最終的には英語のスキルをもっと上げるために、祖父母が住むミシガン州へ行き、父の母校の高校に留学したんです。それで、3年間で英語がしゃべれるようになりました。英検準2級くらいのレベルから。

―― すごいですね。

「イルカ愛は世界の誰にも負けない」(写真提供/Dolphin Eyes)
「イルカ愛は世界の誰にも負けない」(写真提供/Dolphin Eyes)

ダイスケ 夢をかなえるためには、イメージできることを砕いていく。一番大事なのが「自分が好きなことでないと続かない」ということ。ほとんどの人が挫折するのは、自分を分かっていないからだと思う。自分の素質というのは絶対あると思うし、自分の才能を知ることが大事。

―― それはどうやったらできると思う? イルカの調教師になるのに、自分はどうして向いていると思えたんだろう。だって、イルカに会ったこともないわけじゃない?

ダイスケ だけど、イルカ愛は世界の誰にも負けないぐらい自信があったから、それだけ。

―― じゃあ、「ダイスケさんと言ったらイルカ」みたいな感じで、誰もが納得したのね。

ダイスケ はい。周りがね。

ハワイ大学に行けるはずが……。絶望のふちに(写真提供/Dolphin Eyes)
ハワイ大学に行けるはずが……。絶望のふちに(写真提供/Dolphin Eyes)

―― で、高校を卒業して、ハワイ大学に行けたのかしら?

ダイスケ それが……。ハワイ大学の海洋生物学科の、GPAというアメリカの成績評価制度があって、それに受かったんです。「Congratulation」という手紙も届いて、「やった!」と思ったんだけれども、今度は入学金を支払わないといけなくなって、しかも学費が高くて。払える財力がなかったんです。当時はハワイに住んでいないインターナショナル・スチューデントは学費が1年で250万円、4年間で1,000万円だったんです。

―― 奨学金とかはないの?

ダイスケ 奨学金を借りようとしてアメリカの政府に問い合わせたら、奨学金プログラムはアメリカで税金を納めている親でないと申し込めないと言われた。両親は日本で仕事をしていたので。次に、日本のいろいろな奨学金制度を当たったんだけれども、日本の高校を卒業していないから駄目だと言われた。そこで自分のプランが崩れるわけですよね。

―― 目標にしていたハワイ大学に受かったのにね。

ダイスケ だから、僕は3浪しているんですよ。3年間、受かっているのに行けなかったんです。それで、絶望して、19~20歳のときはうつ状態でした。何をやってもうまくいかなくて、どん底でした。

志望の大学に受かったのに学費が払えず絶望の末に

―― その間、バイトしながらお金を貯めたの? それとも、諦めるという感じだったの?

ダイスケ 諦めかけていました。でも、変な話、「ハワイに行く」というのがずっと自分の心の中に残っていた。だけど、自分の中ではもうぐちゃぐちゃになっていたんです。

―― それはどういう感情なの? 今まで頑張ってやってきたことが絶たれてしまって、もう努力のしようがない、という感じ?

ダイスケ そうですね。右を向いても左を向いても駄目だったし、親にも頼れなかった。大学を諦めるしかないのかなと思った。そのときは日本に帰ってきていて、途方にくれた生活を送っていたときに、あるロックバンドのコンサートがあった。

―― うんうん。

闇の中から希望の光が見えた(写真提供/Dolphin Eyes)
闇の中から希望の光が見えた(写真提供/Dolphin Eyes)

ダイスケ 自分が好きな洋楽の歌手が大阪に来ることがあって、聞きにいったんですよ。それが2007年7月24日だったと思います。Guns N’ Roses(GN’R)というバンド。ちょっと頑張っていいチケット取って最前列で見られたんです。目の前で憧れの人が熱唱している姿を見て、初めて、神様が降りていると思える人を見ちゃったんです。

―― 降臨みたいな感じで。

ダイスケ そうです。魂をつかまれてしまって。「すげえ、この人のオーラ」と。それで、思ったんです。自分に自信を付けるためにはどうしたらいいのかというのは、やはり自分の好きなことをやって、それで結果を残せているとすごいオーラが出るんだな。自信がある人にはオーラがあるって。

「自分が好きなことをやって、自信がある人はオーラが違う」(写真提供/Dolphin Eyes)
「自分が好きなことをやって、自信がある人はオーラが違う」(写真提供/Dolphin Eyes)

―― 自分に自信がなくなって、やる気がなくなって「無理だ」と思うときに、やりたいことがやれている人のライブに行くと、実際に光って輝いて見えた。それで自分にエネルギーみたいなものを取り込めた。

ダイスケ 気持ちが上がったのを覚えています。それで、もう一回大学にトライしてみようと思って調べたら、ハワイ大学ではできなかったんですけれども、当時アリゾナ大学に心理学部があったんです。

―― 海洋生物学ではなくて。

ダイスケ はい。でも、心理学の勉強も必要だと思っていました。いろんな人と接するだろうから、心理学も分かっていたらいいなと。それまでに日本のドルフィンセンターに行ったことがあって、自閉症の子たちのプログラムがあるのも知っていたので。それで、通信教育で入学することにしたんです。

―― イルカの調教師になりたいという夢から、イルカの癒やす力に注目するようになったんですね。イルカと接するだけでなく、観客のことも考えなきゃと思っていたわけですね。

ダイスケ イルカショーをしている人たちは人とも接しないといけないから。そのころは対人恐怖というか、僕自身が八方塞がりで、気持ちはアメリカ人で日本に帰ってきて全然合わない感じだった。

―― アメリカ帰りだったから。

ダイスケ 人と接するのも怖くなっていたときに、母親が自営で英会話の先生をしていたんですけれども、そこの生徒さんでドクターがいて「うちの病院で受付をしてくれる人はいないかな」と、母に相談していたんです。僕でどう? と言ったら、「男性の受付はいたことがないから」となって、医療事務の仕事をすることになったんです。

―― そのときは、イルカの仕事をするのは諦めていたの?

ダイスケ どんな感覚だったんだろう。ちょっと覚えていないんですけれども。でもイルカが好きなのは変わりなくて。

3.11に聴いたライブで忘れかけていた夢を思い出した

―― 一筋縄ではいかなかったけれども、実際、どうやって夢をかなえたの?

ダイスケ 2011年の3月11日に大地震があった。その日に偶然、Jack Johnsonというハワイアンのサーファーのミュージシャンがいるんですけれども、ツアーで日本に来るとなって、大阪のライブが偶然3.11の日だったんです。

 彼のライブが始まる前に「今、日本ですごく大変なことが起きている。このあとの日程は全部延期にします。でも、今日は歌って帰るから楽しんでください」と。そのライブを聴いたときに、涙が止まらなかった。それで、「僕、ハワイに行かなきゃ」と思った。忘れかけていた夢を思い出したんです。次の日の3月12日に、ドクターに「1年後には辞めさせてください。自分の夢を追いかけたいです」と言いました。

人生がついに動き始めた(写真提供/Dolphin Eyes)
人生がついに動き始めた(写真提供/Dolphin Eyes)

―― ついに、動き出したんですね。

ダイスケ 当時、本当に貯金がなかったんで、1年で50万円貯めようと。アリゾナ大学の通信教育部には2007年に入ったんですけれども、2年の単位に5年掛かっているんですね。アルバイトしながらだったので。だから、大学を卒業できるのが2012年で、アメリカの大学は編入できるので、あとの2年をハワイ大学の海洋生物学で勉強して、そして、イルカの調教師になろうと思って、行くことを決意したんです。

―― いよいよ。

行ったこともないハワイ島へ単身向かって

ダイスケ それで、2012年にハワイに行くためにお金を貯めて。50万円あったら3カ月ぐらい生活できるかなと思って。ドクターにも「夢に向かっていくんですけれども、駄目だったら、もしよかったら受け入れてください」と言いました。

―― 何て言われたの?

ダイスケ 「いつでも戻っておいでね。待っているよ。頑張ってこい」と言われました。

「僕が夢を止めることはできないから」と言われたので「ありがとうございます」と言って、2012年の9月24日にハワイに向かいました。

―― 素敵な先生。でようやく、ハワイ大学に行けたのね?

ダイスケ それが、行ってないんですよ。

―― 行ってないの?

ダイスケ 飛行機のチケットを取って、とにかく行こうと思った。それまでハワイ島に行ったことなかったので。

―― え? そうなの? 行ったことないところにいきなり住むみたいな。

ダイスケ そう。知り合いもいない状況で。ただ、9月に行くとなったら6月ぐらいから調べ始めるじゃないですか。ハワイ島がどんなところかとか、どこでステイするのかとか。そうしたら日本人が経営しているゲストハウスがあって、そこだったら月いくらとか分かったので見積もり取って、生活費のことまで計算したら3カ月50万円でできた。

―― よかった。

ダイスケ そこの人とメールのやりとりをしていたら、僕の当初の予定では大学に行く予定だったんだけれども、ハワイアンになれば学費が4分の1で行ける。それで、2013年まで1年間、仕事をして税金を納めてハワイ大学に行くことにしようと思ったんですね。そうすればお金がすごく浮く。

―― 確かに。

まさかの展開であっという間に夢がかなって

ダイスケ ゲストハウスの人が「ダイちゃんはどういう仕事がしたいの?」と聞いたので、「僕は日本語と英語ができるのでホテルの受付とかでも大丈夫です」と。でも、夢のことも話したら「イルカのガイドを探している人がいるから」という話になって、今の会社の上司と話すことになったんです。

―― 急展開ですね。

ダイスケ そういう話になったときに、ドルフィンガイドという仕事があるんだと知ったんです。それで、ハワイ島でイルカのガイドをしている会社すべてにメールを送った。そしたら、今の会社だけちゃんと連絡が返ってきて、他の会社からは来なかった。

―― 何カ所ぐらいに連絡したの?

ダイスケ 当時は4カ所。連絡が来た1カ所で、今働いている。9月24日にこちらに来て、9月25日からずっと今まで。

―― え~、すごいですね。そこから毎日働いているわけだから、海洋生物学の勉強は独学でしたの?

ダイスケ はい。結局、アリゾナ大学の通信教育部に行きましたが、5年間の時間とウン百万円という金額を出しました。もちろんマイナスではない。でもかなり遠回りしましたね。

やっと、念願のイルカと会えることになって(写真提供/Dolphin Eyes)
やっと、念願のイルカと会えることになって(写真提供/Dolphin Eyes)

―― 大学に行くつもりがいきなりドルフィンガイドをすることになった。

ダイスケ はい。ハワイ島に着いたら、今の社長が空港まで迎えにきてくれて、「港はここだよ」と全部説明してくれて、そこからやったことのないドルフィンガイドを始めた。それまで野生のイルカと泳いだこともなかった。

―― え~。いきなり。経験者求む、ということはなかったんだ。

ダイスケ ハワイ島の現状として、ビザを持っていて、英語も日本語もしゃべれる人はすごく少なかったんです。ドルフィンガイドになりたいとかイルカ関係の仕事をしたい人はいっぱいいるんだけれども、ビザがないから仕事ができない場合がほとんどです。僕はお父さんがアメリカ人でアメリカ国籍があったので。

初めてイルカに会ったときは泣けてきた(写真提供/Dolphin Eyes)
初めてイルカに会ったときは泣けてきた(写真提供/Dolphin Eyes)

―― わあ、よかったですね。今までの話を聞いていたら、もう運命としか思えない。夢をかなえてみてどうですか? ずっと子どものころから思っていた夢をかなえたときはどんな感じ?

ダイスケ ホッとはしましたよね。

―― 初めてのガイドというか、海に行ってイルカと会ったときのこと、覚えている?

ダイスケ 初めてイルカと泳げたときは「ワー」と泣いたし、「やっと来た」という感じは覚えているんですけど、正直、余裕がなかったです。だって、ガイドとしてお客さまと接しないといけなかったので。

―― いきなり?

ダイスケ いきなりです。

―― 最初は練習で泳いだわけじゃないんだ。

ダイスケ ないです。だから、余裕が全くなかったです。余裕ができたのは数カ月たってからです。

「今の仕事をして、すごく幸せ」(写真提供/Dolphin Eyes)
「今の仕事をして、すごく幸せ」(写真提供/Dolphin Eyes)

まさに天職

―― イルカと一緒に仕事をするというのは、今思うと、どういう感じ?

ダイスケ 僕には本当に天職です。自分が好きなことをして、みんなに広めることができて、それで喜んでもらえるし、すごく幸せです。憧れだけで入ってすぐ辞めちゃう人もたくさんいます。すごく大変だし、朝も暗いうちから動かないといけないし。体力は使うし、命に関わる仕事だし。お客さんの機嫌を損なわせないような気遣いもいる。人の顔色を見るのは得意になったかな。

―― 一度も「こんなはずじゃなかった」ということはないんだね。やればやるほど楽しい?

ダイスケ はい。もちろん、大変なこともありますよ。でも、いろいろな人と接しているうちに「ダイちゃんが一番楽しんでいたらいいんだよ」と言ってくれる人が多くなって、今度は自分のために海でイルカの写真を撮り始めたんです。

―― それが写真家の道につながっていくんですね。

ダイスケ ツアー客の方に、その日に撮ったイルカの写真を送るという作業をしていたんだけれども、そのうち、Facebookページを立ち上げたんです。「今日のイルカ」というような投稿をして。すると、どんどんフォロワー数が増えていった。そうやっているうちに、雑誌の取材やテレビ番組に出るようになって、「ハワイ島のイルカ=ダイスケ」になっていった。

「イルカ=ダイスケ」と評判に(写真提供/Dolphin Eyes)
「イルカ=ダイスケ」と評判に(写真提供/Dolphin Eyes)

―― じゃあ、ダイスケさんは「イルカとコミュニケーションできる人」みたいな感じで有名人になっちゃったんですね。

ダイスケ とにかく、がむしゃらに毎日泳ごうと思って。もちろんジャパニーズ・コミュニティーもあるんですけれども、ハワイ島のツアー業界はほとんど外国の会社なので、外国の船長にリスペクトされるように毎日海に出ていた。「あいつ、毎日いるな」と言われるように。僕よりキャリアが長い人もハワイ島にいるけれども、海に出ている回数は僕のほうが上になっちゃっている。

―― ダイスケさんは、海に入っているのはナンバー1ぐらいなの?

ダイスケ 日本人では。外国人で毎日泳いでいる女性もいる。

―― ツアーだけじゃなくて、プライベートでダイスケさんにガイドしてもらいたいみたいな、そういうプライベートガイドもあるんでしょう?

ダイスケ あります。自分で小さな会社をつくって、プライベートで案内することもあります。それは、ハワイ島のイルカだけじゃなくて世界中のイルカと泳ぐ。

夢をかなえた経験者だからこそ伝えたいことがある(撮影/佐藤智子)
夢をかなえた経験者だからこそ伝えたいことがある(撮影/佐藤智子)

―― リピートもあるんですか。ガイドによってイルカに会えるか会えないか変わってくるような気がするし。

ダイスケ ありますね。仕事なんですけれども、お金が一番先に動いているガイドさんと、「好き」が一番で動いているガイドさんとでは全然違うと思うんですよ。でも、これはガイドが言う話ではなくて、お客さまが決めること。

―― 押し付けたりせずに。

ダイスケ そう。どのガイドがいいとか、どのガイドが悪いとかいうわけではない。本当に「好き」というのでやっていると伝わると思う。

―― どうしてダイスケさんは自分の夢がかなえられたんだと思いますか。

ダイスケ 周りの人のご縁と、あとはチャンスを逃さなかった自分。自分の直感を信じて動けたところ。全部恐怖なんですよ。留学するときも恐怖、ハワイ島に初めて来るときも恐怖。心臓が口から出てくるような思いを何回もしているんですけれども。とにかく動いたということが、すべてだと思っています。

●第1回インタビュー記事はこちら。

●第3回インタビュー記事はこちら。

プロインタビュアー、元女性誌編集者

著書『人見知りさんですけど こんなに話せます!』(最新刊)、『1万人インタビューで学んだ「聞き上手」さんの習慣』『みんなひとみしり 聞きかたひとつで願いはかなう』。雑誌編集者として20年以上のキャリア。大学時代から編プロ勤務。卒業後、出版社の女性誌編集部に在籍。一万人を超すインタビュー実績あり。人物、仕事、教育、恋愛、旅、芸能、健康、美容、生活、芸術、スピリチュアルの分野を取材。『暮しの手帖』などで連載。各種セミナー開催。小中高校でも授業を担当。可能性を見出すインタビュー他、個人セッションも行なう。

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