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リスナーからの1通のハガキが運命を変えた 声優・日髙のり子が天職に出会うまで

佐藤智子プロインタビュアー、元女性誌編集者
還暦を過ぎても変わらない若々しさの日髙のり子さん(撮影/石田潤)

 やりたい仕事がなかなかできない。そんな経験は誰にでもあるかもしれない。

 夢を叶えるために、あれこれと勉強して、努力して、経験を積んでいく。目標を達成するように。しかし、頑なに握りしめた夢ではなく、思わぬ人生の流れに乗っていく。すると、どんなことが起きていくのか。

 国民的ヒロイン、アニメ『タッチ』の浅倉南として、一躍有名になった日髙のり子さん。当初は、女優になりたかったという。

 そのために、引っ込み思案な性格で、歌も苦手だったけれど、アイドル、歌手にもなった。いただける仕事は何でも頑張った。

 しかし、人生は思わぬ方向に。それを残念に思うのか、ラッキーと思うのか。

  日髙のり子さんが教えてくれる、ゆるやかなチャンスのつかみ方とは。

なりたいわけではなかった声優の仕事が天職に

―― 『天職は、声優。』という本を出されていますが、実際そう言い切れる感じですか。

日髙 はい。自分自身が元々は女優になりたかったり、歌手としてデビューしたりという経緯の中で、声優の仕事に就いた時が、一番世の中の人たちに私のことを知っていただけたのと、声優になってからは、とんとん拍子に進んでいって。常に新しい役、やってみたいチャレンジもたくさんできました。オーディションを受けて、合格して、やらせていただいて、評価を頂いて。すごく手応えを感じたのが声優という仕事だったんですよね。

―― どういう感覚だったんですか。

日髙 本当に楽しくてしょうがなくって、最初は。とにかく上を目指して頑張ってる時は無我夢中で、下手なりに若さがあって勢いがあって、技術だけではない、プラスアルファのエネルギーが相まって、自分としてはキラキラした感じ。ですが、やっていく中で途中で気付くんですよね。この仕事には、ゴールがないということに。

デビュー40周年を記念して、自ら書き下ろした著書。今までお世話になった方々、声優仲間など、たくさんのメッセージをいただいた宝物の一冊(撮影/佐藤智子)
デビュー40周年を記念して、自ら書き下ろした著書。今までお世話になった方々、声優仲間など、たくさんのメッセージをいただいた宝物の一冊(撮影/佐藤智子)

私の声は変な声

―― デビューして42年、声優になって。

日髙 38年ですね。

―― 女優さんを目指されていたけれど、最初はアイドルをされていた。

日髙 レコード会社の方から、アイドルでデビューして、歌で名前を全国の人に知ってもらってから女優を志したほうがいいとアドバイスを頂いて。

―― ご自身としては、アイドルとか歌ってどうでした? やりたかったことですか。

日髙 まず、歌が上手じゃないって自分で思っていたので、自信がなかったですね。それは、児童劇団時代に、ミュージカルをするんですけど、私が歌うと、声が目立つ上に音を外すので、歌のシーンを詩の朗読に変えられたりして、私は歌が得意ではないと、気付いてしまった。

―― 直接、人から言われたんですか。

日髙 はっきり言われたことはないんですけれども。ミュージカル用にレコーディングするんですが、メンバーに選ばれて合唱をした時に、私だけスタジオから出されるっていう(笑)。

―― そんなあからさまな(笑)。

日髙 それが小学生の時。ちょっと休んでてって言われたんですけども、意味が分かるじゃないですか。

―― 声が、人より目立つという、声に対するコンプレックスはあったんですか。

日髙 はい。小学校の時に、クラスの出し物でセリフを録音したんですよね。自分の声を聞いた時には、キンキンしていて声が通るっていうか、自分で変な声って思えて。

 その後、劇団時代に、学園ドラマに出た時に、「あの面白い声の人は誰ですか」みたいな質問が来たりとか。だから、私の声は特徴はあるけど、変な声、と認識していました。

アイドル時代は、一つ上は松田聖子さん、一つ下は松本伊代ちゃんたちで

―― 声に特徴があるって気付いたのが、何歳ぐらいですか。

日髙 10歳で劇団に入って、6年生ぐらいですね。

―― 性格は大人しい、目立たない子だったと本に書かれていましたけれど。

日髙 声は合唱すると目立っちゃうのに、性格的には引っ込み思案でした。

―― デビューされた時は、アイドル全盛期で、周りがみんなアピールするような時で。

日髙 アイドル番組に出た時に、エンディングになると、ワーッて、カメラによく写るように最前列を取る勢いで行かなければダメだって、レコード会社の方にも注意されたんですけど、「どうぞ、どうぞ」っていうところがありましたね。デビューした時が、もう高校を卒業していて。最初の1年目は短大に通いながらでした。

―― ちょっと大人な感じですか。

日髙 そうなんです。他のアイドルの子たちは、16、17ぐらいの高校生で、地元を離れて東京に出てきて、テレビに出ること、夢が叶ってうれしくて仕方がないっていう勢いですよね。

―― 当時の同世代はどんな方たちですか。

日髙 松田聖子さんは1年上でしたけれど、もう既に大スターだったので、私たちにとっては、聖子ちゃんみたいになれたらいいなっていう気持ちは、心の中にはありましたけど。松本伊代ちゃんたちが1年下で。前の年と後ろの年がものすごく華やかで。みんな、日々忙しそうにしてたんですけれど、私は『レッツゴーヤング』と、『たのきん全力投球!』と、鶴光さんの『オールナイトニッポン』のレギュラー3つだけ。

―― あんまり忙しくなかった。

日髙 こんなに私、ゆとりを持っていていいのかしらというくらい。

リスナーからの1通のハガキが運命を変えた

―― 声優になられたきっかけは、ラジオ番組にリスナーさんからハガキが届いたんですよね。どういうシチュエーションで届いたんですか。突然?

日髙 突然。普通のお便りの中に1通混じっていて、「日髙さんは声に特徴があるので、声優の仕事に向いてるんじゃないんですか」って書いてあったんですよね。

―― それを読んだ時に、「そうだね」と思ったのか、それとも、「いやいや、そんなことはない」と思ったのか。

日髙 「そうか!」と思いました。

―― ちょっとチャンスみたいな感じで。

日髙 はい。「それには気が付かなかった」っていう感じですね。とにかく私は、お芝居がしたかったんですが、お仕事が少なかった時期もあって、自分でこの状況を打破しなくちゃいけないと思って、ラジオ番組とか萩本欽一さんの番組のオーディション、リポーターのお話も、ひるまずに何でもいただけるお仕事はやってみようと挑戦しました。それが幾つか実を結んで、ラジオの番組も始まって、萩本欽一さんの番組にも、レギュラーで出演させていただいて。仕事が、少しずつ埋まっていってた頃だったんです。

―― じゃあ、大人しくって前に出られなかったのを、積極的に何でも挑戦しようと変えたということですか。

日髙 そこがすごく難しいところなんですけれど。やっぱり芸能界で長く働きたかったので、アイドル歌手になった時に、振り付けを覚えたり、歌のお稽古をしたり、自分の与えられたものを貪欲に頑張っていれば、いつか人の目に届くって。それは、何も人を押しのけて前に出ることではないって、思っていたんですね。

女優になりたかったのに、ちびっこマラソン番組のレギュラーに

―― 例えば、仕事がない時って、私、この仕事向いてないんじゃないかとか思いますよね。

日髙 そうですよね。仕事はないとはいうものの、NHKとTBSとニッポン放送でレギュラーを3つ持ってるっていうのは、ものすごく恵まれた状況だったんです。だから変な話、そんなにいろいろ働かなくてもいいんじゃないのって。

―― 不満があったわけじゃないんですものね。

日髙 そうです。お仕事がなくなったのは、アイドルが終わった直後です。『レッツゴーヤング』を卒業する時に、レコード会社の方に、「私は、お芝居をやっぱりやってみたい」と告げたら、うちはレコード会社なので、そっちの応援は難しいって、プロダクションを紹介していただいて。一つお土産となるような番組を取ってくださったのが、『おはよう!サンデー ちびっこマラソン』という番組。コント赤信号さんが司会で、私がアシスタント。3月まではNHKホールでスポットライトを浴びて歌っていたのに、4月からはジャージーを着て、子どもと皇居の周りを走るという。

女優になれるならと、引っ込み思案で歌が苦手でも、アイドルも歌手活動もいただいた仕事は何でもやった(撮影/石田潤)
女優になれるならと、引っ込み思案で歌が苦手でも、アイドルも歌手活動もいただいた仕事は何でもやった(撮影/石田潤)

―― そこで、「私は女優になりたいんです。そういうのを目指してるんじゃないです」とは言わずに、来た仕事をやりますみたいな。

日髙 ありがとうございますっていう感じで(笑)。だって、女優のお仕事はレコード会社では無理と言われたので、その中で頑張ってお仕事を取ってくださったっていうのは、私は愛情だなって、ありがたくお受けする形で。

 でも、そこに行ってみたら、メークの仕方を覚えたのが歌番組だったので、子ども番組にはお化粧が濃かったようで、リーダーの渡辺正行さんから「おまえ、化粧が濃いぞ。これは子ども番組だぞ」って言われて、そうかと。

―― 誰かが何かを先に示してくれるわけじゃなくて、全部体験で学んでいく感じだったんですね。

日髙 そうなんです。それがずっと続いて現在に至るっていう感じなんですよ。だから、ラジオ番組にハガキが来た時も、「その手があったか」と思えたんです。

―― 素直に受け入れる。

日髙 はい。その1通のお便りから、声優になったらセリフがしゃべれるんじゃないかって思い立って、「私、声優の仕事やってみたい」とマネジャーさんに言ったんです。自分の意見を言わない子がはっきり言ったのが印象的だったと後で聞きました。

声優になるための準備を何もしていなかった私

―― やっぱり芸能界では大人しいだけでは生き残れない、チャレンジもしていって。でもその当時、声優がどんな仕事かってご存じだったんですか。

日髙 アニメーションに声を入れる仕事だっていうことは分かってました。でも、細かくは分からなくて。ただ、演技ができると思ったんです。私はとにかくその頃、演じることに、すごく飢えていたので、セリフがしゃべりたい思いが強かったんですね。

―― それまでは、あんまり演技の仕事がなかったんですよね。

日髙 そうです。最初は、ドラマや舞台に出演する機会はあったんですが、歌手デビューをしたら、全く仕事の流れが変わってしまって。だから、声のお仕事がしたいというより、演技がしたいって。

―― 声優になるに当たって、何か準備されましたか?

日髙 実は何もしてなくって(笑)。お仕事が入るか入らないかばっかり気にしていて。アニメーションを見て、声の研究をするとか一切してなかったですね。考えてみれば。

苦手だった歌のおかげで役が取れた

―― 役がもらえた時に、実際に、アフレコの現場はどうでしたか。

日髙 まず、最初の役を手にすることができたのは、歌が歌える子を探していたっていうのがあって。歌で思いを伝えるというので、1曲レコーディングをしたんですよね。共演者の方たちからは、よその世界からこの作品だけ入った子という印象だったと思います。

―― ゲスト出演みたいな。声優を一時的に挑戦しているように思われた。

日髙 はい。これが声優としてデビューして、声優の事務所にいたら、演技のこととか、その場での過ごし方とか、いろんなところで注意を受けてた可能性はあるんですけれど、お客さまみたいな扱いで。すごく皆さんが優しく接してくださって。それもあって私は、声優業界って温かくて素晴らしいなって思ったんですね。

―― その役が取れたのが、苦手だったはずの歌で。身を助くわけですね。

日髙 そうなんです(笑)。それが、不思議で。しかも、私、歌ってるんです、ライブとかで。なんなんでしょうね(笑)。

―― 苦手だと思っていたのは自分だけで本当はそんなことはなかったんじゃないですか。

日髙 小学生の時のあの傷付いた経験、みんながスタジオで歌っているのに、1人だけ外されて廊下でポツンと過ごすというね。あれが相当、自分の中のトラウマだったんですが。

―― それだけ合唱のグループの中で、声が目立った。唯一無二だったってことですよね。

日髙 今から考えれば、そうなんでしょうね。歌唱指導の先生からは、こてんぱんに叱られました。コーラスをやった時に、音を外すと、私の声が一番目立つので。「のり子は、個人レッスンも通ったほうがいい」と言われて、通うことになって。

―― でも、それで鍛えられたっていうのもありますよね。

日髙 あります。だけど、発声の段階から、先生に、「君の声を聞いていると、よだれかけを掛けてやりたくなる」と言われました。いわゆる、当時の私は抜きん出てアニメ声だった可能性はありますよね(笑)。練習曲がロッド・スチュワートの「Sailing」で。「アイ・アム・セーリング」の「ア」って言っただけで、「なんだその声は!」と。キーンときちゃうんでしょうね。

セリフを言えること、演じられることがありがたかった(撮影/石田潤)
セリフを言えること、演じられることがありがたかった(撮影/石田潤)

音響監督さんの言う、「緑の思いで声を出す」って?

―― アフレコをしてみてどうでしたか。

日髙 まず叱られることはなかったです。音響監督さんの思いを必死に理解しようと頑張って、もっとこういう感じ、ああいう感じっていうのに、食らい付いていきました。

 最初は一声出すだけで緊張するというところから始まって、言われていることを正しくやるためにはどうすればいいのかということに意識がだんだん変わっていきました。

―― すぐに演技のほうに入れたんですね。

日髙 多分それは、録り直しで自分だけ千本ノックみたいな形でやったからだと思うんですけど。音響監督さんが、抽象的にダメ出しを出される方だったので。

―― 例えばどんなふうな。

日髙 初恋みたいな感じで思いを伝え合う、とか。男の子に対する思いを、「緑の思いを出してください」って言われて。「え? 緑の思いってどんな思いなんだろう」って考えて。難しいですよね。

―― 最初の現場が、それだったんですか。

日髙 そうなんです。それで、緑の思いを、自分で一所懸命想像して、緑っていうと新緑の頃の爽やかなキラキラした感じ、こうかな、ああかなと試しながらやっていく。それが当たる時もあれば外れる時もあって。多分5回以内にはOKもらえたと思います。

「いくら悲しい顔しても声が悲しくないとダメなんだよ」と言われて

―― アフレコの現場自体は、違和感ありましたか? 

日髙 まず、当時は映像がフィルムだったので、映画館のように、電気を消すんですよね。そして、マイクの横に手元を照らすための電球がついていて、その下に台本を持って、読むんです。その電気が薄暗くて見づらい。本番になると明るかった電気が消えて、しーんとなって、カタカタって映写機の回る音がかすかにして、どんどん緊張していく。怖かったですね。今だと簡単に、電気はもちろんついた明るい部屋で、クルクルって戻ったり、デジタルですので全然雰囲気が違います。

―― 自分の顔が映らない、声だけというのはあんまり違和感がなかったですか。

日髙 それは全くなかったんですけど、ただ、注意されたこととして、「悲しいセリフを言うのに、あなたは悲しい顔をしているけれども、顔がいくら悲しくても声が悲しく聞こえなければダメなんだよ」と注意を受けました。

―― それは、どういう意味ですか。

日髙 例えば、ドラマに顔を出して出演していれば、その人の顔が悲しそうになっていれば、これは悲しんでるんだなって伝わりますよね。だけども声だけのお芝居になると、声優が悲しそうな声で演技を足さないと、そのキャラクターが悲しんでいるように見えないっていうことがあるんですよね。

―― 表情で表現できない分、声に乗せないといけないっていうことですね。

日髙 はい。だから、声優というのは、感情を声に、もう一さじ乗せないとダメなんだなっていうことを、そこで知りました。

声優って、見た目にとらわれず、どんな役でもできるのがいい

―― そういうことが分かってくると、声優という仕事の深みを感じて、もっとやりたくなりますよね。

日髙 そうなんです。例えば、悲しそうにセリフを言う時に、ちょっとだけ声を震わせるとか、合間、合間の息づかいで、ちょっと切ないため息を入れてみるとか、台本には書いてないんですけれども、これを加えたら、よりキャラクターの感情が伝わるだろうなと自分なりに工夫してやっていくんですが、それがうまくはまった時はすごくうれしいですし。

―― じゃあ、声優の仕事をやってみたら、すごく楽しかったってことですね。

日髙 楽しかったですね。演じることに対して、こんなに深掘りできるなんてと。

―― 女優さんになりたい方って、全身で表現して、自分が画面に出たいと思うような気がするんですけど、そうは思わなかったんですね。

日髙 とにかく私は演技がしたかったので。声だけの演技の魅力を最初のお仕事で気付いてしまって。例えば、1人の人がいろんな役の声をしていたりとか。若い人でもおじいちゃんやったり、女性が男性をやったりとか男の子やったりというのも魅力で。

 自分の姿を出したら、自分の見た目のイメージで役が限定される。私は中学生だったら、やっぱり「金八先生」には出てみたいと思ったけど、願いが叶わなかった。だけれども声だけだったら、年齢関係なく、どんな役でもチャレンジできるんだっていうところがすごく面白いなと思いました。本人の見た目にとらわれずに役柄が広がるんですから。

―― 逆に演じる幅が広がるチャンスがありますね。

日髙 はい。その可能性に夢中になりました。

国民的ヒロイン『タッチ』の浅倉南を演じたら

―― それで、声優デビューして1年目で、『タッチ』の浅倉南役にって、すごいですよね。運を引き寄せてるというか。

日髙 そうなんです。最初のアニメが終わって、次に受けたオーディションに受かって、そのアニメの終わりごろに受けたのが『タッチ』で受かったんですけれども。

―― その『タッチ』、浅倉南の役がすごく社会現象になるっていう。みんなが知っている国民的ヒロインの南ちゃんになるって、どういう感じだったんですか。

日髙 もう、ほんとに訳が分からない感じと言いますか。南ちゃんとして呼ばれることがすごく多くて、ラジオだったりCMだったりテレビ番組だったり。いろんな番組に、私は南ちゃんとして呼ばれて行って、必ず南ちゃんのセリフを言って帰ってくるみたいなことがあって。だから、アニメーションの収録は週に1回のはずなのに、毎日どこかで南ちゃんの声を出しているっていう日々だったんですね。

―― そのうち南ちゃんになっちゃいますよね。

日髙 そうなんです。それで、自分の声だったっていうこともあって。

―― 南ちゃんの声が?

日髙 地声(笑)。結局、最初から声をつくるっていうことはせずに、私の特徴的な声をそのまま拾っていただいて、このままでいいんだという感じでやらせていただいたので。ただ、南ちゃんは中学生で、途中から高校生になりましたけれども、ちょっとセンチメンタルになるようなセリフを言う時が、私の声のトーンが落ち過ぎてしまう。

 だから、明るくしゃべってる時は南ちゃんの声になってるんだけれども、気分が落ち込んでぽそっと言うセリフが、大人びてしまうところがあって。実年齢が出ちゃうのが。

―― その時、何歳だったんですか。

日髙 22歳ですね。「気持ちは落ちてるけど、声は落とさないで」って言われたり。すごく難しかったです。南ちゃんの声をキープしながら、気持ちの落ち込みを表現する。人間って、落ち込んだ時の声って沈みがちになると思うんですけど、私が想定した声が、南ちゃんとしては低過ぎちゃったんです。

自分なのか、南ちゃんなのか、わからなくなって

―― 南ちゃんというイメージが一人歩きして、南ちゃんはそういうこと言わないとか、南ちゃんだったらとか、そういうことを言われ始めるんですね。

日髙 それはもう、最初からだったんですけど。

―― 最初から?

日髙 最初っからです。例えば南ちゃんがたっちゃんを追い詰めて怒ってるシーンがあったら、本気で怒ったらこのくらいって思う私のテンションが、南ちゃんから逸脱してしまっているって言われて。きつ過ぎるって。

―― 南ちゃんは、そんな怖くないよ、みたいな。

日髙 そう。怒っても南ちゃんは優しく、というイメージがあって。

―― そうなると、南ちゃんに寄せていくんですか、自分のキャラクターも。いろんな番組に出る時も。

日髙 私は、普通にしゃべってるつもりなんですけど、司会者の方は、南ちゃんに聞こえるみたいなんですね。まず言われるのが、「普段から南ちゃんなんですね」って。私としては、南ちゃんのしゃべり方の特徴や、あだち充先生のゆっくりとしたテンポもあるので、自分の声だけれども、南ちゃんと自分はイコールとは思ってなかったんですが。

 全てを演技でっていうところまで成長してなかったので、お芝居として分からないところがあると、自分だったらどうするかなと思って、自分でセリフを言って、その声が低いなら、ちょっと高めでやればいいんだって、つくっていったので、恐らく、ちょいちょい南ちゃんの中に日髙が入ってるんじゃないかと。

浅倉南の声を今も喜んでくださる方々がいるのがうれしい(撮影/石田潤)
浅倉南の声を今も喜んでくださる方々がいるのがうれしい(撮影/石田潤)

―― 日髙さん自体が、南ちゃんに似てるというか、全くキャラクターが離れてない。明るくって元気で、優しくって。だから、全然違和感がないんですけどね。

日髙 自分でも、毎日、南ちゃんのセリフを言っているうちに、自分なんだか南ちゃんなんだか。最初は行ったり来たりしていたはずなんですけど、どんどん、行ったり来たりの幅が狭くなっていって、自分なのか南ちゃんなのか、分からなくなっちゃうところもあって。その頃には、南ちゃんのラジオ番組とかも始まったんです。

―― 南ちゃんのキャラクターでラジオ番組をする。

日髙 そうなんです。だから、「浅倉南です」って始まって、全編南ちゃんで通すんですね。受け答えを南ちゃんでしなくちゃいけないので、何か聞かれたら一回変換してからしゃべらなくちゃいけない。フリートークもこなしていたので、常に南ちゃんだったらどうしゃべるっていうのが頭の中にずっと残ってる感じ。

南ちゃんのおかげで、この先順風満帆と思っていたら

―― そんなふうになってくると、南ちゃんのおかげで仕事も来る反面、他のお仕事の邪魔をするってこともありますよね。

日髙 多分、あると思います。私は当時まだそれに気付いていなくて。それまでのキャラクターに合わせて、大人しいから、自分の声でか細くしゃべったり、次にやった女の子は、バイクを乗り回すような元気のいい子だったから、自分の中の元気のいい部分をいっぱい使ったり。南ちゃんは元気なところと優しいところのミックスでやっていたので、キャラクターが変われば大丈夫なんじゃないかと、私自身は思っていて。

―― 自分の中で使い分ければいいと。

日髙 そうなんです。ですけれども、周りの先輩方が、一つ大きな役が当たってしまうと、この先イメージが付いちゃって難しいよねって言われた時に、初めて、私、難しいのかって気付いたんです(笑)。南ちゃんでこんなにお仕事も増えたから、私、これから順風満帆だと思ってたんですけど(笑)。

―― そこでイメージを払拭しようとしたんですか。

日髙 はい。ですけど、やっぱり来る役がヒロイン系の女の子で、ものすごく気が強いというよりは優しくってっていうタイプの女の子だったりしたので。

―― 皆さんもよく言われていますが、声が正統派のヒロイン声ですから。

日髙 何かね(笑)。

アイドルと声優の両方を経験して

―― アイドル時代と声優になってからと、どれくらい変わりましたか?

日髙 お芝居に関しては、10歳の頃からやっていた自負もありましたが、やっぱり声優の演技というのは特殊なところもあって。『タッチ』のような感情表現が難しい役に当たってしまうと、自分の演技が足りないと感じてはいたんですが、手応えは一つ一つ、つかめていました。

 歌の世界は、自分がいくら頑張っても出したレコード、CDが売れなければ、それが評価につながらない。順位で測られてしまうと、努力すれば叶うというものでもない。現実の厳しさみたいなものがあって。それと比べると、できるようになっていく自分っていうのは、確実に手応えとして感じていたので、もっとうまくなりたい、もっといろんな役ができるようになりたいっていう気持ちがどんどん湧いてきて。

―― 『タッチ』の浅倉南をやったことで、金字塔というか、芸能界で成功したという感覚はありましたか。

日髙 結局有名なのは私の声と南ちゃんの顔なんですよね。なので、声はもう、ほんとに有名だなと思いました。どこで声を出しても、皆さんが南ちゃんだと気付く。

―― 日髙さんの場合は、アイドルもされてたから、あの日髙さんが、みたいに名前も覚えてもらっていますよね。

日髙 最初の頃は、日髙のり子が声優になった、とすごく言われて。できるのかみたいに言われてたところも、心配されたところもあったみたいですし。だけど私個人の評価というか、道を歩いていれば誰かが気付くというところまでではなかった気がします。ただ、南ちゃんでテレビによく出るようになってからは、確かに気付かれる方もすごく多くなって。ますます日髙さんというよりは、どこ行っても南ちゃんと言われて。

 南ちゃんが社会現象になって、バラエティーやワイドショーに呼ばれたり、挙げ句の果てにはニュース番組で、「南ちゃんを探せ」っていうコーナーができたりとか。そういう意味で、日本全国、南ちゃんを知らない人はいない状況に。ものすごく有名なアニメキャラクターだと思います。アニメファン以外も、みんな知っているヒロインだと思いますね。

インタビュー後半記事

『ETCの声も私の代表作 声優・日髙のり子が「浅倉南」のイメージを払拭するためにしたこと』

プロインタビュアー、元女性誌編集者

著書『人見知りさんですけど こんなに話せます!』(最新刊)、『1万人インタビューで学んだ「聞き上手」さんの習慣』『みんなひとみしり 聞きかたひとつで願いはかなう』。雑誌編集者として20年以上のキャリア。大学時代から編プロ勤務。卒業後、出版社の女性誌編集部に在籍。一万人を超すインタビュー実績あり。人物、仕事、教育、恋愛、旅、芸能、健康、美容、生活、芸術、スピリチュアルの分野を取材。『暮しの手帖』などで連載。各種セミナー開催。小中高校でも授業を担当。可能性を見出すインタビュー他、個人セッションも行なう。

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