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プログノーシスに跨る男が、早世した母に気付かされた”残された者がすべき事”とは?

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
プログノーシスと清山康成調教助手

母のサポート

 今春の大阪杯(GⅠ)を制したジャックドール。昨年、香港でGⅠを勝ったウインマリリン。更には一昨年のダービー(GⅠ)馬シャフリヤール等、豪華メンバーの揃った今年の札幌記念(GⅠ)。しかし、それらを一蹴して勝利したのはプログノーシス(牡5歳、栗東・中内田充正厩舎)だった。

 「入厩した当初から良い馬だと感じました。ただ、体が弱くて、かたくなり易かったため、続けて使う事が出来ませんでした」

 同馬についてそう語るのは中内田厩舎で調教助手をする清山康成。1988年12月生まれの34歳だ。

札幌記念を勝利したプログノーシスと向かって左が清山康成調教助手(写真提供=東京スポーツ/アフロ)
札幌記念を勝利したプログノーシスと向かって左が清山康成調教助手(写真提供=東京スポーツ/アフロ)

 「父(功一)が調教助手をしていたため幼い頃からトレセンに出入りし、一緒に競馬場へ行く事もありました」

 小学5年になると乗馬を始め、騎手を目指した。

 そんなある日の事だった。母の照美が交通事故に遭った。それ自体にも驚いたが、その際の精密検査でもっと大きなショックに襲われた。

 「脳に病気が見つかり『いつ亡くなってもおかしくない。もって10年だろう』と宣告されました」

 当時、まだ小学生だった清山は、不安な毎日を過ごす事になった。

 「夜、ふと目が覚めてしまい、生存確認のために母を起こすなんて事も、しょっちゅうでした」

 しかし、そんな気持ちを知ってか知らでか、母は逆に清山をサポートしてくれた。体重が増えたため、騎手は諦めたものの、中学でも高校でも乗馬を続けると、母は常に無償の愛でサポートをしてくれたのだ。

 「毎朝5時に起きて、乗馬クラブで馬に乗った後、登校するような生活をしていたのですが、母は、朝の送迎は勿論、大阪や兵庫、和歌山等での大会にも、欠かさず応援に駆けつけてくれました」

 そんな助けを受けて乗馬の腕は上達。インターハイに出場するほどになった。

 「インターハイもそうですが、大会では負ける事もあったけど、そんな時も母は常に見守ってくれていました」

清山調教助手
清山調教助手

母との別離

 高校卒業後は宇治田原優駿ステーブルに就職した。

 「しばらくすると、母が運転免許を返納しました。でも、仕事は続けていたので、自分が実家に戻り、姉と2人で相談しながら母の送り迎えをする事にしました」

 仕事場も実家から通える島上牧場に変えた。牧場で働きながら、トレセン入りを目指し、年2回の競馬学校を受験し続けた。

 「落ち続けても母はずっと応援してくれていました。自分としても早く受かって、良い馬に出合い、母を競馬場へ連れて行ってあげるのが一つの目標になりました」

 余命といわれた10年を過ぎても母は元気だった。それは勿論、良い事だった。だが、同時に清山の心にスキを作った。

 「競馬学校に慌てて受からなくても大丈夫か?と思ったわけではないですけど、なかなか合格しませんでした」

 そんな2014年6月28日の事だった。パートを終えた母を、姉がクルマで迎えに行った。帰宅を待っていた清山だったが、用事が出来たので、家を出た。後に姉から聞いたその後の様子を、次のように語る。

 「家に近付くにつれ母が無口になり、着いた後は、自分の家の前を通過しそうになったそうです。おかしいと感じた姉が家に連れて入ると、母はすぐに横になり、意識を無くしたので、慌てて救急車を呼んだとの事でした」

 報せを受けた清山はすぐに病院に駆けつけた。心配する姉弟に、医師が言った。

 「今晩が山です」

 長い夜になった。そして、深夜0時を過ぎ、日付が29日になってからの事だった。

 「息を引き取りました。51歳という若さでもあり、ショックは大きかったです」

奇跡的な初勝利

 その後、一念発起し競馬学校に合格すると、17年から栗東・中内田充正厩舎で働き始めた。

 「競馬学校にいる時に中内田調教師から声をかけていただきました。『怖そう』な第一印象でしたけど、話してみると、優しい先生でした」

中内田充正調教師
中内田充正調教師

 そんな指揮官に対し、少しでも力になりたいと思った清山だが、厳しい現実が待っていた。

 「厩舎が勢いに乗り出した頃で、皆、勝ち始めたのに、僕だけ勝てませんでした」

 そうこうするうち1年半が過ぎた。そんな18年5月、担当したアイネバーフェイルがついに先頭でゴールイン。これが清山にとって初めての勝利となった。

 「身重の妻がたまたま競馬場に来ていました。普段、あまり来る事のない彼女の前で、勝てたのは、奇跡的でした」

残された者達がやるべき事

 そんな清山が21年に出合ったのがプログノーシスだった。

 「担当ではないけど、調教では常に乗せてもらう事になりました」

 すると、冒頭で記したように当初は弱い面があったものの、徐々に地力を強化。この春には金鯱賞(GⅡ)を快勝し、勇躍香港へ遠征。クイーンエリザベス二世C(GⅠ)では地元の雄ロマンチックウォリアーの2着に健闘した。

QEⅡ(GⅠ)で2着に健闘したプログノーシス(黒帽のゼッケン6番)
QEⅡ(GⅠ)で2着に健闘したプログノーシス(黒帽のゼッケン6番)

 「香港ではついに本格化したという感じで非の打ち所がない状態でした。今回の札幌記念はそれ以来の競馬だったので、正直、香港の方が良かったか?と思いました」

 また、追い切りに乗った感触から「スタートが遅いこの馬に、小回りコースは合わないか?」とも感じた。ところが……。

 「終わってみればGⅠ級の相手に快勝してくれて、明るい未来が見える内容だったので、本当に嬉しかったです」

 ただ、同時に悔やまれる事もあったと続ける。

 「母が生きている間に、こういう馬に出合って、活躍を見てもらうのが目標だったのに、それが叶わなかったのは残念でなりません」

 いや、母はきっとどこかで見てくれているはずで、目標は叶えられたと思うのだが、清山としては「残念でならない」からこそ、母が命と引き換えに教えてくれた事に、気付いていた。

 「姉や家族には競馬の結果を逐一報告するようにしています」

 すると、今回は姉が、亡くなった母の姉に報告。その伯母から清山に「おめでとう」と連絡が入った。残された者が皆で、喜びを共有し合い、人生を謳歌しているのだ。清山は続ける。

 「今、自分には女男女の3人の子供がいます。この子供達を連れて実家に帰った時は、必ず仏壇の前で、一緒に掌を合わせるようにしています。今回の勝利も、一緒に報告に行くつもりでいます」

 秋には「更に大きな報告をしたい」と語る清山だが、レースの格や勝ち負けにかかわらず、母はきっと、無償の愛で見守ってくれている事だろう。

清山とプログノーシス
清山とプログノーシス

(文中敬称略、写真提供=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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