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命をどうしても助けたかった本当の理由と、重賞制覇まで紡がれたストーリー

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
蹄葉炎で引退を余儀なくされたエナチャン

オーナーの熱意で繋がれた命

 「『前谷牧場で』と言われた時、馬房が一杯だったので、最初はお断りしました。でも『何とか生かしてあげたい』というオーナーの熱意に負けて、預からせていただく事になりました」

 株式会社前谷牧場の二代目・前谷卓也氏はそう語り、更に続けた。

 「蹄葉炎で引退を余儀なくされた馬で、うちに来た時点でも完治はしていませんでした」

 蹄壁はモロく、釘を打てないため接着装蹄だった。3日で落鉄する事もあり「そのたびにJRAの装蹄師に電話をし、着け直してもらった」と言う。

 更に、獣医にはレントゲン撮影が可能なカメラ持参で訪問してもらい、診察と治療を続けた。その結果「少しずつ状態が良くなっていった」。

 その馬の名は、エナチャンといった。

現役時代のエナチャン
現役時代のエナチャン

 「エナチャンというのはオーナーのお孫さんの名前だったそうで『目がくりんくりんで、まつ毛の長い孫に似た面持ちの馬』を探した末、見つけたと聞きました。当然、思い入れが深かったわけです」

 エナチャンは2013年のセレクトセールで売買された。その後、14年には美浦・大竹正博厩舎からデビュー。しかし、僅か2戦したところで蹄葉炎の症状が出たため引退した。医学の進歩により、蹄葉炎は昔ほどの不治の病ではなくなった。それでも一つ間違えば命を脅かす大病である事に、違いはなかった。この時のエナチャンも同様だった。大竹が当時を振り返る。

 「オーナー(桑畑隆信氏)から『何とか子供を産めるように、命を助けてほしい』と懇願されました。とくにオーナーの奥様の夏美さんのそんな気持ちが強く、尽くせる限りの手を尽くす事にしました」

 JRAの獣医師や装蹄師にも協力を仰いだ。その結果、エナチャンは一命を取り留め、やがて繁殖にも耐え得る体になったのだという。

子供が重賞を制覇

 一命を取り留めたエナチャンは、19年4月12日にエピファネイアの牡馬を産んだ。前谷氏が述懐する。

2019年、生まれたばかりのエピファネイアの牡馬と母のエナチャン(前谷氏提供写真)
2019年、生まれたばかりのエピファネイアの牡馬と母のエナチャン(前谷氏提供写真)

 「正直言うと、小さくてとくに目立つ感じではありませんでした。私個人の印象ではなく、皆『小さいね……』と口を揃えていました。ただ、そんな中、桑畑夏美オーナーだけは常に『この子が1番良い』と、おっしゃられていました」

 愛情を感じる場面には幾度も遭遇したと続ける。

 「夏美オーナーは牧場に来られるたびに、触りながら『怪我をするんじゃないよ』と声をかけていました。本当にこの子が好きで、可愛がっているのがよく分かりました」

 父エピファネイア、母エナチャンの牡馬は、セルバーグと名付けられ、栗東・鈴木孝志厩舎に入厩。桑畑夏美オーナーの下、21年10月17日、阪神競馬場でデビューすると、8番人気という評価を嘲笑うように、楽勝してみせた。

 「夏美オーナーは丁度、飛行機に乗られていたそうで、着陸後、電話で息子さんに結果を聞いたところ『ぶっち切り!!』と言われて『ぶっち切りの最下位』だと思ったらしいです」

 前谷氏は笑いながらそう言った。

1歳時のセルバーグと前谷氏と、桑畑夏美オーナー(前谷氏提供写真)
1歳時のセルバーグと前谷氏と、桑畑夏美オーナー(前谷氏提供写真)

 それから約1年9カ月。オープン馬となったセルバーグは中京記念に出走した。大竹は言う。

 「エナチャンの子供ですから、出走するたびに気には留めています。奇しくも蹄葉炎で苦労したグレーターロンドンが勝ったのと同じ重賞に駒を進める事が出来て、不思議な縁を感じました」

 発表された6番という枠順を見て「勝てる!!」と思ったのは前谷氏だ。

 「セルバーグはそれまで4勝しているのですが、全て馬番が6番でした。今回も追い風が吹いていると感じました。また、夏美オーナーからは『ナツミの日(7月23日)だからきっと勝つと思う』と連絡をいただきました」

 そんな思いが競馬の神様に伝わった。松山弘平を背にハナを切ったセルバーグは、最後まで他馬に先頭を譲る事なくゴールを駆け抜けた。

中京記念を制したセルバーグ
中京記念を制したセルバーグ

 「あのエナチャンの仔が重賞を、それも中京記念を勝つなんて、こみ上げるものがありました」

 大竹は感慨深そうにそう言った。

 「レース直後に、夏美オーナーに電話をしたのですが、私もオーナーも興奮し過ぎていたので『おめでとう』『ありがとう』を繰り返すばかりでした。でも、オーナーの声が震えているのは分かったので、きっと泣かれていたのだと思います」

 前谷氏はそう語ると、更に続けた。

 「夏美オーナーは『前谷さんのお陰』とよく言ってくれるのですが、彼女でなければエナチャンの命は繋がれていなかったかもしれません。全ては夏美オーナーのお陰だと思います」

1歳時のセルバーグと桑畑オーナー夫妻(前谷氏提供写真)
1歳時のセルバーグと桑畑オーナー夫妻(前谷氏提供写真)

どうしても助けたかった本当の理由

 先述した通り、エナチャンというのはオーナーのお孫さんの名前から命名したのだが、ここにもう一つ、エピソードがあった。前谷氏は言う。

 「そのお孫さんは、幼くてして亡くなられているそうです。それもあって馬の“エナチャン”まで命を落としてほしくないと強く願ったのでしょう」

 前谷氏が続ける。

 「セルバーグは4コーナーで後続に捉まったかと思いました。でも、そこからもうひと踏ん張りしました。亡くなられたお孫さんが押してくれたのだと感じました」

 夭逝した魂が、1頭のサラブレッドの命を救い、救われた命が新たな命を育んだ。そして、その新しい命が競馬史に名を刻んだ。セルバーグは今週末、関屋記念に出走する予定。この物語が今後、どう展開していくのか。注目していきたい。

(文中一部敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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