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弟分の命日に、残り2週で引退となるホースマン人生を振り返る、ある調教師の物語

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
柴田善臣騎手と口取り写真に納まる大江原哲調教師(左)

ひょんな形で障害初騎乗

 今日2月17日はある男の命日だ。3年前の2月17日、大江原哲は車を飛ばしていた。

 「連絡があった時にはもう息を引き取っていたけど、急いで会いに行きました」

 先日の2月13日、70回目の誕生日を迎えたばかりの彼は、そう述懐した。

 大江原が生まれたのは福島競馬場の近く。父親の勤務先の社長が共有馬主をしており、騎手の道を勧められた。

 「体が小さいので勧められました。当時は競馬学校がなく、馬事公苑の騎手課程を受けたのですが、高校の試験より早い時期だったので、落ちれば高校へ行けば良いという軽い気持ちで受けました」

 馬事公苑受験を決めた後に福島競馬場で調教を見たり、馬に触らせてもらったりしただけだったが、合格した。

 「調教の時に加賀武見(当時騎手、後に調教師、引退)さんが険しい顔で乗っているのが印象的でした。馬事公苑では最初は楽しくなかったけど、馬乗りを覚えるにしたがって面白くなっていきました」

 蛯名武五郎調教師の下からデビューする予定だったが、デビュー直前に師匠が急逝。古山良司厩舎からデビューとなった。

 「古山先生は『危険だから』とおっしゃって、最初の2年間、障害に乗せてくれませんでした」

 そんなある日、稲葉幸夫調教師から声をかけられた。

 「騎乗予定の騎手が怪我をしたから代わりに乗ってくれるか?と依頼されました」

 平地競走だと思い、快諾したら障害だった。後に障害で名をあげる大江原にとって、これが初めての障害騎乗となった。

 「その後は尾形藤吉調教師や藤本冨良調教師らトップ調教師からも依頼をいただくようになりました」

 初めて中山大障害に参戦したのも、そんな頃だった。

 「藤吉先生の馬で、3着でした。障害に乗るようになってからは中山大障害が目標だったので、いつか勝ちたいと強く思いました」

騎手時代の大江原。左から尾形充弘元調教師、尾形藤吉元調教師(本人提供写真)
騎手時代の大江原。左から尾形充弘元調教師、尾形藤吉元調教師(本人提供写真)

一人の男の影響で調教師へ転身

 そんなある日、菊池一雄厩舎の調教助手から相談を受けた。

 「『未勝利だけど、善戦する馬がいる。障害入りさせたらどうか?』という感じで相談されました。スピード負けしていても、スタミナがあるならジャンプレースに合うかも、と返事をしました」

 こうして入障したのがライバコウハクだった。

 「障害初戦では弟の隆が乗り、落馬をしたけど、その後は自分が乗れるまで待ってくれて、勝ち上がりました」

 決して乗り易い馬ではなかったが、86年には中山大障害(春)(当時、現中山グランドジャンプ)を優勝。大江原の夢を叶える馬となった。

86年中山大障害(春)(当時)を制したライバコウハクと大江原(本人提供写真)
86年中山大障害(春)(当時)を制したライバコウハクと大江原(本人提供写真)

 また、92年にはシンボリクリエンスでも春秋の中山大障害を優勝。障害界のトップジョッキーとなったが、この頃には調教師への転身を考えるようになっていた。

 「ライバコウハクが障害入りする際に、相談しに来た調教助手というのが、後に調教師となる藤沢和雄先生でした。藤沢先生と付き合ううちに、影響を受けて調教師を考えるようになりました」

 調教師試験を受けると96年に難関突破。97年、開業した。

大江原に大きな影響を与えた藤沢和雄元調教師
大江原に大きな影響を与えた藤沢和雄元調教師

300勝に王手

 「騎手時代、中野隆良先生によく乗せてもらっていたのですが、その時、見習い騎手として入って来たのが柴田善臣でした。併せ馬もよくして、知った仲だったので、開業後もよく乗ってもらいました」

 その柴田を乗せて2008年に皐月賞(GⅠ)を2着し、ダービー(GⅠ)にも挑んだ(11着)タケミカヅチでは、09年にダービー卿CT(GⅢ)を、14年にはミュゼスルタンで新潟2歳S(GⅢ)を制した。

08年皐月賞(GⅠ)で2着したタケミカヅチ(左から2頭目の白帽)
08年皐月賞(GⅠ)で2着したタケミカヅチ(左から2頭目の白帽)

 そして、先週の2月11日、東京競馬場で行われた雲雀Sをグラスミヤラビが、ここも柴田を背に先頭でゴール。これが大江原にとってJRA通算299勝目。メモリアルとなる300勝に王手をかけた。しかし、その2日後に70歳となった大江原に残された指揮官としての時間は僅か2週間しかない。

 「勝てるモノなら勝ちたいけど、こだわりはありません。それよりも最後まで預けてくださる馬主さんのためにも無事に終わってくれるのを願っています」

柴田善臣を背に雲雀Sを制したグラスミヤラビ
柴田善臣を背に雲雀Sを制したグラスミヤラビ

競馬界に残る大江原の血

 競馬とは無縁の家庭から飛び込んできた大江原哲。その後、弟や甥、息子らも彼を追うようにこの世界に飛び込んだ。だから彼が厩舎を解散しても“大江原”の名は競馬界に残る。

 「騎手だったり、助手だったり、立場は違うけど、皆、上を目指しているのは同じです。とにかく一所懸命に頑張って、怪我だけは気をつけてほしいです」

 とくに現在、競馬学校で女性騎手候補生として頑張っている孫の比呂の事は心配だと続ける。

 「小さい頃からなついてくれました。先日の誕生日もプレゼントを持って会いに来てくれたし、本当に可愛くて仕方ないので、どうか怪我はしないでほしいです」

 ちなみに大江原自身は「約20年、障害レースに乗り、何度も落ちたけど、レースで骨折をしたのは2回だけ」と言う。

弟のようにかわいがっていた男の死

 また、もう1人、騎手時代から「弟同様にかわいがっていた男」(大江原)の話は外せない。

 「3歳下で、馬事公苑の頃から知っていて、騎手から調教師と同じ道を進んだのが、高市圭二でした」

 騎手時代、乗り鞍がなくても腐らず一所懸命にやっている姿に、ますます好感を抱き、どんどん仲良くなった。

 「古山先生に頼んで乗せてもらった事もあったのですが、そういう昔の事を、ずっと義理堅く恩に感じてくれる男でした」

弟のようにかわいがっていたという高市圭二調教師と
弟のようにかわいがっていたという高市圭二調教師と

 そんな高市が具合を悪そうにしている様を見て、何度も病院に行く事を勧めた。

 「なかなか病院に行かず、やっと行った時には手遅れと言われるような状態でした」

 丁度3年前の2月17日。高市は逝ってしまった。

 「弟が死んだようなものですからね。滅茶苦茶ショックでした」

 急きょ解散となった高市厩舎から転厩してきたシングンマイケルで、中山グランドジャンプ(J・GⅠ)に挑むと、最終障害飛越後に転倒。予後不良となってしまった。高市を追うように星となったシングンマイケルの事を思う大江原の表情は今でも歪むのだった。

生前のシングンマイケル
生前のシングンマイケル

残り2週の調教師人生

 「今月一杯で厩舎を解散しなくてはならないのは淋しい気持ちもあるけど、彼等が見守ってくれたのか、無事に乗り切れそうなのは良かったです」

 今週は6頭の出走を予定している。柴田善臣は来週、サウジアラビアへ飛ぶため、日曜の東京12R・大島特別のマイナーズライトが最後のランデブーとなる。残り2週となった大江原の動向に是非、注目していただきたい。

調教師人生も残り2週となった大江原
調教師人生も残り2週となった大江原

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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