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亡くなった恩人を始めとした沢山の人達とみる、あるホースマンの夢の続き

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

トラックマンから牧場を経てトレセン入り

 「一つの夢がかないました」

 レモンポップ(牡5歳、美浦・田中博康厩舎)を担当する田端誠調教厩務員は、そう口を開くと続けた。

 「戸崎圭太騎手と重賞を勝つのが夢でした」

 根岸S(GⅢ)でそんな願いがかなったものの、今週末、行われるフェブラリーS(GⅠ)では、タッグを解消。新たなる鞍上には若手のホープ・坂井瑠星を迎える事になったのだが、それはそれで別の物語があった。

レモンポップと田端誠調教厩務員
レモンポップと田端誠調教厩務員

 1977年10月6日生まれだから現在45歳。父・晶、母・きみ子の下、生まれ故郷の神奈川で育てられた。

 「競馬とは無縁の家庭でしたけど、中学の時、友達の影響で競馬を見るようになりました。オグリキャップのラストランはよく覚えています」

 いつしかトラックマンになりたいと考えるようになり、獨協大学では馬術部に所属。2000年の卒業後、南関東の競馬新聞社に就職。念願のトラックマンとして、中継の解説を務める等、した。

 「3年ほど勤めた頃、取材でお世話になった調教師の誘いもあり、厩務員への転職を考えました。ただし競走馬を扱った経験がなかったので、まずは牧場への道を模索しました」

 新しい職場に就く前に、新婚旅行でアメリカのキーンランドへ行き、牧場を巡った。

 「帰国後『ビッグレッドファームで経験を積ませていただきたい』と、岡田繫幸社長に挨拶をしました」

 いずれは大井競馬に戻るつもりでいたが、05年の秋にJRAの競馬学校を受験すると合格した。

 「当時は競馬学校受験に28歳までという年齢制限がある時代でした。自分は制限ギリギリだったので『最後に一度だけ』という気持ちで受けたら受かってしまいました。急な退職となるため岡田社長に相談しました」

 すると、田端の心配を他所に、総帥は喜んで送り出してくれた。

恩人の他界

 06年春に臨時で柴田政人厩舎に籍を置いた後、同年の夏からは池上昌弘厩舎で正式に雇用された。すると……。

 「岡田社長が毎年、期待馬を入れてくれて、担当させてもらえました」

 15年の小倉大賞典(GⅢ)では、そんな1頭のコスモソーンパークが2着。田端にとって初の重賞制覇まで半馬身と迫った。

田端にとって重賞で初めて2着したコスモソーンパークは、恩人・岡田繁幸氏の伝手で担当した馬だった
田端にとって重賞で初めて2着したコスモソーンパークは、恩人・岡田繁幸氏の伝手で担当した馬だった

 「重賞は一筋縄ではいかないと思うのと同時に、社長のためにも勝ちたいと考えていただけに、悔しさでいっぱいになりました」

 18年に池上厩舎が解散すると、同年、新規開業した田中博康厩舎へ移った。

 「田中調教師は真面目そうなイメージ通りの人でした」

左が現在のボスである田中博康調教師
左が現在のボスである田中博康調教師

 こうして田中厩舎で働き出した田端の耳に、訃報が飛び込んだのは21年の3月の事だった。

 「岡田社長が亡くなられました。小さなレースでも勝つたびに電話をくれていたので、重賞勝ちの報告が出来ないうちに他界されたのは、ショックでした」

重賞の厚き壁

 それから1年後の22年3月には担当したベジャールが毎日杯(GⅢ)で2着。またしても惜しいところでグレードレースに手が届かなかった。

 「一旦先頭に立って『勝てる!』と思ったけど、甘くなかったです」

 丁度、同じ頃、もう1頭の担当馬が戸崎を背に、快進撃を始めた。

 レモンポップだ。

 「新婚旅行でキーンランドの牧場を巡った時、たまたまレモンドロップキッドを見ていました。その馬の子供を担当出来るという事で、期待していたら、いかにも走りそうな雰囲気の馬が来ました」

 実際、デビューするといきなり連勝した。しかし、脚元の不安もあり、約1年の休養を余儀なくされた。

 「使ってほしい気持ちはあったけど、田中先生と牧場側との話し合いで休ませる事になりました。今、思うと、これが素晴らしい決断でした」

 復帰後、22年の1月に1000万条件を勝つと、10月のペルセウスSまで、2つのオープンを含む4連勝。11月には“三度目の正直”での重賞優勝を目指し、武蔵野S(GⅢ)に挑戦した。

 「展開が厳しくて、ハナだけ差されました。また重賞の難しさを痛感すると共に、悔しい気持ちになりました」

4連勝でペルセウスSを勝利した際のレモンポップ
4連勝でペルセウスSを勝利した際のレモンポップ

沢山の人に応援されて、夢の続きを……

 こうして迎えたのが1月29日の根岸S(GⅢ)だった。

 「1400メートルだし、順調だったので、今度こそという自信がありました」

 結果、好位を追走すると、直線で抜け出して、先頭でゴールに飛び込んだ。

 「普段はあまり感情をあらわにしない田中先生が喜んで抱きついてきてくれました。相当、プレッシャーがあったのだと思うと、少しは恩返しが出来たかな?と感じました」

 そんな田端自身も、勿論、嬉しかった。

 「夢にまで見た重賞制覇ですからね。当然、嬉しかったです」

 更に喜びの倍増される出来事が、あった。表彰式が終わり、田中と戸崎が改めてツーショット写真の撮影を要請された時の事だった。

 「戸崎が『田端さんも一緒に入ってください』と言ってくれました」

 田端が南関でトラックマンをしていたのは先述した通り。

 「その時、まだ若手で頭角を現す前の戸崎と仲良くしていたんです」

 だからJRA入りした後、互いに「一緒に重賞の口取り写真を撮りたい」と話していたのだ。

 「そんな思いが叶い、正に夢のようでした」

戸崎圭太騎手とレモンポップと田端
戸崎圭太騎手とレモンポップと田端

 こうして今週末はGⅠ・フェブラリーSに出走する事になったのだが、発表があった通り、鞍上は坂井瑠星に替わる。戸崎とのコンビ解消に肩を落としているかと思いきや、田端はかぶりを振る。

 「瑠星君の父である坂井英光さんとも僕が南関にいた頃から仲良くさせてもらっています。瑠星君に決まってすぐに電話をしたら、本人からも聞いていたようで凄く喜んでくれていました」

 最後に、現在のレモンポップの状態がどうかを伺うと、次のように答えた。

 「状態の良し悪しを表に出さないタイプなので判断が難しいけど、中1週の武蔵野Sの時よりも疲れが抜けて良い雰囲気です。聡明な顔つきに見えるようになってきました。可愛い名前のわりに、筋肉モリモリの可愛くない馬体という事で、人気があるようなのは僕の耳にも入っています。応援してくださるファンの皆様の前で良い走りが出来る事を願っています」

 ファン以外にも田中や南関で知り合った人達、雲の上から見守ってくれているであろう恩人ら、応援してくれる人は沢山いる。20年以上前にレモンドロップキッドを一緒に見た奥様との間には現在、二人の子供がいる。彼等、皆の期待を背負い、田端とレモンポップは今週末、GⅠのゲートに収まる。

レモンポップと田端
レモンポップと田端

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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