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昭和55年の有馬記念であった「当時ならでは!!」のエピソード

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
昭和55年有馬記念のホウヨウボーイ(3番)(写真;日刊スポーツ/アフロ)

「情けない騎乗を反省」して有馬記念へ

 2014年、オールエイジドS(豪GⅠ)をハナズゴールで制した加藤和宏調教師。1956年3月生まれで現在66歳の彼は、北海道で炭鉱作業員をする父の下に生まれた。

加藤和宏調教師とハナズゴール(14年撮影)
加藤和宏調教師とハナズゴール(14年撮影)

 「母も父の手伝いで鉱山へ出ていたので、自分はおばあちゃん子でした」

 中学生の時、調教師を紹介されたのがきっかけで騎手を目指すようになった。

 「師匠となる二本柳俊夫調教師を紹介されました。『一人前になるまで実家には帰さないぞ』と脅されたけど、初めて将来の夢を持てた気がしたので喜んで北海道を後にしました」

 1972年はまだ競馬学校のない時代。馬事公苑で研修をしながら騎手を目指した。無事デビュー出来たのは75年の事だった。

 「ただ、厩舎には5人の先輩騎手がいたので、勝つどころか乗る事さえ滅多に出来ませんでした」

 そんなデビュー3年目に出合ったのがホウヨウボーイだった。80年、昭和でいうと55年にこの馬と共に自身初の重賞制覇を成し遂げると、秋には天皇賞(秋)(GⅠ)に挑戦することになった。しかし……。

 「1番人気のカツラノハイセイコを意識し過ぎて、伏兵プリティキャストの逃げ切りを許してしまいました」

 この手綱捌きを加藤は「情けない騎乗」と評した。そして……。

 「連続して情けない騎乗をするわけにはいかない。強い馬には強い競馬をさせないとダメだと心に誓い、次の一戦に臨みました」

 それが有馬記念(GⅠ)だった。

 レースはまたしてもホウヨウボーイとカツラノハイセイコとの一騎討ちという下馬評だった。そして実際に直線ではこの2頭が抜け出し、最後はピタリと馬体を並べて、ゴールを駆け抜けた。どちらが勝ったのか際どい勝負となった。しかし、加藤は躊躇する事なく真っ先に1着の枠場に入り、下馬した。

 「自分としては際どいとは思っていませんでした。勝っている自信がありました」

 加藤の感覚は正しく、軍配はホウヨウボーイに上がった。

 「ホウヨウボーイの力を信じて乗って勝てたのが、嬉しかったです」

師匠からのプレゼント

 翌81年の春、話に続きがあった。この時、門別で前年の有馬記念制覇の祝勝会が開かれた。その席での事だった。

 「二本柳先生から『実家に帰ってきなさい』と許可をいただけました」

 加藤が中学を卒業して上京してからこの年で10年目。その間、一度も帰郷していなかった。

 「当然、嬉しかった」

 そう語る。しかし、嬉しかったのは「実家に帰れる事」に、ではなかった。

 「弟子入りした時に『一人前になるまで帰さない』と言われていました。その先生が『帰って良い』と言ってくれた事が、嬉しかったんです」

 そんな想いと共に帰宅した加藤を、家族は笑顔で迎えてくれた。しかし、残念ながらただ一人「大好きだったおばあちゃんだけは遺影の中で微笑んでいた」と言う。良いか悪いかは分からないが、昭和の時代ならではの、有馬記念のエピソードだった。

加藤和宏調教師
加藤和宏調教師

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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