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怪我をしたジョッキーを支えた家族が言った力強い言葉とは……

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
怪我から復帰の目処が立った黛弘人騎手

好スタートを切り、かえって焦る

 1月の騎乗を最後に、1人の騎手の時計が止まった。

 黛弘人だ。

 1985年11月生まれで現在36歳。中堅となった彼は今年、開幕日である1月5日に早くも勝利すると、その10日後には2勝目。幸先良く両目を開けた。

 「久しぶりに好スタートを切れました。ただ、それで余裕が出来たという事はなく、むしろ『もっと頑張らないと!!』と自分を追い込んで焦り、本質を見失っていました」

 そんな2月1日、事件が起きた。場所は出張先の小倉競馬場。寒い朝だった。

 「過去にレースでも乗った事があったのですけど、少し難しい面のある馬の調教を頼まれ、担当の方に引っ張ってもらって角馬場へ行きました」

 競馬では黛が乗る馬ではなかった。それでも「担当の人が1人で面倒を見ているのは可哀想に思えた」事もあり、調教を手伝った。前の週は何度も騎乗し「上手にコンタクトがとれた」と感じた。こうしてこの日を迎えた。

 「他馬がいるとテンションが上がるので、いない時間帯に入れるようにしていました。ところがこの日はたまたま他にも馬がいました」

 それも影響したのか、角馬場でいきなり暴走した。

 「0から一気に全力疾走という感じでした。万全の態勢を整えていたつもりでしたけど、自分の騎手人生でも体験した事のない勢いの暴走で、対応出来ませんでした」

 ラチに激突して投げ飛ばされた。咄嗟に頭を守ったが背中がぶつかると、次の瞬間、激痛が走った。

 「落とされた直後は息が出来ないし、肩の力も入らなくなっていました。大きな怪我とは思ったけど、せめて骨折はしていないようにと願いました」

 救急車が来るまでは長く感じた一方、痛みが伴うので動かしてほしくないとも思った。呼吸を整えていると、救急車が到着した。

 「自分で歩いて乗り込みました。車の中から妻に電話をしたけど、出なかったので、LINEで改めて連絡しました」

 “妻”とはタレントの水野由加里さん。競馬中継に携わっていた時期もあり、知り合うと、2013年に結婚した。由加里さんは言う。

 「家事でバタバタしていて最初の電話には気付きませんでした。LINEをみて怪我をしたのを知ったのですが、文面が『暴走で怪我をした』という感じだったので自動車事故かと思いました」

 そこで冷静に考えた。

 「LINEを出来るくらいなら怪我は問題ないと思いました。それよりも他の人を巻き込んでいないか、そちらの方が心配で、すぐに折り返しの電話を入れました」

 電話はつながった。

 「声を聞けてひと安心すると共に馬の事故だったと知りました」

 黛の弁。

 「まだ診察する前に電話がかかってきたので『折れているかもしれない』と伝えました」

 当時の様子に由加里さんは違和感を覚えたと言う。

 「話している雰囲気がいつもと違って『ぼーっ』としている感じだったので、『脳も検査してもらってください』と伝えました」

 再び黛の弁。

 「診察結果は遠位端骨折。肋骨も折れていて、手術が必要と言われました。折れていない事を願ったけど、痛かったので『やっぱり折れていたかぁ……』という感じでした」

 週末だけでなく翌週以降も騎乗馬が決まっていたので、エージェントや関係調教師に片っ端から電話で事情を説明した。この時、夫人にも再び連絡した。由加里さんは述懐する。

 「診察の結果、骨折が分かり、かなり重い症状と診断されたけど、話せるし、生きているので、不幸中の幸いと考えるようにしました」

黛。写真の馬は今回の落馬とは関係ありません
黛。写真の馬は今回の落馬とは関係ありません

術後はコロナ禍で面会謝絶

 翌日、黛は飛行機で茨城へ帰った。空港まで迎えに行った由加里さんは黛の顔を見て、感じた。

 「凄く暗い表情で、改めて大怪我だったと分かりました」

 家に帰るより先に病院へ行った。改めて診察してもらうと、肩甲骨も折れている事が分かった。黛は言う。

 「全身を打撲していたし、かゆいところをかくのも大変でした」

 事故から3日後の2月4日。全身麻酔をして、2時間に及ぶ手術を施した。

 「ピンを2本入れてワイヤーで引き上げている状態です」

術後はすぐに目覚めた。頭では「シチュエーションを思うとこの程度で済んで良かった」と考えるようにした。しかし、突然襲った事態を体は簡単に受け入れてくれなかった。

 「倦怠感は次の日の夜まで続き、ご飯どころか水も飲めませんでした。肩甲骨が折れているので背中はずっと痛み、寝返りもうてない。背中に布団を置いて横向きで寝たけど、熟睡は出来ず、何度もすぐに目が覚めました」

 コロナ禍という事で、入院中は面会謝絶。由加里さんの届ける差し入れも直接手渡す事は認められなかった。

 「それでも動かせる部位だけ動かしました。結果、1週間で退院出来たのでその後は本格的なリハビリを開始しました」

リハビリをする黛
リハビリをする黛

 ただ、医師からは『折れた部位からして少し時間がかかる』と言われていた。だから「1度、競馬を忘れてしっかり治そう」と決意を固めた。下手に競馬を見ても復帰へ向けて焦る気持ちが強くなると考え、目処が立つまで競馬から離れる事にしたのだ。そして、そのように切り替えられた理由を次のように語った。

 「馬主さんや調教師、ジョッキー仲間にエージェント、また厩舎関係者からもずっと声をかけていただけたのが大きかったです」

 復帰すれば自分の立ち位置はちゃんとある。そう確信した事で、治療に専念出来たのだ。

 「自分で出来る事は自分でやったけど、右手が使えなかったので、妻には普段以上に助けてもらいました」

 こう語る黛に対し、由加里さんは言う。

 「最初はどうなるかと思ったけど、ジムへ行ってリハビリをしているし食事もお風呂も自分で出来ているので、特別にサポートをしているわけではありません」

ジムでリハビリする黛
ジムでリハビリする黛

妻が発した力強い言葉

 事故から40日近く経った3月11日、ようやく復帰の目処が立った。

 「この後も何もなく順調なら3月26、27の週から復帰可能と診断されました。その前に調教に乗り、万全の態勢にして、中京で復帰しようと思います」

 こう言うと改めて今回の休養中に感じたという思いを口にした。

 「自分を見つめ直す良い機会になりました。依頼してくださる関係者や応援してくださるファンの皆様に対し少しでも力になりたい。そういう気持ちが強くなりました」

 そして、最後に「個人的な事ですが……」と続けた。

 「妻には日頃から心配をかけて申し訳なく思っているのですが、今回は本当に何から何まで助けてもらいました。感謝しかありません」

 さて、そう言われた由加里さんはさらりと次のように答える。

 「とにかく命にかかわるような事故でなくて良かったです。万が一、恐怖心が残って騎手を続けられないというなら、それはそれで構わないんです」

 騎手を辞めても良かったのか?と確認すると旗幟鮮明に答えた。

 「はい。だって、生きていれば何とでもなりますから……」

 力強い言葉を得て、黛の時計が再び回り出す。

黛弘人騎手。コロナ禍前に撮影
黛弘人騎手。コロナ禍前に撮影

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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