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愛知杯を2勝した騎手のその後と、現在の彼を支える3つの原動力とは?

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
愛知杯を2勝したセラフィックロンプと宮崎騎手(写真;日刊スポーツ/アフロ)

デビュー2年目で重賞初騎乗初制覇

 今週末の15日、中京競馬場で愛知杯(GⅢ)が行われる。

 牝馬限定のこのハンデ重賞を、過去に2度制したのが宮崎北斗騎手だ。

 1989年3月生まれで現在32歳の彼が、最初に愛知杯を勝ったのは2008年。美浦・高市圭二厩舎からデビューしたのはその前年。つまり、当時は2年目でまだ19歳だった。

 「重賞に騎乗する事自体初めてでした。経験値もないので、果たしてこの馬が重賞でどのくらいやれるのかも分かりませんでした」

 “この馬”の名はセラフィックロンプ。美浦・武藤善則厩舎の管理馬だった。

 「道中は好位で流れに乗れました。途中動いてくる馬もいたけど、人気もなかったので惑わされないように焦る事なく乗れました」

 すると、直線では先頭に立った。

 「僕自身の勝ち鞍自体が少ない時だったのに、初重賞でいきなり先頭に立ちましたからね……。慌ててバラバラなフォームになってしまいました」

 しかし、なんとかしのいで重賞初騎乗初制覇。単勝60倍近いダークホースで大仕事をやってのけた。

 「重賞勝ちは目標の一つでもあったので嬉しかったです」

二十代の頃の宮崎北斗騎手
二十代の頃の宮崎北斗騎手

確信のあった愛知杯2勝目

 翌3年目には37勝をあげた。そして4年目の2010年、この年は小倉で行われた愛知杯で、再びセラフィックロンプの手綱を取った。

 「この年はハンデも増えて(前回制覇時51キロから55キロへ)、有力馬の1頭にもあげられる立場になっていました。そういう意味でプレッシャーがありました」

 しかし、1回目とは経験値が違った。

 「2年前より周囲を見て乗る事が出来ました。結局6番人気だったけど、自分の中ではイチかバチかの勝負に出るというのではなく、人気馬をしっかりと勝たせるというイメージで騎乗しました」

 結果はハナ差での勝利。僅差ではあったが、宮崎はゴール直後に左手を高々と上げて勝利をアピールした。

 「ハナ差だったので『まだ分からない状況でガッツポーズをしたらダメ』と皆に言われました。でも、自分の中ではハッキリと勝っているという確信があったんです」

怪我で苦んだドン底で手にした”体”の知識

 こうしてデビュー4年で重賞を2勝した宮崎だが、その後は大きなところに縁のないまま干支がひと回りしてしまった。その間には怪我に苦しみ年間に2勝しか出来なかった年(15年)もある。宮崎は言う。

 「それなりに数を勝てて、重賞も勝って、自分におごりが出てしまいました。かわいがってもらった先生方に偉そうに意見をしてぶつかる事も多々ありました」

 師匠の高市とも、やがて疎遠になった。

 「自分が未熟で、人間関係がうまく行かなかったそんな頃、落馬をして大怪我を負ってしまいました」

 脳震盪を起こして一時意識をなくすほどの落馬だったにもかかわらず、早く復帰しなければ、という焦りから背中にボルトが入ったまま復帰した。

 「でも、そんな状態でうまく乗れるわけがないですよね。体のバランスがうまく取れず、自分の体なのに思うように動かせませんでした」

 著名な整体師や有名なトレーナー等、各所を訪ね、様々な方法を試した。以前からトレーニングには力を入れるタイプではあったが、落馬を境により一層、励むようにした。しかし、1度崩れた体と人間関係はおいそれと元通りには戻らなかった。

 「ただ、トレーニングに関して色々試しているうちに知識は豊富になりました」

 そうこうするうちアメリカの応用脳神経学に行き着いた。

 「専門用語も多いので、英語を一から勉強し、実際にアメリカに渡って講習を受けるなどしました」

 すると、自らの体のバランスが良くなった事も実感。そんな姿勢を見てくれていた高市から、再び騎乗を依頼されるようになった。19年にはレパードS(GⅢ)で同師の管理するトイガーに騎乗。ハヤヤッコの3着に善戦した。

 「騎乗を褒めていただけました。結局、高市先生は現役のまま亡くなってしまった(20年2月)のですが、その前に再びコミュニケーションが取れるようになり、一緒に大きな舞台に臨めたのは本当に良かったです」

 そんな高市の態度を見て、気付かされた事があったと続ける。

 「高市先生は若い頃と比べて良い意味で変わったと感じました。そんな先生と接しているうちに、周囲に変化を求めるのではなく、自分が変わらないといけないと、僕も考えさせられました」

 だから、現在の宮崎から、思い上がるような態度は微塵も出て来ない。

生前の高市調教師。宮崎の師匠だ
生前の高市調教師。宮崎の師匠だ

現在の宮崎を支える3つの原動力

 さて、そんな宮崎に今後について伺うと、次のような答えが返ってきた。

 「視野を広く持つという意味でも、体の勉強は続けていきます。ただ、当然ながら軸はあくまでもジョッキーです。体の勉強と競馬、そして、家族は全てがリンクしていて、どれか1つが欠けてもダメだと考えています。その3つが自分にとっての大きな原動力であり、そのために腕と人間性をひらすら磨き続けるのみです」

 昨年のクリスマスイブには3人目の子供であり、初めての女の子が生まれた。セラフィックロンプ以来となる重賞制覇が近い将来、待っていると信じて応援したい。

2021年夏の宮崎。撮影時のみマスクを外していただきました
2021年夏の宮崎。撮影時のみマスクを外していただきました

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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