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高松宮記念の裏で出走する”米国遠征があるかもしれない馬”と1人の女性のお話

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
マスターフェンサーと吉澤綾花

牧場生まれも馬に興味のなかった幼少時

 今週末は中京でGⅠの高松宮記念が行われ、ドバイではドバイワールドCデーが開催される。そんなビッグレースに隠れているが、将来GⅠを狙えると思しき馬がマーチS(GⅢ)に出走する。今回は同馬と同馬にかかわってきた1人の女性の話を紹介しよう。

 吉澤綾花は1991年8月22日に札幌で生まれた。父は育成牧場・吉澤ステーブルの代表・吉澤克己。母・康代との間で、浦河で育てられた。

 「妹と一緒に乗馬をしていました。小学1年でポニー、5年生の時にはサラブレッドに乗っていました。ただ、正直あまり好きではありませんでした」

 この言葉から分かるように馬に興味を示していたわけではなかった。中学生になる時には親元を離れ、札幌の寮で生活をした。

 「両親の事は大好きだったので、ほとんど会えなくなって寂しかったです。周囲の子が皆、お弁当を持ってくるのがうらやましく思えました」

 高校卒業を前に進路を考えた際の事だ。大学への進学意志が意思がないと父に告げると、助言された。

 「海外への留学を勧められました。英語は全く喋れなかったけど『少し話せるようになれば格好良いじゃん』というくらいの軽い気持ちでオーストラリアへ行く事にしました」

 シドニーの語学学校に入学したが、当然、言葉の壁に泣かされた。言いたい事を言えず、誰とも話せない日々が続いた。レベルごとのクラス分けでは最下級に配されたが、そこでも喋れなかった。

 「これではいけないと思い、語学が堪能な子と友達になって常に英語で話すようにしました。机にも向かい、人生で最も勉強をしました」

 その結果、11年12月に無事、卒業。それどころかシドニー大学に合格し、入学した。

 「その間、父が訪ねて来ると一緒にセリ会場や牧場に行きました」

 それでも馬の世界に入る事は考えなかった。毎日、単位を取るのに必死だった。週末も図書館にこもり、毎日10時間前後の勉強をした結果、卒業に必要な単位を取得した。

 「卒業は15年の3月でしたけど、その前に1度、帰国しました」

 卒業までの間、ディアドムスのドバイ遠征に同行し、騎乗した三浦皇成の通訳をするなど、競馬の世界を覗いた。その後、卒業して正式に帰国した。

15年のドバイ。三浦皇成騎手の通訳としてかの地に同行した
15年のドバイ。三浦皇成騎手の通訳としてかの地に同行した

「何かが違う」と内定を蹴り、父の牧場に就職

 「その段階で一般企業の内定をもらっていました。でも“何か違う”と感じ、父に相談しました」

 結果、父の経営する育成牧場・吉澤ステーブルイーストに就職する事にした。

 「88馬房あったけど、最初は半分以上が空いていました。そこで毎週半ばに美浦トレセン、週末は競馬場へ行き、営業をしました」

 やがて全ての馬房が埋まった。2年ほど働いた後、吉澤ステーブル・ウエストへ異動した。この間、セレクトセールやセプテンバーセールなどセリにも足しげく通った。

 「良い馬を落とせるように必死でした。フロリダの育成牧場に1ケ月も行かせてくれるなど、父はいつも見守ってくれる感じで自由にやらせてもらえました」

 競馬場では短期免許で来日した外国人騎手の通訳もした。A・アッゼニのそれをしている頃、中内田充正厩舎の調教助手と知り合った。やがて深い仲になり、19年に婚姻届を提出。同年、女の子を出産した。

 「今では子供同伴で出勤させてもらっています。父は私にこの世界に入ってほしくなかったみたいですけど、今では応援してくれていて、家族経営という感じでやらせていただいています」

フロリダの育成牧場での一葉(本人提供写真)
フロリダの育成牧場での一葉(本人提供写真)

ダート路線で一気に開花

 古くはウメノファイバーやタニノギムレット、近年でもゴールドシップやエポカドーロらを育成した吉澤ステーブル。馬主としては吉澤ホールディングスの名義でマスターフェンサーを育て、アメリカへ遠征。ケンタッキーダービー6着、ベルモントS5着などと健闘した。

アメリカ遠征時のマスターフェンサー。左が吉澤克己
アメリカ遠征時のマスターフェンサー。左が吉澤克己

 更にさらに1歳下にもう1頭、大物感を漂わす牡馬がいた。

 「父がタピットの仔をほしくて、アメリカのセリで落としました。相手が手を挙げても1秒後には手を挙げ返していました」

 馬名はスタッフが決める事が多い中「父が決めた」というところに期待の大きさを窺わせる。命名理由については後述するが、その馬がアメリカンシードだった。ここで父・克己の弁を記しておこう。

 「同世代の子馬は1000頭くらい見て回りました。その中でバランスも雰囲気も最も抜けていたのがアメリカンシードでした」

 来日後、爪を怪我したためデビューが遅れたが、完治した19年12月に阪神競馬場の芝1800メートルでデビュー。見事に新馬勝ちを飾り、その後、皐月賞(GⅠ)にも駒を進めた。

 「父の所有馬としては初めてクラシックに使えました」

 しかしその後、自己条件で大敗を喫すと、スパッと進路を変更。ダートに矛先を向けるや京都の1800メートルをいきなり1分48秒6という芝なみの時計で快勝。更にいずれもぶっち切りで3連勝を記録した。

準オープンのアレキサンドライトSは2着に5馬身差をつけて圧勝
準オープンのアレキサンドライトSは2着に5馬身差をつけて圧勝

 「父が何としてもクラシックに乗せたいという事で芝を使っていましたが、血統的にダート参戦は早々から考えていました」

 こう言うと、同馬との思い出を述懐する。

 「アメリカで歩きに歩いて必死に探した馬だし、馴致をしたのも私が行かせてもらったフロリダの育成牧場なので思い入れは強いです。その牧場の社長も惚れ込んでいたので、いつかこの馬でアメリカへ遠征して、その席に皆を呼んで恩返しをしたいです」

 アメリカンシードという馬名は、トーナメントの下級条件を免除される“シード権”からとった。つまり一流選手に与えられる特権からの命名だと言う。そしてそれは「アメリカの人が耳にしても分かりやすいように」という意味も込められているのだそうだ。

 「父は偉大過ぎて越えられない存在ですけど、少しでも力になれるように、まずはこの馬で好結果を残したいです」

 華やかなGⅠの裏で行われるGⅢ。そこで、将来GⅠを勝ってアメリカへ挑戦する馬が激走するかもしれない。日曜は中山競馬場にも注目しよう。

吉澤ステーブル・ウエストでアメリカンシードを見守る吉澤綾花(背中。本人提供写真)
吉澤ステーブル・ウエストでアメリカンシードを見守る吉澤綾花(背中。本人提供写真)

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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