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落馬から3週間。未だに意識の戻らないフィリップ・ミナリク騎手の現在

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
昨年のシャーガップでのフィリップ・ミナリク騎手。

突然、襲った悲劇

 7月3日のドイツ、マンハイム競馬場。陽光が降り注ぐ好天の下、レースは順調に行われ、第7レースを迎えていた。

 このレースでフィリップ・ミナリクが騎乗していたのはダスキーダンス。返し馬の時から首をグッと曲げ、少し難しそうな様子は見せていたが、その後に悲劇が起こるとは誰も思っていなかった。ゲートが開くとダスキーダンスは進んで行く素振りを見せず、最後方からの追走。トリッキーな最初のコーナーを各馬が右にカーブする。そして1番後ろを走るダスキーダンスが曲がり切ったところでそれは起きた。同馬が躓くと、ミナリクが馬場に叩きつけられたのだ。

 最初にテレビ画面越しで見た時は、それほど大きな事故にはならないかと思ったが、よく見るとそんな事はなかった。落ちたミナリクはピクリとも動かなかったのだ。係員がミナリクに駆け寄った時、すでに彼の意識はなく、足は鮮血に染まっていた。それもそのはず、後から聞いた話では、足の骨が皮膚を突き破り、外に出ていたそうだ。

 救急車ですぐに病院に運ばれたミナリクは、自身の意識が戻るのを待たず、緊急手術を施された。私はこの時点で彼を知る関係者数名にすぐに連絡を入れた。最も早く返事をくれたのはジャパンC騎乗や短期免許での来日経験もあるアンドレアス・スボリッチ元騎手。日本時間4日の昼過ぎには返信が届き、そこには次のように記されていた。

 「彼はくるぶしと足の手術を無事に成功した。しかし、落馬後、昏睡状態が続き、依然、予断は許さない状況です」

真っ先に連絡をくれたA・スボリッチ元騎手(右)とミナリク
真っ先に連絡をくれたA・スボリッチ元騎手(右)とミナリク

故人との約束の地・日本が大好き

 さて、ここからは以前、別記事で記したが、彼の人となりの分かる逸話を改めて書かせていただく。

 私がミナリクと親しくなったのはそれほど昔の話ではない。2017年11月、彼がジャパンC(G1)でギニョールに騎乗するために来日した時だった。14年にはアイヴァンホウで、翌15年にはイトウで彼はそれぞれジャパンCに騎乗していた。しかし、当時、日本で個人的に話した記憶はほとんどない。その後、ヨーロッパで彼と顔を合わせる事もあったが、挨拶をかわす程度だった。しかし、そうやって顔を合わせていたのが呼び水となったのか潤滑油となったのか、17年に来日した際は、どちらからともなく言葉をかわすようになった。そのレース後、彼は一緒にドイツから来日していた親友でもあるダニエレ・ポルクと笑いながら私に言ったものだ。

 「レース前『キタサンブラックを負かそうと思ったら、ゴール前200メートルで彼の後ろにピタリとつけているように乗ろう』とダニエレと話していたんだけど、その後『とてもそんな形に持ち込めるレベルではないかな……』とも言っていたんだ。結果、思った通りだったね。やっぱりレベルが違ってかなわなかったよ」

2017年、D・ポルク(左)と共にジャパンCに騎乗したミナリク
2017年、D・ポルク(左)と共にジャパンCに騎乗したミナリク

 こうして帰国した彼だが、翌18年の2月には短期免許での来日を果たす。そして、その際、ポルクとの話を伺った。前年のジャパンCに騎乗したポルクが、帰国後、ミナリクに電話を寄越し「余命いくばくもない」事を告げると、実際、年が明けてすぐに34年の短い生涯に幕を下ろしてしまったのだ。当時の話をするミナリクは目を伏せがちにして次のように言った。

 「ダニエレと僕は共に日本が大好きだった。だから『一緒に短期免許で日本へ行こう!!』と約束をしていたんです。でも、彼の夢はかなわないモノになってしまいました。だから、僕は彼の分までこの願いを実現しなければいけなかった。今回、短期免許で来日するにあたり、彼の遺品の鞍を持って来たので、これを着けて、一緒にレースに勝ちたいんです」

 その後、19年、そして今年も彼は短期免許を取得し、日本で騎乗。JRAで合計29勝を挙げたが、その中の幾つかはポルクの鞍でマークした。今年、一緒に食事をした際、彼は言っていた。

 「ダニエレの鞍は壊れてしまっていたんだけど、日本の優秀な業者さんが修理をしてくれました。改めて、そしてますます日本の事が大好きになりました」

居酒屋で緑茶を片手に食事をしながらポルクの事やファンの話など色々な事を話してくれたミナリク
居酒屋で緑茶を片手に食事をしながらポルクの事やファンの話など色々な事を話してくれたミナリク

 現在はヨーロッパでもカタカナでミナリクと書かれたパンツで騎乗するなど、本当に日本を愛してやまなかった。日本の競馬を、騎手を、食事を、文化を、全てを愛していた。話しているだけで、そんな気持ちはヒシと伝わった。彼が好んで行っていたのは、普通の居酒屋だった。「お酒を辞めて何年にもなる」と言う彼は、冷たい緑茶を飲みながら、よく言っていた。

 「日本の食事は安くて美味しい。人も皆、本当に親切。ジョッキーは皆、上手でフェアーだし、性格も良くて、何かあれば助けてくれる。そして、それはファンも同じ。いつも温かい声援を送ってくれます。人気を裏切ってこちらが申し訳ない気持ちになっている時でさえ、応援してくれます。世界一のファンだと思います」

 だから彼はレース後、どれだけ大人数が相手でもファンにサインをし続けた。実際、そんな光景を目の当たりにしたファンも多いだろう。

 しかし、今年、来日した際は「成績的にこれが最後の来日になるかも……」と寂しそうに語っていた。更にコロナ禍が襲い、最後は無観客での競馬になってしまうと「ファンの皆さんに、直接お礼が言えずに帰国するのは心苦しい」とも言っていた。

時間の許す限りファンにサインをし続けたミナリク
時間の許す限りファンにサインをし続けたミナリク

手術、転院も予断を許さない状態が続く

 だからこそ、また来日していただきたいと思っていた矢先、冒頭で記した落馬事故に遭ってしまった。忌まわしい事故から3週間が過ぎたが、彼の意識は未だに戻っていない。途中、ヘリコプターを使って大きな病院へ転院した。この間もずっと妻のカチャが付き添っているとの事で、3歳になる娘のフィニャもパパが大変な事態に巻き込まれているのは理解しているようだ。そして、伝え聞きではあるが、医師からは次のように診断されているらしい。

 「手術した足は順調に快方へ向かっています。しかし、頭の方はどうなるか、私達にもまだ分かりません」

 コロナ禍により開幕の遅れたドイツの競馬が5月に再開される際「やっと乗れるよ」と喜んでいたミナリク。しかし、僅か2ケ月後にこんな事になると分かっていれば、ずっと中止で良かったと思ってしまう。浪花節的に記すつもりはないが、今はポルクがミナリクに「こんなに早く再会する気はないよ」と言ってくれていると信じたい。そして、皆、頑張っているので、普段、ジョッキーに対して「頑張れ」とは言わない私だが、今回ばかりは言わせていただく。フィリップ、頑張って生き抜いてくれ。そして、世界のどこかで競馬について、日本について、また語り合おう。君の大好きな沢山の日本のファンが応援している。その声が、きっと届く事を願っている。

ターフィーを抱く愛娘のフィニャちゃんと。1日も早くこんな日常が彼に戻る事を願おう
ターフィーを抱く愛娘のフィニャちゃんと。1日も早くこんな日常が彼に戻る事を願おう

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

*規定によりここにリンクを貼れませんが、現在、ミナリク騎手応援寄附金のサイトが出来ており、日本語での案内も上がっております。今回の記事の収益金も全額そこへ寄付をさせていただきます。

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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