間もなくに迫った4月8日が調教師・鹿戸雄一にとって特別な日である理由とは

阪急杯を勝った鹿戸厩舎のベストアクター(写真は由比ヶ浜特別出走時)

幼少時から馬に囲まれ弟と共に騎手を目指す

 3月1日、阪神競馬場で行われた阪急杯(G3、芝1400メートル)。JRAとしては初めてとなる無観客での重賞競走を優勝したのはベストアクター(せん6歳、美浦・鹿戸雄一厩舎)だった。

 「以前は体質的に弱かったけど、だいぶパンとしてくれて、良い脚を使ってくれました」

 指揮官・鹿戸はそう語った。

 そんな鹿戸にとって、間もなくに迫った4月8日は、特別な日だった。

 1962年5月23日、父・忠雄、母・トシ子の下、北海道の日高門別で生まれ、育てられた。幼少時からポニーに乗り、中学生の頃は草競馬にも参戦した。

幼い頃、ポニーに乗る鹿戸。曳いているのは父の忠雄氏。本人提供
幼い頃、ポニーに乗る鹿戸。曳いているのは父の忠雄氏。本人提供

 「父が牧場勤務だった事もあり、幼い頃から馬と親しむ暮らしをしていました。友達は牧場の子も多く、皆で騎手を目指しました」

 草競馬で切磋琢磨するなど、一緒に騎手を目指した仲間に、近しい男がいた。1歳違いの弟・敏昭だ。

 鹿戸は中学を卒業すると上京。当時はまだ競馬学校のない時代。馬事公苑で騎手課程を受講。敏昭も1年遅れで鹿戸の後を追うように馬事公苑にやってきた。当時は騎手課程を終えて初めて騎手試験に臨めるという制度。鹿戸は2年半の受講を終えて騎手試験に臨んだが不合格。翌年は弟と共に受験するも揃って不合格。そのまた翌年も一緒に受けたが共に難関を突破する事は出来なかった。

 「更にその翌年、僕は4回目、弟にとっては3回目の受験になった時、僕だけ合格出来ました」

 こうして鹿戸は84年、21歳で念願の騎手デビューを果たした。

 一方、敏昭はみたび不合格になった時点で体重管理にかなり苦労していた。

 「減量がキツくて、とうとう彼は騎手の道を諦めてしまいました。ただ、競馬の世界には残りたいという事で、調教助手になりました」

 立場は変わったが共にトレセンに身を置いた。歳も近く、幼い頃から仲良し兄弟だった事もあり、しょっちゅう行動を共にした。やがて両親を北海道から美浦へ呼んだ。敏昭の家で一緒に暮らすようにしたのだ。

現在の鹿戸
現在の鹿戸

弟の死から立ち直って重賞制覇

 騎手デビューをして7年目の90年、4月8日の事だった。前日、東京競馬場で騎乗した鹿戸は、翌日の知人の結婚式に備え、都内のホテルに泊まっていた。そんな時、電話が鳴った。

 「敏昭が車に跳ねられて入院したと聞かされました」

 鹿戸は出席する予定だった結婚式をキャンセル。すぐに搬送先の病院へ向かった。病院には両親も駆けつけた。この時点で敏昭は意識がなかったが、皆で回復する事を祈った。

 「北海道の田舎から出てきて馬事公苑へ行き、その後は美浦で働いて……。物心がついた時からずっと一緒にいましたからね。何とか一命を取り留めてくれと祈り続けました」

 しかし、鹿戸のそんな願いは天に届かなかった。敏昭は呆気なく27年の人生に幕を下ろした。

 「両親も泣き崩れていたけど、私自身もショックが大きくて、しばらくはまともに働けないと思いました」

競馬評論家の大川慶次郎と幼少時の鹿戸兄弟(左が鹿戸)。本人提供
競馬評論家の大川慶次郎と幼少時の鹿戸兄弟(左が鹿戸)。本人提供

 そんな精神的に苦しい時、助けてくれる人達がいた。

 「同期の杉浦(宏昭現調教師)や田面木(博公現調教助手)、三浦(堅治現調教助手)や原(昌久、引退)、それに当時はまだ若手騎手だった松永幹夫(現調教師)や横山典弘、武豊や田中勝春といった仲の良いジョッキー達には随分と励まされました。落ち込んでいる時に、あちこち誘ってくれて、お陰ですごく救われました。彼等がいなかったら立ち直るのにもっと時間を要しただろうし、騎手を続けられたかどうかも分かりませんでした」

 こうして再び騎手として自分の仕事に集中出来るようになると、悲劇の翌年の91年、ヨドノチカラでタマツバキ記念を優勝。自身初の重賞制覇を飾った。その後もビーマイナカヤマで2000年、01年のガーネットS(G3)連覇やゼンノロブロイのイギリス遠征に帯同するなど経験を積み、07年2月に引退するまでに350近い勝ち星を挙げた。

イギリス・ニューマーケットでゼンノロブロイに跨る鹿戸
イギリス・ニューマーケットでゼンノロブロイに跨る鹿戸

調教師になった今でも競馬へ行く前に欠かさずやる事

 騎手引退後、08年から調教師になると、開業年にスクリーンヒーローでいきなりジャパンC(G1)を優勝。その後もエフティマイアやフォーエバーモアなどでG1戦線を賑わした。

開業年にスクリーンヒーローでいきなりジャパンC(G1)を優勝。写真提供;アフロ
開業年にスクリーンヒーローでいきなりジャパンC(G1)を優勝。写真提供;アフロ

 そして、冒頭で記した通り、この3月にはベストアクターが阪急杯を制覇。16年にビッシュで勝った紫苑S以来となる重賞制覇をマークしてみせた。ちなみにこのレースは冒頭で記したように無観客で行われたが、これには鹿戸が笑いながら一つのエピソードを教えてくれた。

 「私の師匠の久保田金造調教師がよく『自分は無観客のレースを勝った事がある』と言っていました。カイソウで勝利したダービー(1944年)がそうだったようです」

 子弟二代にわたり無観客競馬を勝利したわけだが、今回のベストアクターは鹿戸調教師にとって縁の深い馬。名牝ダイナアクトレスの仔である母ベストロケーションも鹿戸が管理していた馬だし、その姉妹であるランニングヒロインの仔が先出のスクリーンヒーローだ。そんな思い入れのある血統馬ベストアクターについて、次のように語る。

 「骨折のタイミングで去勢をして、その後も休みながら1400メートル戦に的を絞って使ってきました。ここにきてようやく体質が強化され、今回も前走(2月15日、雲雀S1着)を激走した後だったけど、全くガクッと来る事もなく元気でした。今はひと息入れており、夏以降の復帰を目指しています」

ベストアクター
ベストアクター

 そんな鹿戸が競馬場へ行く前に必ずしている事がある。弟・敏昭の仏壇に手を合わせ『無事を祈ってください』とお願いするのだ。敏昭が亡くなって30年が過ぎたが、これは1度も欠かした事がないと続ける。そして、その仏壇には一昨年の暮れから父の忠雄も加わっていた。鹿戸がこの世界に入るきっかけを作ってくれた人物であり、常に温かい目で見守ってくれていた忠雄は18年12月、80歳で鬼籍に入ったのだ。

 「自慢の兄であり、自慢の息子と思ってもらえるように、もっとしっかりやっていかなければいけないと思っています」

 弟の命日を前に改めてそう誓った鹿戸。ベストアクターを始めとした今後の活躍を父と弟も期待している事だろう。

画像

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)