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令和初のダービー。人気になったかつてのパートナーとの対戦を前に浜中騎手が言った言葉とは?

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

かつてのお手馬がダービーで人気に

 2018年8月6日。新潟ではレパードSをグリムが制し、小倉では小倉記念をトリオンフが優勝したその翌日、私は浜中俊と連絡をとった。

 「昨日の新馬、楽しみだね!!」と声をかけると、彼は答えた。

 「見ました? あれは相当、凄いです。期待しています」

 8月5日の小倉競馬場、芝1800メートルの新馬戦。浜中を背にほとんど持ったまま2着に8馬身の差をつけて勝利したのがヴェロックスだった。

 しかし、同馬は続く野路菊Sで2着に敗れると浜中の手を離れ、その後、二度と戻ってくる事はなかった。

 同馬は後に他の騎手で若駒Sと若葉Sを連勝。クラシック第一弾となる皐月賞ではサートゥルナーリアとアタマ差の2着。それもかわされた後、差し返す勢いを見せ、実際、フィニッシュラインを過ぎた後ではあるが、皐月賞馬をかわしていた。

 それほどにしか差がなかったにもかかわらず、日本ダービーに於けるオッズ差はかなり開くと予想出来た。実際にサートゥルナーリアの1・6倍に対し、ヴェロックスは4・3倍もつくのだが、そういう意味で妙味は後者にあると思った私は、ダービーを控えた週の半ばに浜中と連絡をとり、言った。

 「ヴェロックスが勝ちそうだね?」

 浜中は現役のジョッキーなのでもちろん予想行為は出来ない。だからある程度、考えられた範囲ではあるが、興味深い答えを返してきた。

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祖父に勧められジョッキーに

 1988年12月25日生まれで昨年30歳になった浜中俊。福岡県北九州市で父・一幸、母・純子の下に生まれ、5歳上の兄と共に育てられた。

 幼少時は空手や水泳を教わっていたが、競馬好きだった祖父に勧められ、一緒に小倉競馬場へ行くようになるとジョッキーに関心を抱いた。

 そこで「乗馬を始めたい」と家族に言うと、またも祖父が小倉競馬場の乗馬苑のチラシを見つけてきた。こうして小学5年の時から乗馬を始め、本格的に騎手の道を目指すようになった。

 2004年に競馬学校に入学すると、翌05年には師匠となる坂口正大との出会いが待っていた。

師匠の坂口正大元調教師
師匠の坂口正大元調教師

 「競馬学校時代、悪さをして退学になりそうになった事がありました。その時、学校側に頭を下げて僕をかばってくれたのが坂口先生でした」

 そんな師匠から、デビュー直前に一つの短歌を渡された。

 “滝のぼる 鯉の心は張り弓の 緩めば落つる 元の川瀬に”

 「ジョッキーになった後、勝てるようになったとしても努力を怠ればすぐにまた勝てなくなる。だから油断はせずに努力を続けなさいという意味だと聞きました」

 07年に騎手デビューすると、翌08年にはデグラーティアに乗って小倉2歳Sを優勝。重賞初勝利を飾ると、同馬とのコンビでG1初騎乗(阪神ジュベナイルフィリーズ)も果たした。

 さらに翌年の09年にはスリーロールスを駆って菊花賞を優勝。弱冠二十歳でG1ジョッキーとなってみせた。

 驚くのはまだ早かった。12年には131勝を挙げ、僅か24歳でJRAリーディングの座を射止め、前年に定年となった師匠の坂口に朗報を届けた。

 その後もミッキークイーンでのオークス(15年)やラブリーデイでの秋の天皇賞(同15年)、ミッキーアイルのマイルチャンピオンシップ(16年)など、ビッグレースを度々制覇した。

2015年にはミッキークイーンでオークスを制覇
2015年にはミッキークイーンでオークスを制覇

自ら手繰り寄せたダービーへの道

 しかし、必ずしも順風満帆だったわけではなかった。

 競走中の落馬でラチの外へ飛ばされ怪我を負った。復帰直後に再びラチを飛び越す落馬で意識を無くし、4カ所も骨折する大怪我を負った。また、度重なる騎乗停止にバッシングを受ける事もあった。

 「ミッキーアイルでマイルチャンピオンシップを勝った時も騎乗停止になったのですが、僕を競馬に誘ってくれた祖父が亡くなるタイミングと重なった事もあって凹みました」

 それでも坂口からもらった言葉を忘れた事はなかった。

 真摯な態度で努力を続ける事で、少しずつ評判を回復していった。冒頭に記したように昨夏にはヴェロックスのような素晴らしい若駒を依頼された。同馬は乗り替わりになったが、5月4日の京都新聞杯でロジャーバローズの騎乗依頼が舞い込んだ。

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 「『今年のダービーは乗れないのかな……』と思ったところで依頼を受けました」

 何とか期待に応えてダービーに出られるように騎乗し、2着を確保。途切れたかと思えた日本ダービーへの道を自ら手繰り寄せた。

 ここで先の会話である。「ヴェロックスが勝ちそうだね?」と言った私に対し「勝たれたら悔しいだろうけど、嬉しくもあるでしょうね」と口を開くと、更に続けた。

 「でも自分は自分の馬が勝てるように考えて乗るだけです!!」

 自分の馬が勝てるように、という乗り方が「持ち味である長くよい脚を使う」乗り方だった。速い流れを先行し、早目に抜け出す。そして後続の馬に脚を使わせて粘り切る。実際にそういう騎乗が出来た事でダービージョッキーの称号を手に入れてみせた。

 関西のテレビで解説をしていた師匠はカメラの前で涙を流して喜んだ。亡くなったおじいちゃんも天国でうれし泣きをしている事だろう。

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(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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