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2011年の日本馬が優勝したドバイワールドカップの舞台裏で起きたもう一つの物語とは……

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
2011年ドバイWCを制したヴィクトワールピサ。向かって左が松田全史調教助手

騎手を諦めても馬の道を諦めはしなかった

 今週末はドバイワールドカップが行われる。

 2011年、東日本大震災の直後に行われたこのビッグイベントで、日本馬が史上初めてワンツーフィニッシュを決めた。中東の夜空に鳴り響く君が代は、復興を願う日本のファンの心にこだました。

 競馬ファンなら記憶に新しいであろうこの時、その舞台裏で一つの物語があった事は、誰にも知られていない。

ヴィクトワールピサのジャンパーに身を包む松田全史調教助手
ヴィクトワールピサのジャンパーに身を包む松田全史調教助手

 松田全史は1974年3月25日生まれだから丁度45回目の誕生日を迎えたばかり。父・幸春、母・厚子の下、3人兄弟の長男として育てられた。

 父は元騎手、母の父・由太郎は元調教師。その血統から自身も中学で本格的に乗馬を始めると、大きくなった体を減量してでも「騎手を目指した」のは自然の流れだった。

 騎手が危険な仕事である事を誰より良く知る父や祖父、そして母からも反対されたが、最終的に騎手を諦めるトリガーとなったのは、JRAの競馬学校(騎手課程)に不合格となった事だった。

 しかし、馬の道を諦めたわけではなかった。馬術部のある高校へ進学すると3年間、乗り続けた。大会で優勝する事もあった。在学時、祖父の伝手を頼りに生産牧場でアルバイトもした。卒業後には更に大きな展開が待っていた。これも祖父の紹介で、半ば強引に飛ばされるような形でアイルランドへ行った。

 「半年間、英会話学校へ通った後、まず生産牧場で半年働きました」

 種牡馬の馬房の寝わらをあげたり、繁殖牝馬を放牧に出したり、2歳馬の手入れや曳き運動をして、サラブレッドのいろはのいの字を叩き込まれた。

 その後、マイケル・コーン厩舎で働いてから一旦帰国。栃木の芳賀牧場で1年汗を流した後、今度はイギリスへ。ニューマーケットのクライヴ・ブリテン厩舎で乗り手として働いた。

 「再び帰国した後、社台ファームを経て、競馬学校(厩務員課程)に合格しました」

 96年3月に卒業すると、柴田光陽厩舎を経て、1年2ヶ月後には森秀行厩舎へ移った。

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天狗になっていた日々

 ここで松田の人生が大きく変わった。

 98年、厩舎のシーキングザパールが欧州遠征。フランスでモーリスドギース賞(G1)に出走した。松田は日本に居残ってこの様子を見守った。

 「正直、かなわないと思っていました。シーキングザパール自身、日本でもトップホースというわけじゃありませんでしたから」

 当時はまだ海外でG1を勝った日本馬は1頭もいなかった。松田がそう考えるのも無理はなかった。しかし、結果は見事に優勝。JRA調教馬として初めて海外G1勝利を記録した。

 「挑戦する事の大事さを教わりました」

 2000年にはアグネスワールドやエアシャカールら3頭が海を越えた。松田はこの約3カ月にわたる遠征に帯同するよう、森に命ぜられ、馬と共にニューマーケットで過ごした。結果、エアシャカールでは伝統のキングジョージ6世&クイーンエリザベスS挑戦を経験、アグネスワールドが競馬発祥の地でG1ジュライCを制覇してみせた。

 当時、森厩舎の勢いは国内でも止まるところを知らなかった。JRAと地方交流の成績を合わせると1年間でどの厩舎よりも多く勝った年もあった。一見、誰もが羨むような環境。その中にこそ、落とし穴があった。

 「まず金銭感覚が狂いました。それだけならまだしも完全に有頂天になって、人間関係もおかしくなりました」

 『天狗になっているぞ』と忠告してくれる知人に対しても「この鼻を折れるものなら折ってみろ」という気持ちで接していたと言うのだから、重症だった事がうかがい知れる。そんなある日、森から言われた。

 『馬があってこそだぞ。注意しろ』

 「そういう事をまず言わない森先生が言ったのだから、僕が相当生意気だったのでしょう。でも、自分では気付いていませんでした。当時は『どの厩舎へ行ったって俺が走らせてみせる』って思うくらい勘違いしていました」

 だから、厩舎を飛び出した。一厩舎を挟み、09年3月から、現在の角居勝彦厩舎へ移った。

現在は角居厩舎で汗を流す松田
現在は角居厩舎で汗を流す松田

 そこで出会ったのがヴィクトワールピサだった。

 「初めて跨って、2〜3歩あるいただけで今までに経験した事のない感触を得ました。すぐに先生に『この馬はずっと乗せてください』って頼みました」

 結果、10年の皐月賞を勝ち、有馬記念にも優勝。翌春、果敢にドバイへ飛んだ。

ドバイワールドカップ制覇の裏にあったもう一つの物語

 「森厩舎時代、ノボトゥルーについてドバイへ行った事があったけど、その頃はナドアルシバ競馬場でした。メイダン競馬場になり、ダートコースもオールウェザーに変わっていた。街を含め全てが近代的に変貌を遂げていました」

 そのオールウェザーの上でヴィクトワールピサの調教をつけると「おっ!」と思った。

 「クッションがあってグリップ力が必要。ヴィクトワールには合っていると感じました」

 その感覚に誤りはなかった。最後の直線では同じ日本馬のトランセンドと競り合ったが、半馬身先着し、日本馬として史上初めてドバイワールドカップのゴールに先頭で飛び込んでみせた。

 「調教に乗っていて直線が長いと感じていたので粘れるか心配でした。でもゴールの瞬間は勝ったのが分かりました」

 直前に起きた東日本大震災の被災者の事を思うと、あまり派手には喜べないと思った松田だが、いざ表彰台に上がると、自分でも思わぬ行動をしてしまったと言う。

ドバイ、メイダン競馬場でヴィクトワールピサの調教に跨る松田
ドバイ、メイダン競馬場でヴィクトワールピサの調教に跨る松田

 皆が注目していたあの場所で、誰にも気付かれずにとった行動を紹介する前に、時計の針を少し巻き戻そう。

 松田が我を失っていた事は先述した通りだが、そんな時、彼の胸の中に飛び込み楔を刺してくれた1人の女性がいた。

 のぼせていた男に、彼女は言った。

 「貴方ってそんなに偉いの?」

 このひと言に、1人の力でそんなに変わるのか? 沢山の人が関わって走るのではないか? そもそも走るのは馬ではないのか? など、沢山の意味が込められていると松田は感じた。そして、思った。

 「何より『勝てば良い』ではない」

 厩舎を飛び出た後も普通に接してくれる森や、既に生意気だったのに拾ってくれた角居。そして、父や祖父に、まず生産牧場へ送り込まれた日々を思い出した。

 「その女性のおかげで、自分1人では何も出来ない事に、遅まきながら気付かされました」

 そんな彼女と付き合い出した松田は11年のドバイにその恩人を連れて行った。そして、レース前に約束をした。

 「勝ったらプロポーズをする」と。

 そして、実際に優勝し、表彰台に上がると、そこから客席にいる彼女と目があった。そして、口を動かした。

 「結婚しよう」

 その動きに気付いた彼女はこくんと小さく頷いた。

 今では子宝にも恵まれた。

 「妻に見守られながら、親子三代で馬に跨る時間が、至福のひとときです」

 そう語る松田に、勘違いをしていた頃の面影はない。現在はカンタービレほかを担当しているが、その鼻が決して高くないのは一目瞭然だ。

親子三代で馬に乗る時間が今の松田にとって最も幸せなひとときだ
親子三代で馬に乗る時間が今の松田にとって最も幸せなひとときだ

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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