JRA通算500勝を達成した大野拓弥騎手が、もう1日早く達成したかった理由とは……

1月27日の東京競馬でJRA通算500勝を達成した大野拓弥騎手

勝たなくては駄目と痛感した出来事

 1月27日の東京競馬、第8レース。ハルクンノテソーロに騎乗し先頭でゴールしたのは大野拓弥騎手。彼にとってこれがJRA通算500勝目となる勝利だった。

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 大野が生まれたのは1986年9月8日。埼玉県で4人兄弟妹の次男として生まれ、育てられた。馬との接点は父が競馬好きだった事。小学6年生の時には、父と男兄弟の4人で乗馬を始めた。大野は馬とのファーストコンタクトについて、次のように述懐する。

 「最初に乗った時から面白いと思い、ノメり込みました」

 中学卒業まで乗馬を続け、2002年には競馬学校に入学。05年に卒業すると美浦・杉浦宏昭厩舎からデビューを果たした。

 デビュー戦は最悪だった。

 ゲートが開くとすぐに馬場に投げ出され競走中止。

 「走り去る馬を見ながら『とんでもない事をしてしまった』と思いました」

 叱られる事を覚悟して調教師の下に戻った大野に対し、師匠は言った。

 「怪我はないか?」

 大野は言う。

 「こちらの身体を心配してくれました。更に翌週には圧倒的1番人気になるような馬に乗せてくださいました」

 その馬で初勝利を飾った事を今でも忘れないと続ける。

 「杉浦先生は厳しい反面、優しくて、僕の競馬もすごく良く見てくださっていました。騎手出身という事もあり、何度もアドバイスしてくださいました」

 更に初勝利のウィナーズサークルでも忘れられない出来事があった。

 「父が見に来てくれていました。スタンドにいるのが分かりました」

 元来、真面目な性格の上に、師匠のサポートも厚く、1年目に11だった勝ち鞍は2年目に31。飛躍的に伸びた。

 その2年目に、その後の大野の騎手としての根幹を司ると言っても過言ではない出来事が起きる。

 それは06年9月4日の朝の事だった。

 前日、大野は新潟競馬場で騎乗していた。そして、メインレースの新潟2歳Sで、11番人気のマイネルーチェを2着に好走させた。2番人気で勝利したゴールドアグリにはハナ差敗れたが、単勝51.4倍の馬を駆っての好走劇。敗れた悔しさはあったが、それなりの騎乗は出来たという気持ちも持っていた。

 ところが、翌朝の新聞を見て、驚いた。同期の鮫島良太が見出し付きで大きく紙面を割かれているのに対し自分の記事はほんの気持ち程度のスペースで扱われているだけだった。

 「同じ日に行われた小倉2歳Sで同期の鮫島君が重賞初勝利を挙げていました。新潟で2着に負けていた僕とは取り上げられ方が違いました」

 『競馬は勝たなければ駄目』

 そう痛感した。

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あの舞台で悲願のG1制覇

 その思いは、さらに日を追う毎に強くなった。1年、2年と時が過ぎてもなかなか重賞で勝ち負けするチャンスには巡り合わなかった。

 大野が初めて重賞を制したのは11年の12月。新潟での惜敗から実に5年以上の歳月を要した。コスモファントムを駆って中日新聞杯を優勝し、念願の重賞Vを果たしたのだ。

 「時間がかかっただけに喜びもひとしおでした」

 重い十字架が下ろされたのか、その後は堰を切ったように重賞を勝った。翌12年にはトランスワープで函館記念と新潟記念を勝つと更に翌13年はヒットザターゲットで小倉大賞典、インカンテーションではレパードSを優勝した。

 そして「今でも最も印象に残っている」(大野)というレースがやってくる。

 14年のスプリンターズS(G1)だ。

 スノードラゴンで挑んだ大野は「馬群に入れると脚がたまって確実に末を生かしてくれるタイプ。だから大外枠だけはイヤ」という気持ちで枠順の発表を待った。そんな彼に告げられた枠順は18頭立ての18番枠だった。

 そんな嫌な雰囲気を吹き飛ばしてくれたのはスノードラゴン自身だった。

 「思った以上に落ち着いていて、スタートもいつもより速いくらい。普段より一列前の位置での競馬になったけど、掛かる馬では無いし終始好手応えだったので『これなら!』という思いで乗れました」

 結果、大野はデビュー10年目で初となるG1制覇を成し遂げた。

 「自然とガッツポーズが出ました」

 例年、中山競馬場で行われるスプリンターズSだが、この年は同競馬場のスタンド改修工事に伴い、新潟競馬場の芝1200メートルが舞台となっていた。それは9年前の新潟2歳Sで惜敗を喫したのと全く同じ舞台だった。

美浦トレセンでのスノードラゴンと大野騎手
美浦トレセンでのスノードラゴンと大野騎手

500勝を1週前に達成したかった理由

 それから1年に満たない翌15年の新潟競馬場ではJRA通算300勝を挙げた。更に翌16年にはサウンドトゥルーに乗ってチャンピオンズC(G1)を優勝。自身2度目のG1制覇を飾った。

 成績も年々向上し、16年に自身初の50勝超え(52勝)を決めると、翌17年が56勝、そして18年は更に飛躍して75もの勝ち鞍をマークした。

 「とくに変わった事をしたわけではありません。17年の夏からエージェントに頼らずに自分で馬集めをするようになったくらいです」

 サラリとこう言うが、騎乗馬の交通整理をしてくれるエージェント無しでの馬集めは楽な事ではない。それでも大野は言う。

 「騎乗依頼の電話で睡眠を妨げられる事があるのも事実です。でも、自分で選んだ事ですから苦には感じません」

 ではそもそもなぜ、エージェントをつけなくしたのか?

 「前のエージェントの方には本当に良くしていただきました。感謝しかありません。でも、いつしか頼り過ぎるようになってしまいました。何もかもお任せしてしまい、これでは自分のために良くないと考えて、とりあえず一度自分でやらせてもらう事にしました」

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 冒頭で記したように1月27日の東京競馬でJRA通算500勝を達成した。

 「オーナーや調教師、前のエージェントの方など、周囲で助けてくださる皆様のお陰です」

 そう口を開いた大野はもう1人、大切な人の名を挙げた。

 「妻にも感謝しています」

 2010年に結婚し、現在は4人の子宝に恵まれている。

 「週末、僕が競馬場へ行っている間、まだ幼い4人の子供の面倒を1人で見てくれています。たまに4人を連れて競馬場へ応援に来てくれる事もあるけど、それも想像以上に大変な事だと思います。でも、彼女がそうやって家庭を見てくれるから僕は競馬に集中出来る。彼女無くしてはこれだけ勝つ事も出来ません」

 500勝に王手をかけたのは達成した1週間前。その瞬間を見届けようと、この週、家族が競馬場に来ていた事を、大野は後から知る。

 「子供から教えてもらって知りました。妻はひと言も言っていませんでした」

 ウィナーズサークルでの500勝のインタビューが終わった直後、検量室へ向かう通路を歩きながら、彼は次のように言った。

 「もう1週、早く達成しなければいけませんでした」

 その表情には笑顔と悔しさが同居して見えた。達成出来るかどうか分からない記録のために、4人の子供を連れてまた競馬場に来てくれとは言えない。愛する妻に対するそんな優しさも垣間見る事が出来た。

この撮影の直後に「もう1週、早く達成したかった」と語った大野騎手
この撮影の直後に「もう1週、早く達成したかった」と語った大野騎手

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)