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天才二世ジョッキー・福永祐一が19回目の挑戦で日本ダービーを勝てた理由

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
19回目の騎乗で初めて日本ダービーを制した福永祐一騎手

父の名前で入った競馬の世界

 「父の名前でこの世界に入った」

 第85回日本ダービーをワグネリアン で制した福永祐一はレース後の会見でそう口にした。

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 “天才”と呼ばれた福永洋一の息子として、彼がデビューしたのは1996年。初騎乗からいきなり連勝し「カエルの子はカエルか?!」と言われた。

 そんな華々しいデビューの直後、他の騎手を介して彼と知り合った。当時“時の人”だったにも関わらず、天狗になることなく素直な青年というのが第一印象だった。

 そんな縁で彼が関東で乗る時は今で言うエージェントのように馬集めをした。もっとも当方の実力不足でさほどの数も用意できなかったが、彼から感謝の言葉こそあれ文句を言われたことはなかった。

 また、当時は福永自身もまだ実績がなかったため「洋一さんとは違うだろ」と断られることも一切ではなかった。

 そんな中、乗せてくれる調教師としては、伊藤正徳や柴田政人がいた。いずれも父の洋一と同期の元騎手だ。

 「父の名前でこの世界に入った」との福永の言葉は比喩的表現ではなかったわけだ。

 こうして乗せてくれた1頭に伊藤正徳厩舎のディヴァインライトがいた。

 同馬は2000年のG1高松宮記念で福永を背に2着。勝ったのはキングヘイローだった。

 「悔しいのとショックで坂口先生に祝福の声すらかけられませんでした」

 坂口先生とはキングヘイローを管理していた坂口正大のこと。遡ること2年弱、福永は日本ダービーの大舞台で同馬の鞍上を任されていた。しかし、デビュー3年目でG1勝ちすらない若手には耐え難い重責だった。スタートから出して行った結果、直線は早々に失速してしまったのだ。後に彼は言っていた。

 「逃げを擁護してくれる人もいたけど、完全に自分の経験の無さが露呈しただけです。直線、かわされていく時は『あぁ……』という感じで目の前が真っ暗になりました」

「ダービーは一生、勝てないかと思った」

 露呈された経験の無さを埋める手はただ一つ。経験を積むよりなかった。

 幸い、彼を助けてくれる人は沢山いた。

 初めてダービーに騎乗した翌99年こそ怪我で乗れなかったが、以降は毎年のようにパートナーが用意された。

 また、ダービーと同じ舞台のオークスでは好結果を連発した。

 2004年にダイワエルシエーロでオークス初勝利を飾ると、翌05年にはシーザリオで連覇達成。更に06年はフサイチパンドラで2着した。

2005年のオークスを制したシーザリオではアメリカへ飛び、アメリカンオークス(G1)も優勝した。
2005年のオークスを制したシーザリオではアメリカへ飛び、アメリカンオークス(G1)も優勝した。

 そして、07年。オークスをローブデコルテで優勝すると、翌週のダービーではアサクサキングスの手綱をとり、自身8回目のダービー挑戦で初めて2着してみせた。

 このダービーの直後、話を聞きに行くと、彼は次のように語った。

 「東京2400の乗り方がだいぶ分かってきたように思います。ダービーもいずれ勝てる気がします」

 しかし、近付いたと思えたのは栄光の頂ではなく、イバラの道への入口だった。12年にはワールドエースで1番人気に推され、13年にはエピファネイアでゴール前、一旦抜け出した。15年のリアルスティールも2番人気に支持されチャンス到来かと思われた。ところがそれぞれ4、2、4着。先頭でゴールを駆け抜けることは出来なかった。結果、17年まで計18回と騎乗機会だけがその数を増やしていった。

 「もう騎手では一生勝てないかと思ったので調教師になって狙うしかないとも考えました」

 福永は冗談をまじえそう言ったが、手応えを感じてからまだ10年以上届かなかった時間の積み重ねが、そういう心情を構成したのだろう。

エピファネイア(中央黄帽)で挑んだダービーは、ゴール前で一旦抜け出しついに栄冠を掴んだかと思えた。しかし、次の刹那キズナ(ゼッケン1番)に差され悔し涙を飲んだ。
エピファネイア(中央黄帽)で挑んだダービーは、ゴール前で一旦抜け出しついに栄冠を掴んだかと思えた。しかし、次の刹那キズナ(ゼッケン1番)に差され悔し涙を飲んだ。

表裏一体の“良いところ”と“悪いところ”

 アサクサキングスとエピファネイアで2着したことは先述した。しかし、福永にとって最も惜しかったダービーがそれより前にあった。

 話は2003年に遡る。

 この年のダービーで福永が手綱をとったのはエイシンチャンプ。前年に朝日杯フューチュリティSを勝ち2歳チャンピオンになったが、このダービーでは5番人気で10着に敗れた。

 ちなみに直前の皐月賞は3番人気3着で、この二冠の勝ち馬はいずれもネオユニヴァース。どちらも1番人気に応えて優勝したこの馬は、元々福永のお手馬だった。皐月賞前まで4戦3勝だった同馬は、福永騎乗時は新馬戦やきさらぎ賞など、3戦3勝だったのだ。

 この結果に対し、口さがない人から「選択ミス」と言われた。しかし、福永は「後悔していません」と口を開くと、次のように続けた。

 「“強い”とか“弱い”とか、そういった能力を基準に選ぶことはありません。今回に関して言えばエイシンチャンプ陣営から先に騎乗依頼を受けていた。それだけです」

 この優しさは福永にとって悪いところでもあり、良いところでもあった。18度、ダービーで負けたのも、最終的に大願成就できたのも、彼の優しさがあればこそ、だったのだと思う。彼の優しさが関係者を惹きつけ、だからこそダービーでもこれだけ多くの騎乗機会を得たのだろう。もちろん技術の向上もあるだろうが、それだけでこれほど応援してくれる人に恵まれるとは思えないのである。

YoichiからYuichiへ

 1999年、福永と共にフランスへ渡ったことがある。その際、イギリスでの騎乗機会を得ると、現地の新聞には次のように記された。

 “父と同じ名前を持つYoichiがイギリスで初めて騎乗する”

 当時の彼の知名度ではそう間違われても仕方なかったのかもしれない。しかし、その後、彼は実績を積んだ。アメリカや香港でG1を勝つと、2006年、シャーガーCに選出された時にはYuichiと書かれるようになった。

2006年、英国シャーガーC参戦時。初めて英国へ渡った時はYoichiと書かれたがこの時はYuichiと正しく記された。
2006年、英国シャーガーC参戦時。初めて英国へ渡った時はYoichiと書かれたがこの時はYuichiと正しく記された。

 その後はアメリカで長期滞在して現地の競馬に挑んだり、ドバイでG1を勝ったりと、更に経験と実績を積み重ねた。

 そして抜けていた日本ダービー制覇というピースもついに埋めることが出来た。

2012年、アメリカ長期滞在時。左から3人目の白帽が福永騎手。
2012年、アメリカ長期滞在時。左から3人目の白帽が福永騎手。

 「父の名前でこの世界に入った」

 冒頭で記した福永のセリフだが、確かに最初の頃は「父の名前」が騎乗馬を呼んでくれたのかもしれない。しかし、その後、5年、10年と乗り続けられたのは、父の効力よりも本人の努力の成果だろう。

 そして、もう1つ。父が倒れた後も女手一つで福永を育てた母親のお陰でもあっただろう。彼女の教育が間違っていなかったから、福永は誰からも愛されサポートされる性格に育ったのだ。

 新たなるダービージョッキーの、今後ますますの活躍を期待したい。

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(文中敬称略、写真提供=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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