Yahoo!ニュース

大不振を乗り越えた騎手・柴田大知の師匠との複雑な関係、いまむかし

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
マイネルハニーでオーストラリア遠征の話も出ている柴田大知騎手。

 マイネルハニーにオーストラリア遠征の話が出ている。

 3歳時にチャレンジC優勝やスプリングS2着など重賞好走歴のある同馬だが、昨年暮れからはオープン競走を連勝。「ここにきて本格化した感があります」と語るのは、手綱をとった柴田大知騎手だ。

 マイネルラクリマによる香港遠征などがある柴田だが、マイネルハニーの遠征が実現すれば、管理する調教師の栗田博憲の馬では初めての海外挑戦となる。

 栗田とは師弟関係にありながらも、途中、騎乗機会のない時期があった。それは数年間にも及んだ。2人の間にあった溝と、現在の関係を、柴田の騎手人生を振り返りながら記していこう。

画像

師匠の下でデビューも、自分の意志で厩舎を飛び出す

 柴田大知がデビューしたのは1996年。花の12期生と呼ばれた同期には福永洋一の息子として注目されていた福永祐一や、JRAとしては初めての女性騎手が3人。柴田大知自身も弟の未崎と共にJRA史上初の双子騎手として話題になった。

 美浦・栗田博憲厩舎からデビューすると、同年3月2日に初騎乗。同31日には初勝利。5月には自身初の1日2勝。この中には初の特別競走勝ちも含まれていた。

 また、翌97年にはラジオたんぱ賞を優勝。2年目で早くも重賞を制覇した。

 さて、ここに記したメモリアルの騎乗や勝利には共通点がある。全て師匠・栗田博憲の管理馬だったのだ。師匠の全面的なバックアップもあってデビュー後の2年間をそれぞれ27、29勝もしてみせた。

 しかし、2年目の終わり頃、2人の間に亀裂が生じた。98年から3年間、柴田は栗田の馬に1度も乗っていない。

 「僕のわがままで厩舎を飛び出してフリーになりました」

 こう口を開いた柴田は続ける。

 「当時、お付き合いしていた女性がいて、彼女と結婚を考えていることを相談しました。形上は相談でしたけど、自分の中ではもう“決定事項”でした。でも、栗田先生には『まだ早いのでは?』と反対されました。今、思えば先生はまだ若い僕のことを考えてくれていたことが分かります。でも、当時の僕には考えが及びませんでした」

2年連続0勝。“引退”が頭を過ぎったある出来事とは……

 こうしてフリーとなったが、騎乗数は激減。3年目以降は毎年10勝するのにも苦労した。それまで気付かなかった師匠の支えの大きさが分かった。栗田は自分の厩舎の馬に乗せるだけでなく、他厩舎の関係者にも頭を下げ「大知を乗せてあげてください」と頼んでいたのだ。

 そんな師匠との仲が元の関係に戻ったかと思えたのは2001年の春。約3年半ぶりに栗田の馬に騎乗した。

 「自分でもこのままの関係ではよくないと思っていたけど、怖い気持ちもあって謝りにいけませんでした。そんな時、周囲からも勧められ、頭を下げに行きました」

 思うように勝てなくなっていた柴田を、栗田はまた乗せてくれるようになった。

栗田厩舎の馬の調教に跨る柴田大知。
栗田厩舎の馬の調教に跨る柴田大知。

 「感謝しかありませんでした」

 そう語るものの、これを機に成績も右肩上がりになるほど勝負の世界は甘くなかった。

 03年から2年連続で5勝のみ。騎乗機会を求め、障害レースにも挑戦した。しかし、成果はすぐには表れなかった。05年は3勝。06年はついに未勝利に終わってしまった。

 「栗田先生の馬も任せてもらえたのですが、全く結果を出せませんでした。この時期が1番苦しかったです」

 06年の6月を最後に栗田からの騎乗依頼が再びなくなった。

 07年は2年連続0勝。当時の苦しい気持ちを次のように語る。

 「たまにレースに乗っても体がついていかないので、好騎乗はできませんでした。当然、結果を出せないから乗り数がどんどん減っていく。生活も厳しくなり、必死に調教の数をこなして、調教騎乗料でなんとかしのいでいました」

 そんなある日、こんな出来事があった。毎朝、調教をつけている厩舎にいた時のことだ。柴田の目の前で、調教師と調教助手が週末の競馬について会話をしていた。

 「『乗れる騎手が皆、埋まっているんだよなぁ~』『どうしましょう?』みたいな会話をしていたんです。『毎日手伝っている騎手が目の前にいるじゃないですか?!』って思ったけど、成績を考えると口に出せませんでした」

 さすがに腐りそうになり、引退の2文字が頭を過ぎった。

G1勝利に自身最多勝利数更新。師匠との現在の関係は……

 しかし、「チャンスが巡ってきた時、それを逃さないように」という想いは捨てず、ランニングをするなどして徹底的に体を鍛えた。

 08年には3年ぶりとなる勝利を、障害初勝利で決めた。そんな姿勢をミルファームの清水敏がみていた。彼からの騎乗依頼、さらには彼の紹介で“マイネル軍団”で知られる岡田繁幸からも依頼されるようになると、柴田の成績はかつて例をみないV字回復をみせた。

 11年にはマイネルネオスによる中山グランドジャンプ(J・G1)を含む20勝。翌12年からは毎年のように自身最多勝利数を更新。16年には56勝まで伸ばしてみせた。

 師匠・栗田との仲を再び修復したのは11年。以降は良好な関係が続き、先述した通りマイネルハニーとのコンビでは、16年のチャレンジCを優勝。97年のエアガッツ以来となるタッグを組んでの重賞制覇を飾ってみせた。

表彰式での柴田大知(右)と栗田博憲(左)。
表彰式での柴田大知(右)と栗田博憲(左)。

 そんな柴田には、栗田との間に忘れられない思い出があると言う。

 13年5月5日。柴田はマイネルホウオウに騎乗してNHKマイルCを優勝。自身初めてとなる平地G1勝利を飾ってみせた。その時のことだ。

 「週明けにトレセンで栗田先生に会いました。真っ先に報告しなければいけないのに、連絡していなかったから叱られると思ったら、今までに見たことないくらい満面の笑みで『良かったなぁ』って言ってくださいました」

 あの笑顔は今でも忘れることはないと語る。

 結婚生活はうまくいき、子宝にも恵まれた。成績的にもすっかりトップジョッキーの仲間入りを果たしたが、勝てなくなった時から行っている毎日のランニングは今でも欠かさない。そんな柴田大知とマイネルハニーとの海外遠征が実現するかどうかはまだ分からないが、ぜひ実現して、栗田との間に、忘れられない大きな思い出を作っていただきたい。

1月27日に行われた白富士Sをマイネルハニーで制した直後の柴田大知騎手と栗田博憲調教師。コンビでの今後の活躍にますますの期待をしたい。
1月27日に行われた白富士Sをマイネルハニーで制した直後の柴田大知騎手と栗田博憲調教師。コンビでの今後の活躍にますますの期待をしたい。

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

平松さとしの最近の記事