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2018年好ダッシュを決めた田辺裕信騎手。彼の現在のスタイルを作るに至った2人の人物とは……。

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
ジェネラーレウーノで京成杯を勝ち、2018年1番乗りで10勝達成した田辺裕信騎手

「G1に出られるだけでも幸運」という気持ちから武豊を上回る勝ち星を記録

 1月14日に行われた京成杯を制したのはジェネラーレウーノ。騎乗していた田辺裕信(33)はこれで2018年の勝ち鞍が10となり、この時点で全国リーディングのトップに立った。

 「まだ2週ですよ!」

 確かにその通りではあるが、近年の彼の活躍をみていると、これも一過性のものとは思えない。

1月14日の京成杯を勝利したジェネラーレウーノの鞍上で笑顔をみせる田辺。
1月14日の京成杯を勝利したジェネラーレウーノの鞍上で笑顔をみせる田辺。

 その1週間前。1月6日には京都競馬場でコパノリッキーの引退式が行われた。

 “ドクターコパ”の愛称で知られる小林祥晃氏が馬主の同馬は2014、2015年のフェブラリーS連覇など、地方交流を含めG1を日本記録の計11勝。そのうち5回でコンビを組んでいた武豊が引退式に参列した。

 当日は中山での騎乗だったため残念ながら引退式に出られなかった田辺だが、同馬とのコンビでは武豊を上回るG1・6勝。この砂の王者にとって初のG1制覇となった14年のフェブラリーSや、新記録樹立となった引退レースである17年東京大賞典でも手綱をとっていた。

 そして、その14年のフェブラリーSは田辺自身にとっても初めてのG1優勝。デビュー13年目での悲願達成だった。

 しかし、当時、彼は淡々と語った。

 「僕の馬は人気がなくて、『勝手に止まるだろう』と思われたのか、皆が放っておいてくれました。ラッキーでした」

 後に日本記録を作るほどの馬だったが、この時は単勝272・1倍。16頭立ての16番人気。そんな馬だったから誰もプレッシャーをかけてこなかったおかげで逃げ切ることができたと分析。初の大仕事にも興奮することなく、そう語り、更に続けた。

 「そもそもこの馬でG1に出ることができただけでも幸運でした」

2014年のフェブラリーSを勝利し、Vサインをみせた田辺。しかし、そのコメントはあくまでも冷静で、表情も”喜びを爆発させる”というほどのものではなかった。
2014年のフェブラリーSを勝利し、Vサインをみせた田辺。しかし、そのコメントはあくまでも冷静で、表情も”喜びを爆発させる”というほどのものではなかった。

人智を超えた“幸運の追い風”が運んできた馬たち

 そのフェブラリーSから遡ること丁度1カ月。田辺は他の馬で重賞を制していた。ヴェルデグリーンとコンビを組んでのアメリカジョッキークラブC(G2)だ。田辺がこの馬と重賞を勝つのは2度目だったが、当時もやはり冷静に「運が良かった」と言っていた。

 そう言える理由は明解だ。ヴェルデグリーンに最初に乗るようになったのが正に幸運だった。同馬に騎乗する予定だった騎手が当日、熱を出し、急きょの乗り替わり。そして、そこで勝利したことで、以来、田辺が主戦騎手になったのだ。

 思えば、コパノリッキーの鞍上を任されることになった経緯も人智を超えた“幸運の追い風”が吹いたことにあった。

 田辺は本来14年のフェブラリーSでテスタマッタの騎乗を頼まれていた。そのために前哨戦の根岸Sでも同馬の手綱をとった。ところが本番の直前に同馬が故障を発症。回避したことで1つ枠が空き、そこに同じ村山明厩舎のコパノリッキーが登録した。

 コパノリッキーは抽せん次第で出られるか否かという立場。さらにテスタマッタの回避が直前だったため、トップジョッキーは皆、騎乗馬が決まっていた。しかし田辺は当然、空いている。そこでテスタマッタからスライドする形でコパノリッキーの鞍上に収まった。

 さらに幸運は重なった。運良く抽せんを突破。出走がかなうと、先述した通り優勝してみせた。

 出られるだけでも御の字という立場からの快進撃。だから田辺は武豊に乗り替わりになった時でさえ「元々が自分の馬というわけではないから仕方ありません」とクールに受け止めることができたのだ。

1月6日、京都競馬場で行われたコパノリッキーの引退式では武豊騎手が騎乗。思えば彼への乗り替わりとなった時にも田辺は「元々自分の馬というわけではありませんから」と淡々と語っていた。
1月6日、京都競馬場で行われたコパノリッキーの引退式では武豊騎手が騎乗。思えば彼への乗り替わりとなった時にも田辺は「元々自分の馬というわけではありませんから」と淡々と語っていた。

頭の中にある2つの別の感情

 さて、ここまでコパノリッキーやヴェルデグリーンでの勝利時にも田辺が淡々としていられた理由を述べてきたが、思えば、元から彼にはそういった沈着冷静に物事をとらえる面があった。

 近年でこそ毎年100近く勝つようになったが、デビュー後、長い間、それほど多く勝つことはできなかった。09年に初めて30勝以上するが、それまで10年近くは10勝がやっと。30勝した年には次のように口にしていた。

 「10勝でも充分なのに……。出来すぎです」

 ところが11年には一気に88勝。この時はこう語った。

 「『こんなに勝っちゃって、次の年はどうなるんだろう?!』って思いました」

 考えようによっては“欲がない”と思われてもおかしくないこれらの受け答え。しかし、決してそうではないとも彼は言う。

 「もちろん勝ちたい気持ちはあるし、何よりも長く騎手を続けたいという気持ちは持っています」

 そういう考えがありながらも、無欲と感じさせるのは何故か……。

 一見、相反すると思えるこれらの思考が彼の頭の中で同居しているのには明確な理由があった。

2016年にはロゴタイプを駆ってG1・安田記念を優勝するなど、完全に一流騎手という活躍をみせる田辺は、「長く騎手を続けたい」と語る。
2016年にはロゴタイプを駆ってG1・安田記念を優勝するなど、完全に一流騎手という活躍をみせる田辺は、「長く騎手を続けたい」と語る。

彼の信念を形成した2人の人物

 田辺がデビューしたのは02年。同期で最も早く勝ち星をあげた騎手は井西泰政だった。

 「井西は競馬学校に入学する前に馬事公苑で乗馬経験があったから、学校での実技も上手でした。でも、全然えらぶったりしない奴で、頭も良かったから宿題をよく写させてもらいました」

 一方、同期で勝つのが最も遅かったのが竹本貴志だ。彼は同期ではあったが、騎手免許試験時に怪我をするなどの不運もあり、デビューは田辺より2年遅れの04年。デビューするとすぐに勝ってみせた。

 02年の秋のことだった。

 「調教に乗っている時に『同期の井西君って亡くなったんだって?』と言われて、何を馬鹿な冗談を言っているんだって思いました」

 ところが冗談ではなかった。井西は10月21日の深夜過ぎ、交通事故で帰らぬ人となっていたのだ。

 また、04年3月28日にはこんなことがあった。

 「中山の障害レースでした。僕もその日は中山にいたので、レース前に『気をつけて乗って来いよ』って声をかけたんです」

 声をかけた相手は念願のデビューからまだひと月と経っていなかった竹本。しかし、そのレースで彼は落馬して緊急入院。田辺はお見舞いに日参したが、5日後の4月2日、竹本はわずか二十年の人生に幕を下ろした。

 井西や竹本がまだ元気だったら、田辺はどんな言葉をかわして競馬に乗るだろう。もしかしたらコパノリッキーをめぐり「その馬、俺に乗せてくれよ」と田辺の方が懇願する立場になっていたかもしれないのだ。

 2人の遺族とは今も交流があるという田辺は彼等のことを思い、言う。

 「自分は今でもレースに乗れている。それだけでも幸せなんです」

 無欲と感じさせるのも、それでいて「騎手はできる限り長く続けたい」と言わせるのも、根本は同じ。志半ばで逝った同期2人のことを想う信念が、そこにあるだけなのだ。田辺のますますの活躍を彼等も期待していることだろう。

早世した2人の同期のためにも「乗せてもらえるだけでも幸せ」という気持ちと「長く騎手を続けたい」という想いを持ち続け、田辺は今日も馬に跨る。
早世した2人の同期のためにも「乗せてもらえるだけでも幸せ」という気持ちと「長く騎手を続けたい」という想いを持ち続け、田辺は今日も馬に跨る。

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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