Yahoo!ニュース

役者を使ったジョニー・デップ裁判映画はとんでもなくチープで最低だった

猿渡由紀L.A.在住映画ジャーナリスト
マーク・ハプカとメーガン・デイヴィス(Tubi/YouTube)

 ジョニー・デップとアンバー・ハードの名誉毀損裁判を、俳優に演じさせて映画にする。その企画が発表された時からとんでもないものになるだろうとわかっていたが、アメリカでTubiより配信開始となった「Hot Take: The Depp/ Heard Trial」は、思ったとおり酷かった。

 この映画を形容するのに最もふさわしい言葉は、「チープ」。セットやキャストを見ても製作費がかかっていないのは明らかだし、アプローチのしかたも安っぽい。1時間24分のこの作品を“映画”と呼ぶこと自体、おこがましいと言える。これは、話題になった出来事を利用しようと急いで適当に作った、安易で低品質のテレビドラマだ。実際に起きたスキャンダラスな出来事を、役者を使ってドラマのように再現させるというのは昔よくあったが、その最新版である。

 この“映画”は、裁判でデップとハードが証言する内容を、フラッシュバックの形で見せていく。裁判での証言そのものに関しては、デップを演じるマーク・ハプカとハードを演じるメーガン・デイヴィスは中継映像を見て研究したようで、しゃべり方の特徴などは一応つかんでいる。しかし彼らがやっているのは演技というより物真似。それもあまりうまくない物真似で、見ていて辛い。もっと目を当てられないのは、フラッシュバックのシーンだ。ふたりが「ラム・ダイアリー」での共演で知り合った状況など、過去のふたりが演技で描かれていくのだが、何より脚本が陳腐すぎて、人気のない昼ドラ以下なのである。

キャスティング、会話がとても不自然

 悪いのは脚本だけでなく、キャスティングも同様だ。この“映画”のデップとハードには、何の信憑性もなく、なぜこのふたりが恋に堕ちたのか納得がいかない。単純な理由に、年齢差がある。デップとハードは23歳も年齢が違っていたのに、ハプカとデイヴィスは同じくらいの年齢に見えるのだ。

 デップが出会った時、ハードは22歳で、その年齢だからこその初々しさ(実際のところ、ストリッパーをしたこともあるハードは、決して清純とは言えなかったのだが、そのことをデップはまだ知らなかった)、キラキラした若さに、デップは惑わされた。デップは自分が中年のおじさんで、一方ハードはとても美しい創造物であると認識していた。だからこそ、彼は、やはり年齢差のあったハンフリー・ボガートとローレン・バコールになぞらえて、自分たちを「スティーブ」「スリム」というニックネームで呼ぶようになったのである。だが、この“映画”では、そのニックネームは出会ってすぐにデップがお互いをこう呼ぼうと唐突に提案して生まれたように描写されている。

 フラッシュバックで交わされるほかの会話にも、そんなはずはないというものがたくさん出てくる。たとえば、ふたりの初期のシーンで、ハードがデップに「あなたのお子さんたちは元気?」と聞くシーンがあった。ハードはデップの子供たちにまるで興味がなく、それどころかデップが子供たちと会っていると自分がかまってもらえないと嫉妬までしていたのに、である。

 ここにかぎらず、全体的に、この“映画”はハードを実際より優しい女性のように描こうとする。ハードがデップを怒鳴りつけるようなシーンでも、デイヴィスは決して鬼の形相にはならず、かなりハードに配慮した、お手柔らかな演技にとどまっている。それは、製作側が意図的にやったこと。そこが、最も不愉快な部分だ。彼らはハードを悪者にしないと最初から決めているのである。

 デイヴィスが「People」のポッドキャストで語ったところによると、デイヴィスはこの裁判をまったく見ておらず、この役を受けるにあたっては、「どちらか一方の味方をしないでほしい」と監督にお願いしたという。そんなことを言えたのも、彼女が裁判を見ていなかったからにすぎない。裁判をしっかり見ていたなら、誰が嘘をつき続けてきたのかは明白。判決も、ちゃんとそう出ている。それなのに、世間に嘘をばらまかれ、人生をめちゃくちゃにされた人物の味方はしないようにしましょうなどと言えるはずはない。

何が「公平」なのか

 今作にかぎらず、先月、ひと足先に配信開始となったこの裁判についてのドキュメンタリーも含め、「両方に公平な立場から」と強調するメディアは、今もある。裁判の前ならそれも納得だったが、裁判でもう答は出たのだから、その真実をちゃんと伝えてこそ、本当の意味での公平であるはずなのに、だ。間違った「公平」をうたうがために、この“映画”は、ハードのフラッシュバックとして、彼女がデップから受けたと主張するさまざまな酷い暴力を描いている。真実を無視する作品を作りたいなら、わざわざ裁判が終わるのを待たなくても良かったのではないか。

 つまり、この“映画”は、タイトルこそ「Hot Take」(ホットな視点)ではあっても、新しい視点を何も持たないのである。ハードがベッドの上に人間の大便を置いたとか、ハードにウォッカのボトルを投げつけられてデップが指先を切断されたとか、裁判で出てきた最もセンセーショナルなことをいろいろ混ぜ込んではいるが、嘘をついているのはハードだと陪審員を確信させた最も重要なやりとりや証拠は、すっ飛ばしている。また、デップが勝訴したという結果は最後にキャプションでさらりと出てくるだけなので、この裁判について何も知らずに見た人は、この裁判が正当なものだったのかと疑問に思うだろう。もしかしたら、それが製作側の意図だったのか?何も考えていないふりをしながら、正しいのはハードかもしれないと視聴者に思わせようとしているのか?

 たとえそうだったとしても、今作に影響力があるとは思えない。裁判をちゃんと見た人たちはこんな無駄なものは見ないし、裁判に興味がなかった人は、もともと興味がないのだから見ないだろう。そもそも誰に向けて作られたのかもわからないこの“映画”は、幸いにも、ほとんど誰からも見られないままで終わるはずだ。真実を支持する人たちにとって、少なくともそれだけは良いことである。

L.A.在住映画ジャーナリスト

神戸市出身。上智大学文学部新聞学科卒。女性誌編集者(映画担当)を経て渡米。L.A.をベースに、ハリウッドスター、映画監督のインタビュー記事や、撮影現場レポート記事、ハリウッド事情のコラムを、「シュプール」「ハーパース・バザー日本版」「週刊文春」「キネマ旬報」他の雑誌や新聞、Yahoo、東洋経済オンライン、文春オンライン、ぴあ、シネマトゥデイなどのウェブサイトに寄稿。米放送映画批評家協会(CCA)、米女性映画批評家サークル(WFCC)会員。映画と同じくらい、ヨガと猫を愛する。著書に「ウディ・アレン 追放」(文藝春秋社)。

猿渡由紀の最近の記事