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ジョニー・デップが”暴力的な妻”アンバー・ハードと別れられなかった理由

猿渡由紀L.A.在住映画ジャーナリスト
名誉毀損裁判で証言をするジョニー・デップ(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

 自分と一緒にいる時、彼女は毎日のように喧嘩をふっかけ、怒りを爆発させ、しばしば暴力をふるったーー。ジョニー・デップが、元妻アンバー・ハードと過ごした日々について、証言台で語った。

 この裁判は、ハードが2018年、「Washington Post」に寄稿した意見記事をめぐるもの。デップを名指しこそしていないものの、ハードがDV被害者として書いたこの記事を読めば誰のことを言っているのかは歴然だとし、デップはハードに対して5,000万ドルを求める訴訟を起こした。それを受けて、ハードは1億ドルを要求する逆訴訟を起こしている。パンデミックのせいで延期になったこの裁判は、今月11日、ようやくヴァージニア州フェアファックスで開始された。裁判の模様はCourt TVでライブ中継されている。

 裁判が始まって2週目の今週、デップは初めて証言台に呼ばれ、彼の弁護士からのいくつもの質問に答えた。デップが一貫して主張するのは、ハードに対してはもちろん、女性に対して暴力をふるったことは一度もないということ。ハードは過去に、デップが入れている「Wino Forever」というタトゥー(ウィノナ・ライダーと交際中に入れたWinona Foreverというタトゥーを、別れた後にやや修正したもの)を見て笑ったところ、デップに暴力をふるわれたと語っているが、それもまったくの作り話だとデップは述べる。

「僕の体は、日記みたいなもの。娘が生まれた時は胸に娘のタトゥーを入れましたし、息子が生まれた時も同じ。それについて何か言われたからと言って、怒ったりするはずはありません」と、デップ。さらに、彼は、ハードが自分の名前のタトゥーを入れてほしいと何度も言ってきたことも明かした。実際、彼はそのとおりにしている。

「皮肉にも、僕たちの関係が悪くなっていった頃のことでした。ですが、僕は、彼女に笑顔をもたらせることならば、やりたかったんです。それは時にうまくいくこともありましたし、多くの場合、うまくいきませんでした。それでも努力はしたかったのです」。

争いから逃げるため、ホテルの部屋は必ず一室余分に抑えた

 付き合い始めの頃は、決してそうではなかった。2011年の映画「ラム・ダイアリー」の共演で知り合ったふたりは、音楽や文学の趣味が似ていることもあって意気投合し、そこからロマンスに発展している。最初の兆候が見えたのは、交際開始から1年半ほど経った時だ。

 その頃、ふたりの間では、デップが帰宅するとハードが彼のブーツを脱がせてあげて、グラスワインを持ってきてくれる、というのが毎日の習慣になっていた。だが、ある日、帰宅すると、ハードは電話で誰かと話していて忙しそうだったため、デップは自分でブーツを脱いだ。それを見ると、ハードは、体を震わせながら怒ったのだとデップは語る。彼女の中で「こうあるべき」と決めたものに背くことをすると、たとえどんな小さなことであれ、彼女は受け入れないのである。

 意見が相違した場合、ハードは、デップが正しくあることを絶対に許さなかった。「僕の側の話を聞くことを彼女は拒むのです」と、彼はいう。彼女はしばしばデップを愚か者のように扱い、デップにとって一番大切なものを武器として使った。それはつまり、彼の子供たちだ。

 ヴァネッサ・パラディとの間に長女リリー=ローズちゃんが生まれたその瞬間、デップにとっては「良い父親になること」が人生における唯一の目標、野心となった。それを知っていながら、ハードはしょっちゅう「あなたはひどい父親だ」などと罵ったのである。彼が子供たちと時間を過ごすことも嫌がった。ハードは「自分のニーズが満たされる」ことにしか興味がなく、デップを子供たちに取られるのが面白くなかったのだ。

 罵声を浴びせられる「無限のループ」に入ると、デップは争いを避けるべく、別の部屋やバスルームに籠るなどして距離を置いた。ロケやプロモーションのためのツアーなどでどこか別の街に行く時も、デップは必ずホテルの部屋をひとつ余分に抑えてもらっていたという。プライベートジェットの中でも同じ状況になり、ずっとトイレに籠っていたこともあった。デップは決して手を出さなかったが、エスカレートするとハードはしばしば暴力をふるってきたともデップは述べる。

アンバー・ハードも6週間の裁判のどこかで証言する予定
アンバー・ハードも6週間の裁判のどこかで証言する予定写真:代表撮影/ロイター/アフロ

 ハードはまた、デップに、「ふたりの関係を向上させるためにもお酒をやめてほしい」と言ってきた。それでデップは言われるとおり酒をやめたのだが、ハード自身はその後も毎晩ワインを2本空け続けた。そんな彼女のために、デップは、ボトルを開けてあげたり、グラスにワインを注いであげたりもしている。

 だが、ある日、功労賞をもらった親しい俳優を祝福する席で、デップはグラス半分のシャンパンを飲んだ。その後のハードとのディナーで、デップがそのことを彼女に告げ、このディナーでもシャンパンを一杯飲みたいというと、彼女は怒って立ち上がり、トイレに行ってしまった。帰宅後も、ハードは、「あなたは弱い」「あなたの子供たちはあなたみたいな父親に耐えられない」と罵るので、デップが「じゃあ君も酒をやめれば」と言うと、「私は何の問題もないから」と拒否したという。デップは、ハードがMDMAやマジックマッシュルームなどのドラッグを使っていたとも述べている。

出ていこうとして自殺をほのめかされたことも

 では、なぜデップは彼女と別れようとしなかったのか。そこには、彼の両親が大きく関係している。

 子供時代、デップは、母親から常に言葉や肉体の暴力を受けて育った。母は父にも同じようにふるまったが、ストイックな父は静かに耐え、応戦することはなかった。だが、デップが15歳になったある日、父は突然家を出ていってしまったのである。母は強いショックを受け、自殺未遂を図った(死ぬために薬を飲んだ母がふらふらと倒れる様子をデップは自分の目で見ており、裁判所で実演してみせてもいる)。

 ハードもまた、デップが出ていこうとすると、自殺をほのめかすことがあった。たとえば、口論の後、デップがハードと住むロサンゼルスのダウンタウンにあるペントハウスを出て行こうとした時も、ハードは人目があるのも気にせず、廊下で「あなたがいないと生きていけないの!」と叫んでいる。その後、彼女は寝巻きのまま車を運転してデップのウエストハリウッドの家にやってきては、近所迷惑もかえりみずに家の前で大騒ぎをした。別れを切り出したら彼女は自殺するかもしれない、父も母に耐えたのだから自分も耐えるべきだ、という気持ちが、デップの中にはずっとあったのだ。

「毎日、不必要な喧嘩がありました。健全な関係ではありませんでした。彼女はいつの間にか敵になってしまったのです。僕が彼女のためにやろうとすることを、彼女は何も受け入れてくれませんでした」とデップは語る。

 証言の中では、ハードがデップに暴力をふるったことを認めている音声も再生されている。会話の録音は、ハードがいつも翌日になると「私はそんなことを言っていない」と前日に自分が言ったことを否定するため、デップの提案で始めたものだ。デップの証言の間、ハードは主に無表情で、時に何かをメモしたり、苦笑いをしたりしていた。ハードの証言も行われる予定だが、いつになるのかは今の段階でわかっていない。

 裁判は6週間の予定で、5月下旬まで続く。どちらが勝つにしろ、負けたほうは上訴すると見られており、長い闘いになりそうだ。だが、デップはひるまない。この訴訟を起こした理由について、デップは真実を明らかにしたいからだと述べている。

「僕自身だけではなく、子供たちのためにも。彼らの父親がやったと言われている恐ろしいことは、事実ではないのだとはっきりさせたいのです」。

L.A.在住映画ジャーナリスト

神戸市出身。上智大学文学部新聞学科卒。女性誌編集者(映画担当)を経て渡米。L.A.をベースに、ハリウッドスター、映画監督のインタビュー記事や、撮影現場レポート記事、ハリウッド事情のコラムを、「シュプール」「ハーパース・バザー日本版」「週刊文春」「キネマ旬報」他の雑誌や新聞、Yahoo、東洋経済オンライン、文春オンライン、ぴあ、シネマトゥデイなどのウェブサイトに寄稿。米放送映画批評家協会(CCA)、米女性映画批評家サークル(WFCC)会員。映画と同じくらい、ヨガと猫を愛する。著書に「ウディ・アレン 追放」(文藝春秋社)。

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