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選挙運動マネージャーに、トラック運転手。意外な職歴をもつハリウッドの映画監督

猿渡由紀L.A.在住映画ジャーナリスト
「ビニー/信じる男」のベン・ヤンガー監督(左)は元選挙運動マネージャー

 南カリフォルニア大学かニューヨーク大学で映画を専攻。あるいは大物俳優になって、後に監督業に進出する。

 そのあたりが、ハリウッドで映画監督になる上での正攻法だ。だが、時々、全然違うところから入ってきては、成功を収めてみせる人もいる。

 現在日本公開中の「ビニー/信じる男」のベン・ヤンガー監督は、その代表。大学で政治学を専攻した彼の最初の情熱の対象は、政治だった。21歳で、 州議員に立候補する民主党政治家の選挙運動キャンペーンのマネージャーを務め、その後スタンドアップコメディアンに。2000年に「マネー・ゲーム」で映画監督に初挑戦、2005年にはユマ・サーマンとメリル・ストリープ主演の「Prime(日本未公開)」を監督するが、それから「ビニー〜」までの間、長編映画をまったく撮っていない。その10年強の間は、コスタリカでシェフとして働いたり、「The New Yorker」誌に寄稿したり、バイクのレースに参加したりしていた。

「10年も映画を作らないできたんだ。時間はいっぱいあったよ。新しいことを学ぶのは楽しい」というヤンガーは、パイロットの免許も持っている。料理の腕に関しては、「住んでいたのがコスタリカだから、新鮮な魚を料理するのが得意だね。パスタを手作りするなんていうのはしたことがないが、魚を渡されたら、美味しい一品を作ってみせるよ」と語る。次の作品はバイクのレースをテーマにしたものだそうで、空白の10年に培った経験は、ちゃんと監督業につながった形だ。

 ヤンガーほど極端ではないにしても、変わった経緯で映画監督になった人たちや、映画以外のキャリアを持つ人は、ほかにもいる。それぞれに、独特のスタイルと優れた才能をもつ人たちだ。

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ

「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」と「レヴェナント:蘇えりし者」で2年連続オスカー監督賞を受賞したイニャリトゥは、メキシコシティ生まれ。16歳から18歳の2年間、貨物船の乗組員の仕事をして過ごした。大学ではコミュニケーションを専攻し、卒業後はロックミュージック専門のラジオ局に入社、音楽の編成などを手がける。1987年から89年の間には、6本のメキシコ映画の音楽を作曲した。イニャリトゥは、映画よりも音楽から受けた影響のほうが大きいと語っている。

デビッド・リンチ

 日本でも今週末放映開始する「ツイン・ピークス The Return」の、ひとつ前の作品は、2006年の「インランド・エンパイア」。この11年の間、リンチは、パリのナイトクラブの設計や家具をデザインしたり、音楽アルバムをリリースしたり、慈善団体デビッド・リンチ財団を通じて退役軍人や貧困地区に住む子供たちに超越瞑想(TM)を教えてきたりした。 彼の名前を冠したコーヒー豆も、L.A.のスーパーマーケットで広く販売されている。

 もともとは画家志望。フィラデルフィアの美大で絵画を学びながら、印刷屋でアルバイトをした。自分の絵が動いたらおもしろいのではないかと思って作った短編アニメが、 最初の映画作品だ。その後、L.A.のアメリカン・フィルム・インスティチュートで映画作りを学び、1971年に長編映画「イレイザーヘッド」でデビューを果たしている。

写真/鈴木香織
写真/鈴木香織

ウディ・アレン

 本名はヘイウッド・アレン。ウディ・アレンは、15歳で新聞のコラムニストやブロードウェイのプロデューサーに自分が書いたジョークを売り始め、またたく間に両親よりも稼ぐほどになった彼が使ったペンネームだ。19歳の時にはテレビ局からお声がかかり、コメディ番組や深夜トークショーのライターの職を得る。まもなく舞台劇の脚本を書いたり、スタンドアップコメディアンとして舞台に立ったりすることも始めた。彼とダイアン・キートンの出会いは、彼が執筆し、出演もした舞台劇「Play it Again, Sam」である。

 ジャズミュージシャンとしても活躍。「アニー・ホール」がオスカーを取った時も、ライブがあるからと授賞式を欠席したが、「映画に優劣をつけるなんて不可能」というのが本当の理由だ。アカデミーから何度も会員に招待されているが毎回断り、ある年、「寄付をしてくださったら、もううるさく誘うことはしません」とアカデミーが言うと、1週間以内に小切手が送られてきたとのことである。

ラナ&リリー・ウォシャウスキー姉妹

 性転換し、改名する前は、ラリー&アンディ・ウォシャウスキー兄弟として知られていた。ふたりとも大学を中退、シカゴで一緒にペンキ塗りや大工のビジネスを経営しつつ、コミック創作を手がける。そのうち映画の脚本も書き始め、「暗殺者」がワーナー・ブラザースで実際に映画化されたことから、この業界に足を踏み入れた。

ジェームズ・キャメロン

 キャメロンはカナダ生まれ。17歳で家族と共にL.A.郊外に移住したが、高校を一度退学、その後進学した2年制のコミュニティカレッジも退学した。そのコミュニティカレッジでは、最初は物理、次は英文学を専攻している。退学後はトラック運転手など、いくつかの地味な仕事をしながら、南カリフォルニア大学の図書館に通い、映画作りやスペシャルエフェクトについて独学した。だが、1977年に「スター・ウォーズ」を見てトラック運転手をやめると決意、10分の短編SF映画を作る。そこから現場アシスタントの職を得て、ロジャー・コーマンの現場でセット作りやミニチュアモデル制作などの仕事をするように。それからおよそ40年、今や彼は、世界興行成績で映画史上1位と2位の作品を作り、オスカーも受賞した巨匠である。

L.A.在住映画ジャーナリスト

神戸市出身。上智大学文学部新聞学科卒。女性誌編集者(映画担当)を経て渡米。L.A.をベースに、ハリウッドスター、映画監督のインタビュー記事や、撮影現場レポート記事、ハリウッド事情のコラムを、「シュプール」「ハーパース・バザー日本版」「週刊文春」「キネマ旬報」他の雑誌や新聞、Yahoo、東洋経済オンライン、文春オンライン、ぴあ、シネマトゥデイなどのウェブサイトに寄稿。米放送映画批評家協会(CCA)、米女性映画批評家サークル(WFCC)会員。映画と同じくらい、ヨガと猫を愛する。著書に「ウディ・アレン 追放」(文藝春秋社)。

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