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全ロシア人が欧州(EU)に入れなくなるのだろうか:ウクライナ戦争

今井佐緒里欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者、作家
北方の首脳。左からデンマーク、ラトビア、エストニア、リトアニア、EUフィンランド(写真:ロイター/アフロ)

すべてのロシア人は、欧州に来られなくするべきだろうか。

いよいよ8月30日(火)から、欧州連合(EU)27加盟国の外務大臣が、チェコのプラハで協議を開始した。

エストニアのカラス首相が、8月9日EUに対して、ロシア人に対する観光ヴィザの発給停止を要請してから、特に注目を集めた話題だ。

「ロシア人観光客へのヴィザ発給をやめろ。ヨーロッパを訪れることは特権であり、人権ではない」とツイートしたのだった。

8月中この問題を聞いていた印象だが、いよいよEUで決着がつくのか。

エストニアの首都タリンで開かれた臨時議会で演説する新政権のカジャ・カラス首相。7月18日
エストニアの首都タリンで開かれた臨時議会で演説する新政権のカジャ・カラス首相。7月18日写真:ロイター/アフロ

これは実に悩ましい問題である。根源のところで。

「他国に侵略しておいて、欧州で楽しく旅行するのか。自分の国では手に入らなくなったブランド品を買い漁りに来る金持ちがいるなんて、そのようなことが道徳的に許されるのか」という思いと、「一般人の移動を禁じることまでしてよいのか」、「冷戦時のように欧州にまた壁を築いて人々を分断することになるのではないか」という思いの対立である。

さらに「悪いのはプーチン政権であって、ロシアの一般市民ではない」という強い思いが、議論を複雑にする。

現状はどうなっているのか

まず、空路は2月下旬には既に閉鎖されている。ロシアの飛行機は、欧州の国の上空を飛ぶことができない状況だ。

だからロシア人がEUの国々を旅行するには、陸路で入らないといけない。または、非西洋の航空会社を使い、遠回りで乗り継ぎをしてEUに入域する。

陸でEUと国境を接しているのは、北からフィンランド、エストニア、ラトビアとなる。リトアニアは、露飛び地のカリーニングラードのみ接している。

ロシア人観光客は、これらの国の国境に、まずは地面をつたってたどりつかないといけなくなった。

ひとたび陸路で入れば、その後のEU内の移動は、飛行機でも車でも鉄道でも自由である。

Frontexによると、2月以降、約100万人のロシア人が合法的にEUに入域している。

開戦時に、ラトビア、リトアニア、ポーランド、そしてチェコは、ロシア人への観光ヴィザ発給を停止した。そのため、ロシア人のEU入域は、エストニアとフィンランドに集中することになった。

エストニアは、戦争が始まって以来28万人のロシア人が入国した。人口130万人の小国なのに。

同国は3月10日から、モスクワとミンスク(ベラルーシ)の大使館でのヴィザ申請の受付を停止、現在は既に同国が発行したヴィザを持つ5万人のロシア人の領土への立ち入りを、一部の例外を除き拒否している。

そのため現在、ロシア人観光客は、陸路では主にフィンランドから入るようになっている。

「先週、ヘルシンキ空港に停まっていたロシア登録の車をジャーナリストたちが数えたら、1400台もあった」と、フィンランド外務省のユッシ・タナー氏は言う。

欧州ではニュースとなってかなり話題になったのだが、ポルシェだのベンツだのベントレーだの、欧州の高級車が並んでいることといったら・・・。これでは反感をもたれるのは無理もない。

シェンゲン協定の悩ましさ

EUには「シェンゲン圏」というものがある。

これは「シェンゲン協定」というものを結んだ国々という意味である。この圏内だと、国境検査がなく、まるで日本で県をまたぐかのように、自由に行き来できるのだ。人も、物も。

これはEUの設立の理念を体現する、大変重要な措置である。

現在、26カ国が批准しており、26カ国で国境がないかのように自由に移動できる。正確には複雑な構成である。下のシェンゲン圏の地図を参照してほしい。

<青>EU加盟国 <黄>EU加盟国で将来的にシェンゲンに入る国(今は入っていない) <緑>EU加盟国ではないがシェンゲンに入っている国 <赤>EU加盟国だがシェンゲンには入っていない国 図版:Wiki
<青>EU加盟国 <黄>EU加盟国で将来的にシェンゲンに入る国(今は入っていない) <緑>EU加盟国ではないがシェンゲンに入っている国 <赤>EU加盟国だがシェンゲンには入っていない国 図版:Wiki

パスポートだけで欧州を旅行できる日本人にはあまりピンと来ないが、世界の3分の2くらいの国は、欧州を旅行するのにはヴィザを取得する必要がある。取得するのは、訪問する各国のヴィザではない。「シェンゲン・ヴィザ」である。

これはシェンゲン圏26カ国で90日までの滞在を許可されるヴィザである(180日以内の90日間)。

ヴィザは、最初に入国する国か、最も長く滞在する予定の国の大使館や領事館に申請する。

日本ではまったく知られていないが、ネットには「どこの国がシェンゲン・ヴィザを発行してくれやすいか」という情報が飛び交っている。世界の多くの国にとって、欧州旅行は特権なのだ。

実際にはその人がもっているパスポートによるのだが、「あの国は今甘いらしい」(観光収入を当てにしているのだろう)などの情報が世界的に流布している。

モーゼル川沿いのシェンゲン町に存在する、ドイツとルクセンブルクの国境に立つ「ここからルクセンブルク」の標識。このシェンゲン町で協定は結ばれた。
モーゼル川沿いのシェンゲン町に存在する、ドイツとルクセンブルクの国境に立つ「ここからルクセンブルク」の標識。このシェンゲン町で協定は結ばれた。写真:ロイター/アフロ

さて、ここで疑問が生じてくる。

シェンゲン圏26カ国のうち、ロシア人へのヴィザ発行を止めたのは、数カ国にすぎない。ほかの国はヴィザを発行し続けている。

例えば、ラトビア国境に到着したロシア人が「私は(例えばギリシャが発行した)シェンゲン・ヴィザをもっている。入れろ」と言ったらどうなるのか。

これは、ラトビア等がまっさきにヴィザ発給停止にしてから、ずっと筆者の疑問だった。

その場合は、法的には入れなければならないようだ(現場の実際は不明)。ただロシア人のほうが、停止した国からの入域を避ける効果はあったに違いない。

さっさと発給停止にしたラトビア、リトアニア、エストニア。バルト三国がやることは、断固としていて、しかも早い。この筋金入りはすごい。

最後まで迷って取り残されてしまったのが、フィンランドだ。確かにバルト三国と異なり、NATO(北大西洋条約機構)にもまだ加盟できていない。

しかも、ロシアとは1340キロも国境を接しているのだ。大体、日本の本州の長さと同じくらいだ。長い・・・。国境を守るのは大変そうである。

フィンランドのマリン首相は8月、「ロシア人が普通の生活を送り、ヨーロッパを旅行し、観光ができるのに、自国がヨーロッパで残忍な侵略戦争をしているのは不公平だ」と述べた。

この思いは世論の過半数が共有しており、58%がヴィザの発給停止に賛成しているという

フィンランドのサナ・マリン首相。デンマークで行われたバルト海エネルギー安全保障サミットでの会合後の記者会見。8月30日。
フィンランドのサナ・マリン首相。デンマークで行われたバルト海エネルギー安全保障サミットでの会合後の記者会見。8月30日。写真:ロイター/アフロ

おりしも、7月上旬にコロナ禍による最後の規制が解除されたことで、ロシア人観光客が多く流入しはじめたのだった。

フィンランド国境警備隊が8月に行った調査では、フィンランド東部の国境を越えるロシア人の約3分の2は、フィンランド以外の国が発行したシェンゲン・ヴィザを取得している。

「ハンガリー、スペイン、イタリア、オーストリア、ギリシャは通常、ロシア人にヴィザを発行して、毎年発行数が上位を占めている国々です」と国境警備隊員のメルト・シャシュオール氏は述べたという

フィンランドは主にトランジットに利用されているのだ。

このような状況にあって、9月1日から、ヴィザ・センターの予約人数や申請可能日を減らすなどして、ロシア人観光ヴィザの申請を90%削減することを決めている。

ロシア側の激烈な反応

ウクライナのゼレンスキー大統領は8月、ロシア人は「哲学を変えるまで自分たち自身の世界の中で生きていくべきだ」と言って、全ロシア人のEU入域を停止するよう訴えた。

実際には、いま欧州に旅行するロシア人は、大都市の金持ちやエリートにすぎないだろう。あるいは反体制派の人や、ロシアから逃げたいと願う人たちが逃れてくる。

一部学生や、欧州に既に住んでいる家族を訪問したい人も、いることはいる。

最近では、徴兵逃れにしか見えない若者の「旅行」が増えているという。

エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランドは、ロシア人のシェンゲン圏からの追放を支持している。

エストニアのカラス首相は、EUROACTIVのインタビューで「これは何よりもまず、EUの信頼性と道徳性の問題です。EUの扉の前で大規模な戦争犯罪、さらには大量虐殺が行われているのです」と語った。

「クレムリンは、ロシアの大都市の住民が、レジャーや休暇でEUを自由に旅行できなくなれば、彼らの間に強い否定的な反応を引き起こしうることを認識しています」と述べた。

ロシア外務省は、ロシア人のEU渡航を禁止する措置を「政治的動機による差別」、「外国人嫌いとネオナチのあらわれ」と呼び、このような行為は「適切な対応」を引き起こすと警告している。

カラス首相によれば、ロシアの指導者たちの強い憤りと、彼女自身に対する個人攻撃は、禁止が「正しい方向への一歩」であることを示唆しているのだという

確かに、あちらこちらで目にすることのあるロシア人の「絶対反対」は、ほとんど絶叫に近いほどの苛烈な反応を引き起こしている。

無理もない。冷戦時の鉄のカーテンよりも、心理的にはもっと複雑かもしれない。

世界中の国籍の人が歩いていると思われる欧州大陸で、ロシア国籍は全員、入域拒否。いわば「来るな、欧州にさわるな、お前たちなんて一人として見たくもない」と言うに等しく、ロシア人に「非ヨーロッパ人」「ヨーロッパの敵」の烙印が押されるようなものだからだ。もしかしたら「野蛮人」「非文明人」の烙印も加わるかもしれない・・・。

(もっともザポリージャ原発に何かあったら「人類の敵」になるかもしれないが・・・)。

ヨーロッパ人であることを、プーチン大統領はあれほど望んでいたのに。そして、ロシアという国そのものが、日本の文明開化・富国強兵のように、ヨーロッパに強いあこがれを抱き、ヨーロッパ化(=近代化)する歴史を歩んできたというのに。

でもプーチンは、ヨーロッパを敵にまわすことを覚悟で戦争をしたのではなかったのか。

EUの妥協案はどこに落ち着くか

フィンランドのマリン首相は、基本的にはロシア人の全面入域禁止に賛成の意を表している。しかし、政府としては、EUに対してその措置は提案していない。

彼らの妥協案は「2007年にEUとモスクワの間で締結された短期滞在ヴィザの円滑化協定の停止」である。

当時、EUとロシアの交流を活発化させるために結ばれたものだ。ヴィザの手続きを迅速化して、ヴィザ代も安くしたのだ。これを撤廃するという内容だ。この妥協案が、EUの決定となる可能性が高い。

EUのボレル上級代表(EU外務大臣に相当)は8月22日、「すべてのロシア人の入域禁止は、良いアイディアではない」とし、このような状況で「国外に脱出したいロシア人はたくさんいる」と述べた

ドイツのショルツ首相も同じことを述べている。

8月15日のオスロでの記者会見で、戦争は「プーチンの戦争」であり「ロシア国民の戦争ではない」、「ロシアの政権に同意できないためにロシアから逃げている人がたくさんいることを理解することが重要だ」と語った。

実際、ロシアのディアスポラ(民族の離散)は、全体主義に直面したときに反対意見を述べることができる、唯一の存在となるだろう。

欧州では、亡命政権をはじめ、外国に逃れて周りの支援を受けながら祖国解放のために闘うことは、歴史上によくみられることである。島国の日本人にはわかりにくい感覚ではある。

参考記事:反プーチンを掲げる露のテロル集団が登場?ダリア・ドゥーギン暗殺事件とポノマレフ元議員

今までのEUの制裁は、当初から、ロシアの一般国民と政権を分けて考えてきた。このアプローチをEU側がいま放棄することは、ないだろう。

どのような結末になっても、ロシアもロシア人も欧州大陸に存在し、アメリカと異なり、EUは近隣国として共存しなければならないのだから。

この不服な決定を既に予期しているエストニアとリトアニアは、ポーランド、ラトビア、フィンランドとの「共同イニシアチブ」について、すでに話し合いを始めているという。

チェコのペトル・フィアラ首相。現在はチェコがEU議長国である。戦争の一因である東方パートナーシップは2009年、チェコが議長国だった時に決定された。何という歴史の因縁だろう・・・。
チェコのペトル・フィアラ首相。現在はチェコがEU議長国である。戦争の一因である東方パートナーシップは2009年、チェコが議長国だった時に決定された。何という歴史の因縁だろう・・・。写真:ロイター/アフロ

※ 別の問題について

専門的な話になってしまうが、一体、この共同イニシアチブは、どういう内容になるのだろうか。

「人道ヴィザ」だけは発行する考えはあるといい、既に物議を醸しているが、まさか、どこの国がシェンゲン・ヴィザを発行しようと、断固ロシア人を入国させないという方向に行くのだろうか。そんなことできるのだろうか。

シェンゲン・ヴィザの共通政策は、EUの法律によって定められている。しかし、ヴィザの発行が各国の主権に属することは、世界的に各国平等に認められた権利である。

各EU加盟国が、制裁の一環として、今回のいくつかの国のように、ロシア人へのヴィザ発行を停止する権利はある。EUのボレル上級代表は「まずEUで議論してほしかった」とぼやいていたが。

フィンランドの迷いも、この状況に一因があった。EUで決めてくれないと困るという立場だ。

全面ヴィザ停止は、制裁として閣僚理事会で決められると言われたり(これは確かなようだ)、シェンゲン協定を改定する必要があり、欧州委員会が開始し、閣僚理事会と欧州議会が支持する立法プロセスであると言われたり(フィンランド側にはこういう主張がある)。

調べてみたが、正直よくわからない。明確な答えがない状況なのだろうか。

そして、このように欧州のあり方を議論しているとき、そこに英国はいないのだった。もともとシェンゲン圏には入っていないが、以前は、EUの一員として会議に参加していたのだが。

スイスやノルウェー等は、EUには入っていないが、シェンゲン圏には入っている。彼らはEUの決定を待つ立場にあるが、今度の問題は純粋にシェンゲン協定の話だし、必ず彼らの意見を聞く措置は設けられていると推測する。イギリスにこの措置がとられているかは、かなり疑問である。

今も日本のほとんど全部のメディアは、欧州総局をロンドンに置いており、欧州の発信=イギリスの発信、となっている。前掲の地図を見ればわかるように、イギリスだけが「欧州」から外れている状態といって良いのが現実なのだが・・・。

参考記事:シェンゲンと共通旅行区域(イギリス+アイルランド)問題。悩む観光業:英国の解体とEUを考える

欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者、作家

フランス・パリ在住。追求するテーマは異文明の出会い、平等と自由。EU、国際社会や地政学、文化、各国社会等をテーマに執筆。ソルボンヌ(Paris 3)大学院国際関係・欧州研究学院修士号取得。日本EU学会、日仏政治学会会員。駐日EU代表部公式ウェブマガジン「EU MAG」執筆。前大使のインタビュー記事も担当(〜18年)。編著「ニッポンの評判 世界17カ国レポート」新潮社、欧州の章編著「世界で広がる脱原発」宝島社、他。Association de Presse France-Japon会員。仏の某省関連で働く。出版社の編集者出身。 早大卒。ご連絡 saorit2010あっとhotmail.fr

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