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大衆麺の記憶(らーめん編)「九段斑鳩誕生」

坂崎仁紀大衆そば研究家・出版執筆編集人・コラムニスト
「濃厚東京駅らー麺」(斑鳩より写真提供)

 「九段斑鳩」は今や押しも押されもせぬ有名らーめん店である。2000年4月に開業し、徐々に人気となり2011年「東京ラーメンストリート」に「東京駅斑鳩」を出店しさらに人気を獲得している。アパレル業界から独学でらーめんをスタートさせたユニークな店はどのように生まれたのか。先日見つけた「九段斑鳩」を主宰する坂井保臣氏への20年前の取材ノートを基に、その誕生の経緯をNHKの人気番組「プロジェクトX」風に構成してみた。タイトルは「九段斑鳩誕生」である。

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ニット業界の厳しい現実を目の当たりにして

 1999年は例年にない熱い夏が訪れようとしていた。坂井はいつもと同じ営業の車を運転していた。当時の仕事といえば、ニット衣料のアパレル製造販売メーカーだった。

 糸を編地にして縫製するニットの技術には絶対の自信があった。株式会社マーベルの技術だ。坂井の曽祖父の時代から代々80年以上かけて築き上げた技術である。「100年もの作り企業」を目指し、パリコレクションや東京コレクションなどの作品の製造を手掛けたり、ドコモのCM制作にも参画していた。父保幸氏が長年の腕で自信を持って作りあげていた。

 しかし、どうしようもない現実が横たわっていた。もうすぐ2000年を迎えようというのに、ニット産業の空洞化は極まっていた。国内商社は安い中国のアパレル製造販売メーカーに発注していた。衣料品はそれが常識。中国産の価格崩壊した製品が街にはあふれていたのだ。作っても作っても、バイアーは薄利の値段を押し付けてくる。

 値下げを拒否すれば受注できず、残った従業員を食べさせていけない。坂井はその頃、中国のアパレル製造販売メーカーへの生産管理や技術指導のような役目までさせられていた。始めはたいした製品が出来なくても、彼等は次第に技術を習得しきっと日本を超えていく。

 日本のニット業界は徐々に衰退していく。坂井はそう考えていた。すべてがカネから始まる。もうひとりでは止めることは出来ない現実がそこにはあった。

『どうにかしなければ····』坂井はお客様から集まってくれるような仕事ができないかと、いつも運転しながら漠然と考えていた。今の辛い日々が永遠に続くような錯覚を覚え、憂鬱だった。お客様から集まってくれる仕事。自分で値付けできる仕事。坂井は自分の色をもっと出せる仕事に飢えていた。

 ソウルバラードの曲が流れる坂井の営業車。その車窓から眺める風景。窓を開けて車に乗る坂井が、毎日、毎日疲れきった目でみる風景の中、その視線にいつも飛び込んでいたものがあった。東池袋の裏街を通り抜けるとき、いつもそこに行列があった。

『らーめんか、うまいのかな····』坂井は通るたびにつぶやいていた。。

 坂井はそれほどらーめんが好きではなかった。そばやうどんの方がむしろ好きだった。しかし食べものには格別の興味があった。上質な料理の素材やそのチョイス法、出汁、構成などをいつも考えながら食事をすることが多かった。江上料理学院の師範過程で学んだ母の手作りの料理には一目置いていたのだ。

 いたって普通のメニューでもいつも何かアクセントをつけて輝きをもたらす愛情ある料理を出すのが母は得意だった。辛いときもいつも楽しそうにしている芯の強い母。「深刻に考えないで。なんとかなるから~」といって出してくれる夜食。その味が坂井には身にしみるほど伝わっていたのだ。

 それから4ヵ月の月日が流れた。晩秋を迎え、坂井の仕事はさらに厳しさを増していた。競合会社は知らぬ間に全スタッフを上海に移転。大手商社と組んで、途方もなく破格に安い値段の商品を販売するという。『そんなことしやがって』と舌打ちしてももう遅い。

 そしてまた、いつもの時間に車で通るとまた行列があった。坂井はいつもと同じように眺めていたが、その日はなぜかいままでと違う考えが脳裏をよぎった。『そうか。らーめん屋をやってみたらいいじゃないか···』

焦燥感のなかでひらめいたアイデア、父への直談判

 坂井はガランとした事務所に戻るとすぐに父に直談判に行った。

「お父さん、いや社長、このままではいずれ全滅です。新しいことをやりましょう。いや、やってもいいでしょうか?」

「何をやるんだ?」父は驚いて尋ねた。

 坂井は一呼吸おいてゆっくりと話し出した。「らーめん屋です。らーめん屋は味が認められれば、お客様の方からお店に来てくれるんです。しかも、値段だって値切られることはない。こっちで決めていいんですよ」

 父は沈黙していた。坂井はそれほど具体的な計画を持っていたわけではない。いやほとんど計画などなかった。しかし、その時はなぜか言葉がどんどん湧き出てきた。「このままでは、みな共倒れです。最後の掛けにでましょうよ」

 薄ら寒い秋の夕暮れだった。長い沈黙のあと、父は坂井に言った。

「やってみるか」その顔には持ち前のバイタリティと笑顔が消えてはいなかった。「最後のカネがある。やってみよう」

 母は「私も一緒に食べて勉強するわ」と笑顔で続いた。坂井には心強い味方がいたのだ。会社には銀行が最後の融資を告げに来ていた。融資金額は、すべての財産を担保に入れて最後通告されて手にしたラストチャンスのカネだ。5000万だった。無駄には出来ない。

 それから、坂井は母と父といっしょに来る日も来る日もらーめん屋を食べ歩いた。的確に味のベースを分析していく。味だけではない。店のデザイン、カウンターの高さ。きっと食べやすい高さがあるに違いない。食器の色や重さすべてを観察していった。

母父と始めたらーめん食べ歩き、スープの探究

 東池袋の大勝軒でも行列に並んで食べた。坂井にとっても母や父にとっても、有名店で食べるらーめんは驚くほどうまかった。

『らーめんはこんなにうまい食べ物だったのか?』といつも感動していた。

・春木屋のほっとする味。

・大勝軒のぐいぐいと食べてしまう迫力。

・スープだしの主張が群を抜いていた中野青葉。

・外観と違い和風の味にほっとしたちばき屋。

・演劇舞台を見ていたような新宿の麵屋武蔵。

・大衆の味を地元に定着させた道頓堀。

 どの味も素晴らしかった。毎日3~4杯食べてはその味をノートにしたためていく。そして事務所に戻っては、スープを作り味見をする。何度も捨ててそして作りまた食べる。記憶と感性と根性がなければそんな生活は続けられない。

 しかし、食べれば食べるほど味のポリシーを決めていくことの難しさを痛感した。後でわかったことだが、らーめんとは実はそういう食べ物だったことにまだ気がついていなかった。一方、母は自分の料理の知識をアレンジして何か面白いメニューを作れないかと考えていた。ある日、そんな坂井を見て母は言った。

「今は、健康志向の時代でしょ。これからますますそうなるでしょ。だから、おいしけりゃいいというだけでなくて、何かそういった面も考えないとね」

 そうした日々が2ヵ月から3ヵ月は続いただろうか、味の方向性がぼんやりと見えてきた。それは無化学調味料で、体にやさしいもの。母の手作りの料理のような愛情があふれる味。リピートできるもの、くどくなく、しかしパンチがあるらーめん。トンコツだけの味でなく、鶏スープだけの上品さだけでなく、魚介と醤油が立つだけでなく、という具合に···。解決することには終わりがなかった。ここからが苦悩の日々であったのだ。

『いいラーメンはニットと同じだ。レベルの高いものを維持できれば、絶対に受け入れられる』坂井はいつしかそう思うようになっていた。麺が素材、スープや具がデザイン技術といったところだろうか。

 味の決定とは逆に、店の外観は次第に出来上がっていく。内装はお手の物だったからだ。店の名前も決まっていた。日本の歴史を動かした名誉ある地名、その位らーめん界に新風を巻き起こしたいという意味を込めて坂井はすでに「斑鳩(いかるが)」と命名していた。

 母も父もみな、何か今の苦しい状況を忘れたように、らーめんの探究に没頭した。

 築地の乾物問屋に行き、無理を言って最高の利尻昆布を大量に仕入れた。そしてその紹介で、本枯れ節の上物を入手、さば節や宗田節、さらににぼしやあごまでもとにかくそろえた。意外に知られていないが、斑鳩のスープには沢山のどんこが出汁に使われている。干した大きな椎茸、これも惜しげもなく入れ、濃厚な魚介系スープを作る。魚介系のスープは味が落ちないように沸騰させず丁寧に出汁をとるのが大切だ。

 それに鶏ガラと豚骨も丁寧に洗い下処理し、野菜を入れ10時間煮込んで、動物系スープを同時に作る。しかしその試行錯誤は困難を極めた。つまらないことでもやってみないとわからないのだ。例えば、下処理したブタやガラは水のうちから放り込むのか、水が沸騰してから入れるのがいいのか?下処理は一体何回やればいいのか?

 お店によっても違うし、そうしたことまで聞く訳にもいかない。また、同じ素材で作っても何で今日と昨日で味が違うのか?原因がわからない。どれが原因かわかれば、そこを直せばいいのだが、素人の坂井にはまったくわからないことだらけだった。

『正解はないんだな。一つずつ解決していくしかない』坂井はつぶやいた。

『開店の期限を考えればそうは言っていられないが、しかしここを超えなければ、素晴らしい味は生み出せない』坂井にはそう感じられた。

 魚介系と動物系その二つを併せたダブルスープ。いまや業界の主流ともいえる味になっているが、当時はまだ一般に認知されていたわけではない。坂井はそこに無化学調味料で挑んでいった。とにかく最高の素材のスープを作ろうと決めていたわけである。

 動物系のスープの出来もタイミングがずれると味はすぐばらつきだす。本当に難しいらーめんスープなのだ。調和して旨みが倍増する。その調和がもっとも命の部分だ。このタイミングもニット製品の技術に通じるものがあった。坂井は没頭していった。

 上質な醤油を利かせた返しを用意した。麺は食べ歩いてもっとも相性がよい製麺屋を選んだ。製麺屋には様々な注文をいれた。粉の配合、切り歯の指定。そして熟成の期間などだ。こうして、従来のらーめんの常識を超えた原価率を度外視した高価ならーめんが出来上がった。

「超濃厚東京駅らー麺」(斑鳩より写真提供)
「超濃厚東京駅らー麺」(斑鳩より写真提供)

原点は「母の手作りの料理の味」

 2000年、その年の桜は早く開花した。季節も街も動き出していた。開店しなければいけなかった期限をとっくに過ぎていた4月19日、「斑鳩」はらーめん屋として誕生した。その時、開業資金はもう底をつく寸前であった。

 しかし、斑鳩のそれからの活躍は素晴らしかった。開業後も母と父そして坂井本人の舌で味の修正を続けた。開店当初は、魚介系スープが前面に出た荒削りならーめんであった。しかし、今ではトンコツを十分に煮立てて、臭みのないしかもコラーゲン豊富な極上の動物系スープを考案した。この味はすでに、斑鳩のスタイルとして広く認知されている。

 麺もとうがらしを練りこんだものや、お茶を入れた麺、様々なスタイルをお客様に提案していった。

 従来になかった和のテイストを持った油そばもメニューに並んだ。母はチャーシュウマヨネーズおむすびなどを提供し好評を得た。多くの雑誌に紹介され、斑鳩のファンの裾野を広げていった。

 それからの斑鳩の活躍は言うまでもない。2002年、雑誌『Tokyo Walker』にて1位を獲得。そして2003年12月、日本テレビ系ラーメン特集番組にて全国第3位に選出された。店を開店してからまだ3年半。その味は日本の味の一つに認知され一目置かれるまでになっていった。

 坂井はある雑誌の取材の時、記者にぼそっとこうつぶやいた。「斑鳩の味は、母の手作りの料理を、らーめんに応用しただけです。自分たちのニットを編むようにね」

(了)

「ズワイガニとうにのトリュフ薫る東京駅まぜそば」(斑鳩より写真提供)
「ズワイガニとうにのトリュフ薫る東京駅まぜそば」(斑鳩より写真提供)

近況

 2003年の取材当時、坂井保臣氏はまだ30歳。あれから20年が経過した。九段斑鳩はダブルスープの代表格の店として広く認知されている。東京駅斑鳩には連日大勢のお客様が訪れている。現在は結婚され、素敵な家庭を築いている。なお、父の坂井保幸氏は2022年他界された。お母さまはご健在で、ラーメンの味をいつも気にしているそうである。

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【この記事は、Yahoo!ニュース エキスパート オーサーが企画・執筆し、編集部のサポートを受けて公開されたものです。文責はオーサーにあります】

大衆そば研究家・出版執筆編集人・コラムニスト

1959年生。東京理科大学薬学部卒。中学の頃から立ち食いそばに目覚める。広告代理店時代や独立後も各地の大衆そばを実食。その誕生の歴史に興味を持ち調べるようになる。すると蕎麦製法の伝来や産業としての麺文化の発達、明治以降の対国家戦略の中で翻弄される蕎麦粉や小麦粉の動向など、大衆に寄り添う麺文化を知ることになる。現在は立ち食いそばを含む広義の大衆そばの記憶や文化を追う。また派生した麺文化についても鋭意研究中。著作「ちょっとそばでも」(廣済堂出版、2013)、「うまい!大衆そばの本」(スタンダーズ出版、2018)。「文春オンライン」連載中。心に残る大衆そばの味を記していきたい。

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