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ファッションがダサい大人は、仕事ができない?! というまさかの新法則

齋藤薫美容ジャーナリスト・エッセイスト
(写真:Motoo Naka/アフロ)

今更だけれど、キャリアある女たちの 騒動が止まらない。分別あるはずの大人の女たちが、次々物議をかもしていて、女って、そもそもこんな生き物だったっけ? と、そういう奇妙な疑問も湧いてしまうほど。

昨年の今頃は、男たちの不倫が次々暴かれ、一体誰が一番ゲスか? みたいな浅い議論が日本全国あちこちで交わされていたけれど、その反動なのか、続編なのか、今年は影響力ある女性の言動ばかりが狙われている。

かくして、不倫、暴言、失言に迷走まで、女性版の問題の数々は、男たちのゲスぶりをインパクトで超えた。それも今の男社会が、女性の起こす騒動の取り扱いにまだ慣れていないせいもあるのだろうし、次世代の女たちの生態を未だ把握していないこともあるのだろう。

だからはっきり言おう。少なくとも、今年に入ってから続発した女性議員たちの問題は、今の日本女性の生態をある意味、象徴していると。

まず不倫は"妻子持ちの男が独身の若い女性とするもの"と思っていたら大間違い。今はむしろ女性主導の不倫も多く、とりわけ女性政治家のように押し出しも生命エネルギーも人一倍強いタイプほど、不倫に陥りやすいと言う見方もあるほど。従って、共感はしないけれども、わかる。仕事がうまくいっている時ほど、不倫に走りやすかったりするのは、不思議にキャリアある女性の1つのパターン。闘争心のようなものが高まると、男性ホルモンのレベルが高まるせい? よって、今頃、脇の甘さを正したりしている有能女子は少なくないのだ。

一方、日本中を震撼させた"暴言"に対しても、実は自分の中にもああいう要素が潜んでると吐露する女性もある数いる。もちろんそれは共感では全くない。あそこまでの暴挙はありえないと、みんな思っている。けれども、キャリアを積んできた有能な女ほど、ああなってしまう理由が理解できたりするらしいのだ。かの有名なVOGUEの編集長アナ・ウィンターを(いえ、彼女をモデルにした「プラダを着た悪魔」の悪魔を)思い出してほしいのだ。あんな下品な言葉を使わずに、訴訟にもならずに、ちゃんと気に入らないスタッフを痛めつけている。できすぎてしまう女ほど、 できないことに対する怒りは怒りじゃない。罰則。相手を言葉で刺さないと気がすまないのである。それだけの弁が立つだけに。けれど彼女は一方でちゃんと尊敬されている。それが正当化されるほど女のポジションは変わりつつあるのだ。日本はそこに行き着くまでまだ時間がかかるから、反面教師で明日は我が身と、自分の中の心の手綱を締め直したと言う人が多数いるのである。

逆に、一連の女性議員の騒動で、同年代の女性たちにとって最も意味不明だったのが、防衛庁長官を辞任した稲田氏。この人の言動はすべて予想を超えてくる。大きく超えてくる、のではなく"予測不能"。どうするとそういう判断になるのか、どうするとそういう行動になるのか、そこがいちいち分かんないという……。

女性の多くが1番首をかしげたのが、実はこの人のファッションだった。日常的な網タイツや伊達メガネは、 地元対策らしいから別にいいとして、防衛庁長官になってからのさまざまな式典での服選びは、明らかに不可解だった。違和感以上の、不思議さを感じた。

申し訳ないけれど、この人はTPOと言うものをはき違えている。いやTPOを意識しすぎるからああなるのだろう。TPOに自分の個性を加えるのは構わないとしても、その加え方が何というかコスプレ的な"はしゃぎ方"になるところが、防衛庁という様式美の中では、浮いていると言うより痛々しかった。

もともとあのような"ザ・男組"で、女性がトップに立つこと自体、ビジュアル的にも無理がある。しかしそこはさすが、小池百合子氏は見事だった。ダークなパンツスーツに、そこはかとなくアーミーテイストを匂わせて。小池さんはもともとファッションセンスで際立っていた人だけれど、最近はむしろこう思えてきたのだ。

「女の服のセンスは、単に服だけのものじゃない。"仕事のできる女は服のセンスも優れている"と。服がダサい女性政治家は、やはりそこまで。やっぱりセンスの良い仕事はできないのだ」というふうに。

さて、罵詈雑言の限りを尽くした女性議員は、ピンクのスーツが目立っていたように、本来どこまでもエレガンス派。だからどうにも納得できなかったはず。ファッションと人間ってこんなにも相矛盾するものなのかと。いやだから逆に気づいたはずなのだ。フリルやぺプラム付きの甘めのスーツや、共布コサージュ付きのおめかしスーツなど、今時は保護者会でも見かけないような極めてフェミニンな服に身を包んでいたこと自体が、そもそも極めて戦略的であったと。

こういうファッションをする人がそこまで口汚い男言葉を使うのは、普通に考えればありえないが、エレガンス系ファッションをこれでもかと選ぶのは、自分を良く見せたい強い意識の表れ。着る人が着ると品性を取り繕うファッションとなり、そういう意味では最も明快な二面性を宿す服。つまりその分だけ、身内に対してきつくなるエレガンス派は少なくないとも囁かれてきた。

かつて80年代、カラス族と呼ばれる"すっぴんに黒ずくめ"というDCブランド系のファッションが流行った時、その対極にエレガンス派という、巻き髪にピンクの口紅という、ラグジュアリーでフェミニンなクラスターが存在し、両者は180度の価値観の違いからお互い半目しあい、カラス族はエレガンス派を男に媚びる計算高い輩と陰口を言い、エレガンス派はカラス族の出で立ちをモテない女の悪循環と言い放つような、影なるバトルもあったのだとか。

しかしながら、ファッションとは異なもので、時に全く逆説的な心理を表したりする。つまり、エレガンスな服に身を包む女の方が内面的にはよほど男っぽく、逆にカラス族という女を自ら否定するスタイルに浸る女の方が、むしろよほど女っぽかったりするという現実がある。ファッションにはどこか屈折した内面が投影されるということなのである。

むしろ精神的に男っぽいから、そういう自分を世間に見せないためにも、女っぽい服を着る。いや男っぽいから、女っぽく見せる術をよく知っているとも言える。一方のカラスは、内面が女っぽい自分が嫌だから、女っぽさを解除する。そういうパラドックスが女の服には露骨に宿るのだ。

例えば不出馬を表明したものの、精神的にはどこか暴力的な部分も噂される上西小百合氏も、ファッションは見事にエレガンス派だ。既にお忘れの向きもいるのだろうけれど、舌鋒鋭く国会を掻き回した田中真紀子氏も、丸襟の可憐なブラウスなども目立ったエレガンス派……。何を言いたいか分かるはずだ。乱暴者ほどエレガンスなんである。

一方、不倫で民進党を離党し、幹事長の職を逃してしまった山尾氏や、また地方議員との不倫でひとまず自民党に守られた形になった元アイドル議員は、ファッションはシンプルでカジュアル。少なくともファッションでは女を売り物にしている気配がなく、女性議員としては洗練されていると言っていい。この辺が、幸か不幸か男性社会においてどうしたってモテてしまう逆要素になってしまうということ。

昔から、政界では華やかな色の保護者会スーツを着ると言うのが女性議員の1つのスタイルだったわけだが、そういう派手色スーツを避けることが、逆にセンスの証となるわけで、小池百合子氏がおよそスーツを着ずに、ジャケット+ボトムと言うコーディネートにこだわっているのも、おそらくはこれがためだろう。旧態依然の女性議員たちと一括りにされたくないから。

かくして政界だけを見てもこの通り、女は今ファッションがタイプを語り、そのセンスが有能さを語る、見事にそういう時代になってきたのだ。

かつては、ファッションと有能さはむしろ反比例するとの見方があったと思う。オシャレにうつつを抜かしているタイプは、どうせ仕事などできないと。しかし今、必要以上のオシャレは別として、ちゃんとセンス良く洗練された佇まいを見せないと、仕事上でも信頼されない時代になっていくと考えていいと思う。野暮ったいファッションの女は仕事ができない、意地悪で言ってるのじゃない、実際なんだかそういう時代になってきているのである。

でもなぜ? 考えてもみて欲しい。仕事だって人間関係だってファッションだって、みんなバランス感覚がモノを言う。人として当たり前のバランス感覚を持っていれば、仕事もそこそこ上手にこなすし、ファッションだってちゃんとTPOを考えた巧みなオシャレができるはず。人間性においても、そう。バランスのとれた人はバランスのとれた服を着る、変な人は変な服を着る……そういう、ひどく単純な法則が成り立ってしまう時代になったのだ。

"名は体を表す"は、今時ピンとこないけれど、装いは体を表す、まさにそういう時代になったのである。

だから、余計なことかもしれないが、ここへきて小池さんの"お帽子ファッション"がいささか気になっている。センスは悪くないけれど、いくらなんでもちょっと大げさ。それが、すでに天下を取ってしまったかような慢心の証でなければ良いけれど…と。

美容ジャーナリスト・エッセイスト

女性誌編集者を経て美容ジャーナリスト/エッセイストへ。女性誌編集者を経て独立。女性誌において多数の連載エッセイを持つ他、美容記事の企画、化粧品の開発・アドバイザーなど幅広く活躍。『されど“男”は愛おしい』』(講談社)他、『“一生美人”力 人生の質が高まる108の気づき』(朝日新聞出版)、『されど“服”で人生は変わる』(講談社)など著書多数。

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