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高校生の頭髪を巡る議論。頭髪や衣服での過度な自己アピールは、子供からのSOSかもしれない

おおたとしまさ育児・教育ジャーナリスト
イメージ(写真:アフロ)

尾木ママvs元府知事の議論はかみ合っていない

 頭髪が生まれつき茶色いのに、学校から黒く染めるよう強要され精神的苦痛を受けたとして、大阪府の高校生が府に損害賠償を求める訴えを大阪地裁に起こした。生徒は昨年秋から不登校になっており、「指導の名の下に行われたいじめだ」と訴えている。

 生徒側の主張しかわからない中で、この件について学校側が悪いと決めつけるのは早計だ。しかし一般論として、自分の生まれつきの頭髪が学校の規律を乱すから染めなさいというのは明らかな人権侵害ではないか。

 これにともない大阪府の約6割の学校で「地毛登録制度」が運用されていることも明らかになった。髪の色が黒くなくても、それが地毛であることを証明して、登録しておくという制度だ。

 学校運営の一連の実情に大方の人は「ナンセンス」という反応を示したように感じる。尾木ママこと教育評論家の尾木直樹さんも「強制的に黒髪にしても教育上効果がない」と学校側の対応を批判した。しかしそうではない考えの人もいる。

 某元大阪府知事は「地毛登録制度は茶髪の子供に黒髪を強制することがないようにするためのもの」「生まれつき茶髪の子供がさらに茶髪にするケースもある」「進学校では頭髪も服装も自由にしても問題がないだろうが、荒れている学校での指導方法の要は髪の色と服装を正すことと挨拶の徹底から」「教育現場ではルールを守らせる教育が重要」というような主旨の考えを述べた。

 メディアでは尾木ママvs元府知事の構図で語られたが、この2人の議論はもともとかみ合っていない。

 尾木ママは子供にとっての内発的変容を目指している。元府知事は外的圧力によって子供を型にはめてでも学校運営をスムーズにすることを目的としている。話の次元が違う。尾木ママがいうような内発的変容をもたらす教育環境を構築するためには学校運営が安定していなければならず、そのためにはある程度の強制も必要であるという理屈は、理屈としては成り立つ。

 しかしではなぜ、しっかり勉強してきた進学校の子供たちは自由にさせてもむやみに茶髪にすることなく、そうでない学校の子供たちは収まりが付かなくなるのか。そこを考えてみる必要がある。

 1つの仮説として自己肯定感の違いが考えられる。

 自分の能力が少なくとも学力という点において評価を受けていると思えれば、自己肯定感が高まり、余計なところで自己主張をする必要がなくなる。受験勉強の偏差値や全国学力・学習状況調査の順位によって子供たちに無言あるいは有言の「君たちはダメだ」という圧力がかかっているならば自己肯定感は下がり、屈折した形で世の中の価値観に対する反抗を表現せざるを得なくなる。それは反抗というよりむしろ子供たちからのSOSである。

 だとすれば改めるべきは、「公立高校の大学進学実績を上げろ」「学校別の学テの成績を公表して成績不良の学校にプレッシャーをかけろ」などというメッセージを発する大人たちの態度ではないだろうか。

「問題」の根本は子供にあるのか大人にあるのか?

 頭髪にしても服装にしてもアクセサリや化粧にしても、華美にならないようにというメッセージを学校が発するのには一定の意味がある。中高時代は、表面を取り繕うのではなく、自分の中身を磨き上げる時期だからだ。その中身こそが一生の財産になる。

 どこまでが適当でどこからがやりすぎなのか、線引きはむずかしい。ときには失敗することもあるだろう。それも学習。「いいさじ加減」を自分で判断する訓練だ。どんどん失敗すればいい。そこから尾木ママのいうような内発的な変容が起こる。一度自分の中に基準ができれば、大人になって茶髪にしたりサングラスをかけてテレビに出たりという余計なことをしなくてすむようになるだろう。

 もし偏差値の低い学校で、茶髪にしたり、服装が乱れたり、そもそも大人に対する言動に荒れが見られるというのなら、まずは彼らのSOSに耳を傾けるというのが「理想論」である。

 「地毛証明書」があることによって茶髪の子供が守られるというが、そんな「ゼロか百か」的な運用をしなくても、人間同士の信頼関係に基づく話し合いの中で情報交換・意見交換をすればいいではないかというのが「理想論」である。

 それでもウソをついて髪を染める子供がいればそれこそ、先生を信頼できない、大人を信頼できないというSOSである。信頼できない子供に問題があるのか、信頼されるに値しない大人に問題があるのか。

 東京のある女子校には制服がない。制服の廃止を決定したときの校長は、決断に関して次のような考えを述べている。

 あるいは、人によっては思いきって派手な服装をしてくることもあるかも知れません。そして、ある種の流行になるという心配もあります。しかし、そのような浮いた空気があるとするならば、すでにこの学校の教育に大きな欠陥があることを示すにすぎません。そのときは、服装よりも教育のありかたそのものを反省すべきであって、またそれに耐えられなくなって服装にうき身をやつす生徒の弱さは、別に解決すべきだとおもいます。

 限られた人と時間と予算の中での学校運営が厳しい現実にあるのはわかる。「現実」に対応しなければいけない立場の人たちに一方的に「理想論」を振りかざし断罪すつもりはない。しかし「現実」に対応しなければいけないのは大人だけではない。子供たちに押しつけられている「現実」も、そこに不合理が含まれているならば、それは早急に取り払われるべきだ。「現実はなかなか変えられないが、理想はこうである」と、少なくともそういうメッセージを発するべきではないだろうか。学校は管理する側の大人のためにあるのではない、子供たちのためにあるのだという「理想論」に基づいて。

 世の中には「理想」なんていっていられない「現実」がたくさんある。みんながそのなかで無力感にさいなまれている。だとしたらなおさら、学校の中でくらい、「理想」を語れなくてどうする。現実に屈して理想を掲げるのをやめてしまう大人が偉そうに子供たちに未来を語るもんじゃない、と私は思う。

育児・教育ジャーナリスト

1973年東京生まれ。麻布中学・高校卒業。東京外国語大学英米語学科中退。上智大学英語学科卒業。リクルートから独立後、数々の育児・教育誌のデスクや監修を歴任。男性の育児、夫婦関係、学校や塾の現状などに関し、各種メディアへの寄稿、コメント掲載、出演多数。中高教員免許をもつほか、小学校での教員経験、心理カウンセラーとしての活動経験あり。著書は『ルポ名門校』『ルポ塾歴社会』『ルポ教育虐待』『受験と進学の新常識』『中学受験「必笑法」』『なぜ中学受験するのか?』『ルポ父親たちの葛藤』『<喧嘩とセックス>夫婦のお作法』など70冊以上。

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