“富山の子たち”が栄冠をつかんだ。第92回全国高校サッカー選手権決勝戦における富山第一のスタメン11名は、9名が富山県のクラブチーム出身。残る2名もMF西村拓真は富山に転勤した父と実家に住み、DF竹澤昂樹が隣県・石川から通っている"準地元組"である。寮を持たず「自宅から通える子でやっていこう」(大塚一朗監督)というのが、富山第一のこだわりだ。そして選手権制覇という結果が、地元の才能で結果が出せることを証明した。

富山の子たちが、全国の舞台で我々を驚かせたのは初めてではない。富山第一は柳沢敦(仙台)、西野泰正(讃岐)、中島裕希(山形)といった人材を日本サッカー界に輩出し、選手権でいえば大会最多(当時)の9ゴールを挙げて78回大会の得点王に輝いた石黒智久(元カターレ富山)の活躍は忘れがたい。柳沢が躍動しつつ静岡学園にPK戦で屈した74回大会や、富山第一が4強入りを果たした78回、79回大会はご記憶の方も多いだろう。

U-12年代、U-15年代の全国舞台で結果を出してきた富山勢

富山県勢は中学生以下でもコンスタントに結果を出している。例えば2003年の全日本少年サッカー(U-12)は、富山北FCが準優勝を遂げた。富山北のエース・大崎淳矢(徳島)は、同大会を制した江南南少年団の原口元気(浦和)とともに、強烈なインパクトを残した才能である。大崎の他にも森泰次郎(富山第一→カターレ富山)や、大塚一朗・富山第一監督の長男である大塚俊(富山第一→慶應義塾大)といった人材を揃えた富山北の顔ぶれは、能力的にJの育成組織に引けを取らない水準だった。

中学生年代はFCひがしが09年にクラブユース選手権で全国ベスト8、10年にベスト16へ進んでいる。選手権優勝にも貢献したMF川縁大雅は、中2からFCひがしの主軸としてプレーし、全国のトップレベルで戦っていた。昨年末の高円宮杯U-15も、SQUARE富山FCが8強入り。カターレ富山もベスト16入りを果たしている。富山県は人口108万人という小県で、東京都でいえば世田谷区と目黒区を合わせたくらいの人口しかない。しかしその土地に、全国レベルのクラブチームが4つ並び立っている。すべての年代で、都市圏のJ下部と渡り合えているのが富山の子たちだ。

富山第一の歴史を見ても、この世代に突出して人材が集まっていた訳ではない。U-18年代の最高峰に位置し、高体連、クラブが共に戦うプレミアWESTでは、3年連続の残留に成功している。選手権を獲ってもおかしくないクオリティは、常に維持されていた。

大舞台でも気後れはなかった

“トップ・オブ・トップ”の才能は、高校に上がる段階でJリーグの育成組織に引っ張って行かれる現実がある。先述の大崎淳矢は富山北FCからサンフレッチェ広島F.Cユースに進んだ。昨年カターレ富山でプレーしていた舘野俊祐は、SQUARE富山から東京ヴェルディユースに引き抜かれた。とはいえ各クラブの実績から、”全国”や”都会”に対する不必要な劣等感が富山の子たちにはない。決勝戦で戦った星稜は全国のJクラブから選手が集まり、U-15年代で全国タイトルを獲ったような子もいる。しかしそんなエリート軍団が相手でも、気後れは皆無だった。「プレミアなどでJのユースとやっている。星稜はそのチームより弱いと思っていた」(MF細木勇人)という根拠があるからだ。

決勝戦後の記者会見で、大塚監督は「富山県民の後押し」を強調し、選手育成に「色んな人が関わる」ことの重要性を説いている。選手の両親、学校の教員、メッセージを送った人、スタンドで応援をした人と様々な後押しがあったに違いない。サッカー部を36年に渡って指導し、今の地位に押し上げた長峰俊之部長の功績も見過ごすべきではない。とはいえ選手権制覇という結果を考えたときに、何より重要なことは、富山県が地元の子で全国を制する底辺を既に持ち得ていたという事実。小学生年代、中学生年代に関わり、底上げに貢献した”色んな人々”が、富山に栄冠をもたらしたのだ。