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首相会見の異常さ放置して何がジャーナリズムか(「東京新聞」記事転載と追加の議論)

奥村信幸武蔵大教授/ジャーナリスト
2020年2月29日の安倍首相記者会見。わずか5人しか質問ができなかった。(写真:ロイター/アフロ)

 安倍首相の記者会見が、国民の「知る権利」に応えていないと議論になっています。この問題について東京新聞の2020年3月18日(水)夕刊文化面(5面)「ウイルス禍と文化」という特集でタイトルと同じ見出しの評論記事を書きました。

 この文章はウェブ版に掲載されなかったため、同紙のご厚意により転載の許可を得て以下に全文を公開し、若干の追加の議論をしておこうと思います。

<「東京新聞」2020年3月18日(水)夕刊文化面(5面)記事>

(記事では漢数字で表記されていましたが、読みやすいように算用数字に変換して掲載します。)

首相会見の異常さ放置して何がジャーナリズムか

 この問題にメディアは見ないふりをしてきた。2月29日の安倍晋三首相の新型コロナウイルス感染拡大についての緊急記者会見が、子供たちの教育と親の生活を直撃した小中高校の臨時休業の根拠を問うという切迫したテーマだったこと、それにもかかわらず「回答は事前に準備され、当てる順番まで決まっていた」とフリーランスの記者たちが反発し、にわかに注目を集めただけだ。

 3月14日の会見では、質問打ち切りに記者が抗議、約8分だけ延長された。記事やソーシャルメディアで「メディアは頑張った」という意見もあるが、そもそも安倍首相が就任した7年前に、いやその前からやっていなければならないことだ。

 7日に首相が福島県を視察した際には、官邸記者クラブ以外を排除してぶらさがり(簡略な会見)を行おうとしていた。他紙の福島駐在記者が紛れ込み、形式的な一問一答で帰ろうとした首相に「地元、福島の記者です」と果敢に質問したとツイッターなどで賞賛された。メディア内での足の引っ張り合いは記者クラブだけが問題ではない。そのような体質を放置してきたメディア全体に対する不信感が広がっているのに、危機感は共有できていないようだ。ネット署名などに動いているのは新聞労連など組合だけだ。

  首相会見とは、国民の命や生活に最大の権限を持つ人が公正に判断しているか直接本人の説明を得て検証するためのものだ。私たちに最も重要な問題を選び、効率的に回答を引き出せるという前提で記者に代表してもらっている。首相が正面から答えず、充分な説明時間を取らなければ、毅然と抗議し納得のいく答えを引き出す行動を私たちは当然期待していい。

 権力者は都合の悪いことを詳しく話したがらない。取材と洞察力でそこを突き、真実を明らかにすることを期待している。質問内容を事前に知らせていいのは、正確を期してデータを参照する場合などだけなのは小学生でもわかる。

 苦しい弁明には「はぐらかし」も増える。二の矢、三の矢の質問で迫ることは「権力の監視」に不可欠な条件だ。これがないので「桜を見る会」では国会論戦の方がいい仕事をしているように見えている。

 常識的な時間の確保が前提だ。29日は36分のうち冒頭発言が19分もあり質疑はわずか17分だった。かねてから安倍氏の冒頭発言は長い割に情報に乏しいのに、「ユーチューブででもやってくれ」という抗議も見たことがない。14日の会見も含め官邸側から「全体で20分」との通告があった。新型コロナウィルスにまつわる様々な不安の解消に充分とは到底思えない。「20分」の通告じたいニュースにするべきだ。

 14日の会見は記者が食い下がって52分に伸びた。それでも首相が「悪夢」と言う民主党政権並みに近づいただけだ。2010年5月に鳩山首相が普天間の代替基地を沖縄県外に求めるのをあきらめると発表した時は、冒頭発言が約19分、その後14人が質問、1時間7分だった。

 リーダーがメモを読まず、自分の言葉で私たちに説得を試みる会見を見たい。私たちの心配事なのに勉強不足で答えに詰まるとか、反対に意地悪な質問に絶妙の切り返しで知性を見せるのも重要な情報だ。そして記者も追及が甘いと批判されるような緊張感のある場だ。

 米国のジャーナリズムの教科書的名著「ジャーナリズムの原則」に記されている10原則の2番目は「市民に忠実」だ。記者は誰の方を向いているのか。私たちは「当たり前」のことを求めている。

「東京新聞」2020年3月18日夕刊の筆者の記事
「東京新聞」2020年3月18日夕刊の筆者の記事

 この記事には書き切れませんでしたが、関連して非常に重要だと思われる点をいくつか指摘しておきます。首相会見に限らず、これは日本の政治ジャーナリズムが長年にわたって積み重ねてきた、構造的な問題だからです。

民主主義の「共通の価値」

 記者会見がまともに行われるということは、情報公開が真っ当に行われていることであり、あるいはリーダーが国民に対して説明を尽くしているということです。その前提になるのは政治信条などに関係なく、民主主義という共通の価値です。

 この価値が共有されていれば、首相会見で不都合が起きたら、記者たちは一致団結して激しい抗議を行い、改善を求めるのが当然です。しかし、この問題についてメディア側が「一致団結した」公式な抗議を首相や官邸に対して行ったという情報は、この原稿を書いている2020年3月24日現在では確認できません。

「アコスタ記者事件」の意味とは

 2018年11月から12月にかけてアメリカで起きた、CNNホワイトハウス担当アコスタ記者の取材証停止(くわしい顛末については拙稿「アコスタ記者騒動から考えるトランプ政権取材の方法」を参照してください)をめぐって、ふだんはトランプ大統領に味方して、CNNを批判しているFOXニュースも抗議に回り、ホワイトハウスに処分を撤回させたのは、メディア各社がジャーナリズムの価値を共有し一致して行動したからです。

 アコスタ記者は中間選挙後の記者会見でトランプ大統領と激しい応酬を繰り広げ、その後ホワイトハウスのインターンの女性とマイクの取り合いとなりました。後にその模様を撮影した映像に悪意の編集が施され、あたかも彼が女性に乱暴をしたように加工されたものを、サンダース報道官(当時)が記者資格停止の根拠としたのです。

 メディアは、ホワイトハウスが客観的なエビデンスに基づかない取材資格の制限を行ったことで、「公平な取材の機会を確保していない」と判断、理不尽な仕打ちを受けた記者の立場を回復しようとしたのです。

音無しの「公式チャンネル」

 もし日本のメディアが記者会見の「正常化」を首相官邸に迫るなら、単発の記事や社説ではなく、各社の編集局長や報道局長など幹部が社を代表して、「民主主義的な価値」の実現を要求すべきものだと思います。しかし、筆者の知る限りはそのような公式の見解が発表された形跡は、2020年3月24日現在、確認することができません。

 各社のばらばらな要求では動かないかもしれません。何らかの一致団結した動きが必要になるはずです。おそらくメディア業界全体として動ける組織は、日本新聞協会しかありません。しかし、何らかの組織的な要望が首相官邸側になされた形跡も、この原稿を執筆している2020年3月24日現在で確認できません。

 だから東京新聞のコラムには、「新聞労連などの首相会見の時間確保などを求める署名活動などの方が目立ってしまう」と書いたのです。

首相会見だけの問題ではない

 首相の記者会見だけがクローズアップされていますが、そもそも日本の政治ジャーナリズムが抱える構造的な問題として理解する必要があると思います。悪名高き「記者クラブ」は大きな要因のひとつです。記者クラブの制度がいけないのではなく、20社足らずの報道機関だけが、政治や中央官庁での取材機会を独占してきた「仕組み」に問題があります。

 2009年に民主党政権が誕生した頃に「記者会見のオープン化」という言葉が飛び交い、首相官邸や政党、省庁などの記者会見に今まで入れなかったフリーランスや外国報道機関らの参加が進みました。大きな前進ではありましたが、不十分でもありました。真に実現すべきは、記者会見のオープン化ではなく、記者クラブそのもののオープン化だったからです。

記者クラブの「うまみ」

 政治取材で記者クラブの大きなメリットは、非公式な情報収集の場である「懇談」の機会が提供されることです。能力のある記者は、個人的な取材力で個人的に連絡が取れるような関係を開拓していきますが、そのような記者はごく一部にとどまります。しかし、記者クラブの常駐記者になれば、ともかく定期的に「懇談」のオファーが舞い込むシステムになっています。政治家らもまた、メインストリームのメディアの記者と、ある程度の個人的な関係を築き、多くの人にリーチするニュースに取り上げてもらうというメリットもあるからです。

 政治取材とは、つまるところ「これからどこに取材に行けばいいか」を知ることだと思います。明日誰と誰とが会って何を決めるか、あるいは与党は国会の戦略をどう定めて、どのように審議を進めようとしているのか。次の展開の可能性をいち早くキャッチし、先回りして取材することが必要になるため、特にキーマンとなる人物が何を考えているかなど、非公式な情報をキャッチする必要があるからです。

 フリーランスの記者らは記者クラブの懇談の場には入れませんから、自力で非公式のネットワークを開拓する必要があり、非常に厳しい戦いです。記者会見場に座れるかどうかが問題ではなく、その記者たちの一部は会見前にだいたいどんな発言がなされるか予想がついているような事態もあり得る状態での取材ということになります。

 そうすると記者会見は、乱暴な言い方をしてしまえば、記者クラブに所属するメディアにとっては、「だいたい言うことはわかっているが、ニュースにそのまま使えるような形の発言を提供してもらう場」という消極的な意味しかなくなってしまっている恐れもあります。質問を事前に伝えて調整することが問題になりましたが、そのことに抵抗を感じていないとすれば、単なる前例を踏襲しているだけでなく、このような構造も影響していると思われます。

「記者クラブ主催」の意味とは

 記者会見の大部分は、「記者クラブ主催」です。「記者クラブの開いている内輪の講演会での質疑」という位置づけになります。「政治家らが会見を拒否してもクラブが独自の判断で会見を開ける」というのが理由だと聞いたことがあります。しかし、当の政治家らが拒否すれば会見は成立しませんし、問題となった一連の報道では、官邸側から意向が伝達されて会見が行われているという経緯を見ても、主導権を握っているようには見えません。

 記者クラブに所属している記者の心理としては、内輪で突出した行動を取って仲間外れになるよりも、インナーサークルで情報を得続ける「安全策」を選択する方向に引っ張られてしまうことは容易に想像できます。

 また、外部のジャーナリストが取材の機会を得ようと記者会見の出席などを求めると、お役所や政党などが「会見は記者クラブの主催だから、そっちに聞いて下さい」と言われ、記者クラブにリクエストを出すと、「スペースが限られている」「記者クラブ全体の承認が必要だが、総会を開いている時間がないから今回は遠慮してほしい」などと言われ、結局取材ができないような「たらい回しの構図」も生まれることもしばしばあります。会見をする人物も、記者クラブのメンバーも、「空気を読まないヨソ者の質問」を避ける方向で利害が一致してしまいます。記者クラブの一番の弊害は、外部の人間を排除する仕組みとして機能してしまうことです。

質問の「質」にかかわる問題

 記者クラブ所属記者のすべてが外部のフリーランス記者らに意識的に意地悪をしようとしているということではありません。独自の情報源を開拓しようと動き回ったり、あるいは記者クラブの同調圧力に心を痛め、幹事社として外部のジャーナリストを受け入れるために奔走している記者も知っています。

 しかし、どんな人でも社内での自分に与えられた業務を放棄してまでは動けないという物理的制約があるのも事実です。「構造的に」記者クラブの情報独占の仕組みを守る方向に引っ張られてしまうのも事実なのです。その結果、記者会見でも、波風を立てないような「ソフトボール・クエスチョン」を繰り出すような形になりかねません。

 2月29日の安倍首相の会見で質問した記者5人の質問は、「オリンピックは予定通り行われるか」とか「トイレットペーパーや日用品不足にどのような対策を取るか」など、その前の首相の冒頭発言を聞く限り、決意表明以上のものは期待できないような漠とした質問に終始してしまいました。

 私たちが聞きたかったのは、首相が全国の小中学校の一斉臨時休校を迫るという重大な判断をした「根拠」であり、突然学校が閉まってしまうことで深刻な影響を受ける可能性があるシングルマザー家庭や、経済活動の自粛により大きなダメージを受ける個人業者らにどのような支援をするのか、という「個別具体的な対策(の有無)」でした。

これからどうすればいいのか?

 これはメディアだけの問題ではありません。ニュースを消費している私たちの問題でもあります。何がおかしいのかを理解し、メディアに改善を促し続ける必要があります。印刷やテレビ・ラジオが中心の時代とは異なり、現代のインターネット、スマホの時代には、ソーシャルメディアなどを含め、ニュースの消費者からメディアに働きかけ、意思表示を伝える方法が豊富にあります。

 私がよく引き合いに出す『The Elements of Journalism(ジャーナリズムの原則)』 の中に示されている10の原則は、2001年に初版が刊行されたとき(最新は第3版)は9つでした。2007年に第2版発行の際に1つ増えて10になりました。インターネットの普及に即して加えられたものです。

'''10. Citizens, too, have rights and responsibilities when it comes to the news.

市民の側も、ニュースをより良いものにしていくことについて、権利と責任がある。(訳は筆者)'''

 私たちがもっと記者会見の内容を注視していくことしかありません。新型コロナウィルス対策や、自殺した財務省職員の手記が公開された森友問題も新たな局面になっています。記者たちが、どのような質問を発し、私たちの問題意識に応えようとしているのか、役に立つ情報を引き出す行為には応援を、生ぬるい質疑にはブーイングを送るという行為の輪を拡げていくという「当たり前」の解決策しか私は思いつくことができません。特効薬がない以上、地道で遠回りの方法をとるしかジャーナリズムの回復は望めないのです。

武蔵大教授/ジャーナリスト

1964年生まれ。上智大院修了。テレビ朝日で「ニュースステーション」ディレクターなどを務める。2002〜3年フルブライト・ジャーナリストプログラムでジョンズホプキンス大研究員としてイラク戦争報道等を研究。05年より立命館大へ。08年ジョージワシントン大研究員、オバマ大統領を生んだ選挙報道取材。13年より現職。2019〜20年にフルブライトでジョージワシントン大研究員。専門はジャーナリズム。ゼミではビデオジャーナリズムを指導し「ニュースの卵」 newstamago.comも運営。民放連研究員、ファクトチェック・イニシアチブ(FIJ)理事としてデジタル映像表現やニュースの信頼向上に取り組んでいる。

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