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太平洋戦争開戦日は、ハワイとマレー半島の天気予報をもとに決められた

饒村曜気象予報士
【太平洋戦争】 真珠湾攻撃 (1941年12月7日)(提供:U.S. Navy/National Archives/ロイター/アフロ)

太平洋戦争開戦

 昭和16年(1941年)11月26日に千島列島の択捉島・単冠湾を出発した空母「赤城」を旗艦とし、「加賀」、「飛龍」、「蒼龍」、「翔鶴」、「瑞鶴」という計6隻の空母から編成されている第1航空艦隊(指令官:南雲忠一中将)は、北緯43度という「吠える海」を東進し、12月1日に日付変更線を越えています。

 このときに、開戦日が12月8日(ハワイ時間では7日の日曜日)に決まったと伝えられ、そのまま「吠える海」を東進して、アメリカに気づかれることなく、ハワイの北の海域まで到達していますが、開戦が回避された場合は日付変更線付近から戻る計画でした。

 北緯40度以北の北太平洋の12月は、強い西風が吹く「吠える海」です。暴風が常に吹き荒れて波が高く、貨客船などの一般船舶が全く通らないことから、千島列島からハワイの北方海上まで、アメリカ側に艦隊が発見される可能性はほとんどなく、かつ、艦隊が無事に航行できるギリギリの荒れかたの海です。

 真珠湾攻撃の立案は、神戸にあった海洋気象台(現在の神戸地方気象台)が、大正12年(1923年)1月1日から作成している毎日の北太平洋天気図からの知見をもとに作られました。

 北太平洋天気図は、世界初の広域天気図でしたが、現在のように、船舶から無線で即時的に気象情報を集めることはできず、船舶が日本の港についてから海上気象報告を受け取って作成されました。

 このため、作成に半年以上かかっていましたが、アメリカを凌ぐ太平洋に関する気象・海象知識が使われての作戦でした。

 空母「赤城」の海と空の観測記録を見ると、北緯43度線に沿って日付変更線を越えて東へ進み、5日からは図1のような高層気象観測をしながらハワイ諸島に向かっています。

図1 真珠湾攻撃時に行われた空母「赤城」の高層気象観測
図1 真珠湾攻撃時に行われた空母「赤城」の高層気象観測

 図1の時刻は日本時間ですが、19時30分を引くとハワイ時間になります。

 空母「赤城」の観測結果によると、北緯30度以北では、2000メートル付近まで西よりの風が吹いていますが、北緯25度付近の攻撃隊を発進させた海域では、発進の半日前、直前、直後の3回の観測とも、2000メートルまで、毎秒10メートル以上の東風が吹いています。

 真珠湾攻撃時の空母「赤城」では、通常使う風船よりやや大きめの85.5グラムの風船を用い、通常の上昇速度よりやや早い1分間に250メートルという上昇速度になるように水素をつめています。早く観測を終えるための工夫と思います。

 そして、この方法で観測ができるのは気球が見えなくなるまで(雲に入るまで)です。

 12月7日23時05分の空母「赤城」の高層気象観測では、高さが2キロメートルまで観測したあとに雲の中に入り、観測は終わっています(図2)。

図2 「赤城」の昭和16年12月7日23時05分の高層気象記録
図2 「赤城」の昭和16年12月7日23時05分の高層気象記録

 気球に発信機をつけ、観測データを無線で得るという、現在使われているラジオゾンデという新しい技術は既に完成していました。

 この新しい方法なら、雲があっても高いところまで観測が可能ですが、アメリカに日本の連合艦隊の所在を知られてしまう可能性があり、あえて新しい技術は使わなかったと思います。

 筆者は、平成11年(1999年)にNHK番組「戦争と気象・真珠湾」に取材協力をしたことがありましたが、このとき、NHKでは真珠湾攻撃に参加した空母「赤城」の乗組員をさがしだしています。

 真珠湾攻撃の58年後ですから、80歳以上でしょうか、その人が次の証言をしています。

 「風船をあげているので、不思議に思って何をしているのかと聞いたら、上空の風を測っていると言っていた。」

 よほど印象に残ったできごとだったのではないかと思います。

開戦日の決定

 昭和16年(1941年)7月末、アメリカとイギリスは対日資産の凍結を行い、石油の全面禁輸などを実施しています。

 このため、自存を脅かされた日本は、9月6日の御前会議(天皇臨席の下に行われる重要国政の会議)で、戦争を辞せざる決意のもとに10月下旬までに戦争準備をするとしていますが、和平の可能性を探っています。

 戦争を決意したのは11月5日の御前会議とされていますが、対米交渉の期限を12月1日0時まで延長し、このときも和平に望みを残しています。

 しかし、11月26日にアメリカが提示した「ハルノート」は、従来の交渉を一切ご破算とし、満州事変以前の状態に戻れとする最後通牒というべきものでした。

 このため、12月1日の御前会議においてアメリカ・イギリス等との開戦聖断があり、開戦が決まっています。

 海軍がハワイ真珠湾のアメリカ艦隊を攻撃し、同時に陸軍がマレー半島を植民地支配していたイギリス軍を攻撃する計画でしたが、どちらも作戦遂行上、気象が重要な決定要素でした。

 ともに、作戦遂行が可能な日として決まったのが12月8日で、戦闘部隊への連絡は12月2日に「ヒノデはヤマガタ」と打電されました。

 「ヒノデ」は開戦日、「ヤマガタ」は数字の8を示す暗号です。

 昭和61年(1986年)に刊行した「陸軍気象史(編者:中川勇)」によると、開戦日を決めた理由は次のようになります(筆者要約)。

・ガソリンなどの物的国力が枯渇しつつあり、許される限度は昭和17年(1942年)3月。

・彼我の戦力比の推移から、物的国力枯渇後は成功の目途を失う。

・アメリカやイギリスの戦争準備の速度からして開戦は早いほど有利。

・ソビエト連邦(現在のロシア)の動きを封じる上からいっても、冬の間に南方を攻略するのが望ましい。

・真珠湾攻撃をするさいの海洋の状況は、1月以降著しく不利になる。

・マレー半島近海の風と波の状態は、本格的な北東季節風の季節に入る1~2月はマレー半島上陸作戦に不利である。

・開戦の第一日は下限の月を利用するのが有利。

・奇襲のため日曜日を選ぶを可とする。

気象台の技術者活用

 昭和16年(1941年)7月20日の閣議において、陸海軍大臣の中央気象台長に対する軍事関係の指揮、中央気象台長の朝鮮・台湾各総督府気象台長、関東気象台長、樺太庁気象台長及び南洋庁気象台長に対する一部指揮が決まっています。

 これによって、昭和初期からギクシャクしていた気象台と陸海軍の関係が協力体制に入っています。

 戦争遂行のための気象判断は、高度の技術と経験を必要としたため、陸海軍ともに、気象台の技術者を活用していました。

 藤原咲平中央気象台長が大本営陸軍部に嘱託として入り、西村伝三台湾総督府気象台長が仏印(フランス領インドシナ)の第25軍司令部に入り、10月上旬にサイゴンに派遣されています。

 その後、満州の航空兵団には和達清夫・大阪管区気象台長、仏印(べトナム)の第25軍司令部には西村伝三・台湾総督府気象台長に加え、堀口由巳・神戸海洋気象台長という気象台のトップレベルの技術者が派遣されています。

 開戦の日については、昭和16年(1941年)11月20日に、藤原咲平中央気象台長と西村伝三台湾総督府気象台長、陸軍の日下部文雄技術少佐に対し、開戦日に関する長期予報が特命されています。

 現在でも、日々の天気予報ができるのは10日間位というのに、これ以上の長い期間の予報をせよというムチャな特命です。

 ハワイ周辺はアメリカが長年にわたって気象観測を行っており、似たような晴天が続くことが多いことから、長期間の予報も比較的簡単でした。

 しかし、マレー半島周辺は観測データも少なく、長期間の予報として使えたのは、急遽集めた資料から得た次のような原則でした。

マレー半島の気象

●マレー半島東岸からフィリピンにかけての悪天の主な要因は、大陸の高気圧より吹き出す寒気の突入であるので、大陸高気圧の消長はマレー半島からフィリピンの気象と直接密接なる関係がある。

●大陸高気圧の消長は12月上旬には概ね規則正しい変動をするが、12月中旬以降は変動が不規則になるので、周期を発見して予報に利用できる。

●ハノイにおいて気圧が一番高くなったときにマレー半島で雨天、最低のときには一般に晴天。

●ハノイにおける気圧変化は、12月中旬までは概ね4~5日、あるいはこの倍の10日。

●ハノイとサイゴンの間の気圧差と季節風の強度には相関がある。

●毎年11月末頃に台風の発生があるが、パラオで気圧が比較的急に下がるときは台風発生を暗示している。

 日下部技術少佐と西村伝三台湾総督府気象台長は、マレー半島周辺の難しい気象予報を、11月25日以降、苦労しながら毎日行っています。

 表1は12月1日に作成された予報ですが、これを受けた、サイゴンの南方軍情報所は、幕僚会議で検討の結果、「天候の関係からすれば、12月7日が作戦に適しているものの、8日でも可」という判断を上部機関に送っています。

表1 昭和16年(1941年)12月1日にサイゴンで作成されたマレー半島の長期予報
表1 昭和16年(1941年)12月1日にサイゴンで作成されたマレー半島の長期予報

 一方、東京においては、12月2日12時に、藤原咲平中央気象台長がマレー半島とフィリピンの天気予報についての判断を大本営に提供しています(表2)。

表2 藤原咲平中央気象台長が大本営に提出した判断
表2 藤原咲平中央気象台長が大本営に提出した判断

 作戦の発動は、12月1日に発令されていましたが、これらの予報を受け、2日に改めて上奏され、開戦日は12月8日と決定されました。

 サイゴンで行われていた長期予報は、目的を達したことから、12月1日の報告をもって中止となりました。

予報通りのマレー半島周辺の天気

 昭和16年(1941年)12月2~6日の中国南部からインドシナ半島にかけては、優勢な高気圧が張り出してきたために悪天候となっています(図3)。

図3 仏印方面天気図(昭和16年(1941年)12月5日6時)
図3 仏印方面天気図(昭和16年(1941年)12月5日6時)

 予報通りの悪天候でしたが、開戦日までに航空機を目的地に移動させようとするあせりから、開戦前の無理した悪天候中の飛行などで44機を失っています。

 12月8日の天気は、予報された通りの推移でした。

 「8日0時、マレーの上陸地点付近は晴れ、上陸援護の飛行は可能」との予報も的中し、海南島の三亜を12月4日に出発し、7日に分岐点に達していた第25軍の第一次上陸部隊は、分散して予定通りの上陸作戦が行われました(図4)。

図4 マレー上陸船団航路
図4 マレー上陸船団航路

 そして、8日夕刻襲来した局地的なにわか雨によって飛行場がぬかるみ、多くの飛行機が発進できなくなって上空支援の継続が困難となった、というのも予報通りでした。

 戦争と気象には密接な関係があるため、戦争が始まると気象情報が一般向けに発表されなくなります。

 いつでも、どこでも、気象情報が入手できるのは、平和な証です。

図1、図2の出典:饒村曜(平成9年(1997年))、空母「赤城」の高層気象観測、雑誌「気象」、日本気象協会。

図3、図4、表1、表2の出典:「中川勇編著(昭和61年(1986年))、陸軍気象史、陸軍気象戦友会協議会・陸軍気象史刊行会」をもとに筆者作成。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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