関東大震災や伊勢湾台風、阪神・淡路大震災が発生したイノシシ年
亥年は固まる?
米相場が始まった昔から、「命金には手をつけるな」など、株式投資の心構えなどを格言という形で残されているものが数多くあります。
これとは別に、不確実性の多い世界で、干支とのからみなどで、なんとか手がかりを求めるという格言もあります。
子(ねずみ)繁栄、丑(うし)つまずき、寅(とら)千里を走る、卯(う)はねる、辰巳(たつみ)天井、午(うま)尻下がり、未(ひつじ)辛抱、申酉(さるとり)騒ぐ、戌(いぬ)笑う、亥(いのしし)固まる
東京証券取引所は、平成30年(2018年)12月28日に大納会を迎え、日経平均株価は2万円を維持しましたが、昨年末の終値を7年ぶりに下回り、「戌笑う」とはいかなかったようです。
平成最後の年、平成31年(2019年)は、「亥年は固まる」、株式相場に大きな変化がない年とされています。
ただ、亥年は固まるどころか、関東大震災、伊勢湾台風、阪神・淡路大震災と、大災害が発生した年です。
関東大震災
大正12年(1923年)9月1日11時58分に相模湾北部で発生したマグニチュード7.9の地震は、昼食時であったために、家屋の倒壊などで多数の場所から出火し、火災による被害がきわだっていました。この大災害は関東大震災と呼ばれ、死者14万人のの約90%が焼死者であったといわれています。
大正12年9月1日の天気図をみると、岐阜県北部(能登半島の南)に中心気圧が997ヘクトパスカル(当時の気圧の単位では、水銀柱748ミリ)の台風があり、関東地方では等圧線の混みぐあいから、毎秒10メートル以上という強風が吹いていることを示しています(図1)。
この台風は、8月27日に沖縄本島と石垣島の間の海域で確認され、30日夜に九州南部に上陸、瀬戸内海を通ってきたもので、9月2日には北海道東部に達しています。
台風の進行に伴って風向が変わり、地震によって発生した火災は、最初は南風にのって北に広がりましたが、のちの北風によって延焼域の広がりが止まっています。
伊勢湾台風
「防災の日」が作られたのは、昭和35年6月17日の閣議了解事項としてですが、この直接のきっかけとなったのは、前年9月の伊勢湾台風です。死者・行方不明者5000人以上という大災害となった伊勢湾台風の教訓は、以後のいろいろな防災対策に生かされてきましたが、その1つがこの「防災の日」の設置です。
図2は、伊勢湾台風襲来時の予報(当時は扇形表示)をもとに、予報円と暴風警戒域を用いた現在の表示方法で表示したものです。
当時の進路予報は、24時間先までしか行われていないとはいえ、割合正確です。
しかし、5000人を超える死者が出る大災害が発生ました。
阪神・淡路大震災
平成7年(1995年)1月17日5時46分に発生した兵庫南部地震は、神戸市と淡路島を中心に死者が6000人を超える甚大な被害が発生しています(図3)。
このため、震災名は、「阪神・淡路大震災」です。
兵庫県南部地震が発生したとき、私は、神戸海洋気象台(現在の神戸地方気象台)の予報課長をしていました。
当時、神戸海洋気象台では、非常時には直ちに台長を本部長とする非常対策本部を設置し、総務課長と予報課長が自動的に副本部長につくことになっていました。
非常対策本部長(台長)から副本部長の私(予報課長)に、予報や観測の当番のことは任せると言われたこともあり、安否確認と同時に、急いで駆けつけようとする職員に無理をして出勤しないように指示をだしました。
調査業務や報告業務といった仕事を全て後回しにすれば、すでに駆けつけて来ている応援者だけでも、なんとか24時間先までの気象や地震の観測、天気予報や注意報の作成・発表といった現業業務を続けられると思ったからです。
また、家の中を早く片付け、生活できる状況を作って、明日以後に出勤してくれたほうが、夜勤に続けて仕事をしている当番者や、家の中をほったらかしにして駆けつけてくれた応援者をいったん帰すことができると思ったからです。
明日以降も現業勤務を続けるためには、全ての当番者を今の時点で集めない方が良いと判断しました。
これらのことを考慮しながら、1月17日の日勤と夜勤の当番を組み替えました。
しかし、兵庫県南部地震の状況が分かるにつれ、最初に思っていた以上に大変な事態に陥っていました。
神戸と大阪を結ぶ新幹線や3本の鉄道(北から阪急、JR、阪神)は、地震によって全て不通となりましたが、その復旧の見込みは全くたっていませんでした。
また、道路上に壊れた家屋等が散乱したことにより、通行可能な道路が極端に少なくなり、その少なくなった通行可能な道路に多くの車が殺到したため、大渋滞を引き起こし、18日以降は車での移動が不可能になっています。
大阪管区気象台では、地震が発生すると直ちに神戸海洋気象台で観測を継続するために必要な機器などを積んだ支援の車を用意すると同時に、その間運転者を休ませています。そして、夕方から夜を徹して神戸に車を走らせています。
普段なら、車を使うと1時間ほどで到着する距離でしたが、この時は、10倍の10時間で神戸海洋気象台に到着しています。もう少しあとの出発なら、何倍の時間をかけても到達できないという渋滞に巻き込まれたと思います。
図1、図3の出典:饒村曜(平成8年(1996年))、防災担当者の見た阪神・淡路大震災、日本気象協会
図2の出典:饒村曜(平成5年(1993年))、台風物語、日本気象協会。
表の出典:理科年表(丸善)をもとに著者作成。