水害のイメージが強いカスリーン台風、実は土砂災害で多数の死者
第43気象隊
昭和20年(1945年)8月15日の終戦以降、日本の気象事業は連合軍司令部の管理を受けるようになります。具体的には、昭和20年(1945年)10月以降、連合軍司令部(GHQ)から矢継ぎ早に指令が出され、細部まで管理されています。
昭和22年(1947年)5月31日の第43気象隊司令部覚書(WEAC 00092 CMO)では、中央気象台が発表する台風予報や情報は、全て、第43気象隊の発表する台風予報と一致させられています。このため、台風には第43気象隊が使っている女性名がつけられました。
そして、昭和22年(1947年)9月8日に、マリアナ諸島の東の海上で発生した台風は、「カスリーン台風」と命名され、台風の女性名を一躍有名にしました(図1)。
米軍の覚書では、英語表記ですので、これを日本語に訳すときに、いろいろな呼び方がされました。例えば、Kathleenは、カザリン、キャスリーン、キャサリン、カスリン、カスリーン等です。人によって日本語表記が違うことが問題となり、気象庁では、昭和24年(1949年)8月17日に台風の名前の日本語訳を決め、通達をだしています。この通達により、Kathleen台風は、カスリーン台風という呼び名に統一されています。
日本が独立し、戦後の連合軍進駐体制が終った昭和28年以後は、台風に対して台風番号が付けられるようになりましたが、今でも船舶向けの予報など特別な予報では、名前が使われています。ただ、台風の名前は、アメリカ軍が命名した女性名ではなく、台風被害を受けているアジア14カ国・地域が提案して作成した台風のアジア名のリストによって名付けられています。
カスリーン台風
昭和22年(1947年)の関東地方は、早ばつで被害がで始め、各地の雷をまつる神社では雷雨を望む祈祷が行われたりしていました。
雨が望まれていた9月8日、マリアナ諸島の東の海上で台風が発生し、「カスリーン(Kathleen)」と名付けられました。14日には中心気圧960ヘクトパスカル、最大風速45メートルまで発達し、その後衰えながら北上して房総半島をかすめて三陸沖に進んでいます(図2)。
カスリーン台風は、上陸はせず、台風による風は、山岳を除いて20メートル止まりでしたが、停滞していた前線を刺激したため、13日から16日にかけて、関東地方の西部および北部の山地で記録的な豪雨となっています。
総雨量は山沿いを中心に400ミリを超え、秩父では600ミリを超えています。埼玉県秩父と群馬県前橋の日降水量の記録は、現在でも2位以下を大きく引き離しての1位という記録的な雨です(表1)。
このため、多くの河川が氾濫し、堤防が決壊して大きな水害が発生していますが、中でも利根川堤防の決壊が、記録的な大水害を発生させました。
利根川堤防の決壊
関東平野のほぼ中央部を北西から南東に流れる利根川は、徳川家康の江戸入り直後に展開された東遷事業で、これまで江戸湾に注いでいた流路を、栗橋付近から銚子方面に変えています。
この利根川の堤防が,16日1時頃の埼玉県北埼玉郡東村(現在の大利根町)栗橋付近で決壊しました。
江戸時代から「ここが切れたら浅草の観音様の屋根まで水につかる」と言われ、堤防も利根川最大の8メートル50センチとしていちばん重点が置かれていた所での決壊でした。
ここから奔流する利根川の濁流は16日夜に白岡付近であふれてきた荒川の濁流と合流して勢いを増して旧利根川にそって南下し、東京と埼玉の県境の桜堤(現在の水元公園付近)でせきとめられて大きな沼が出現しました(図3)。
安井誠一郎東京都知事は内務省に働きかけ、桜堤の少し上流の江戸川右岸の堤防を爆破し、せきとめられた水を江戸川に流そうとしましたが、その作業中の19日2時すぎ、桜堤が決壊し、大量の濁流が葛飾区と江戸川区に流れ込んでいます(図3)。
さらに、中川右岸の堤防も亀有付近で決壊し、葛飾区ではほぼ100%、江戸川区では67%、足立区では11%が被災者になるという水害が発生しました。
東京都は洪水が発生するまでの間に時間的余裕があったため、他県に比べて死者数は少なかったのですが、被災者数では圧倒的に多くなっています。
しかも、長く水が引かなかったため、深刻な影響が長く残っています。このため、カスリーン台風は東京の水害という強いイメージを作っています。
しかし、カスリーン台風の被害は水害によるものだけではありません。
カスリーン台風の死者
カスリーン台風の死者・行方不明者が一番多いのは、群馬県の708名で、これは山津波や山崩れといった土砂災害の死者がかなり含まれています。
群馬県の赤城山麓では、敷島村、富士見村、大胡町で死者271名、流失破壊家屋362棟等の被害が発生したという記録もあります。
また、埼玉県では、秩父地方を中心に509名が、栃木県でも437名が死亡したり、行方不明になっているのも、土砂災害によってです。
表2は、カスリーン台風の関東・東北・北海道の被害を「日本台風資料(昭和25年3月建設省河川局)」より著者が抜粋したものです。「日本台風資料」は、建設省(現在の国土交通省)河川局が刊行していますが、省庁の壁を越えて作られた資料です(その後、死者数等の見直しが行われていますので、数値が多少変わっています)。
つまり、カスリーン台風の死者の多くは、堤防決壊による大規模な水害によるものではなく、土砂災害によるものです。
災害拡大要因はカスリーン台風時に似ている
カスリーン台風で、災害が拡大した要因として、山間部を中心に雨量が異常に多かったことがあげられます。
このため、山間部で土砂災害が多発し、山間部に降った雨が平野部に流れ込んで大規模な水害が発生したのですが、被害、特に人的被害が拡大した原因の一つに、戦争のため山林の濫伐が進み山の保水力が少なくなっていたことが指摘されています。
また、堤防の手入れなどが行われていなかったことにとどまらず、食料増産のため、堤防が畑になり、堤防補強のために植えられていた樹木は燃料として切り倒された結果、災害に対して弱い場所が増えていました。
さらに、利根川の治水予算は、太平洋戦争の激化とともに大部分が削られ、山林の濫伐と手入れが不十分なために、山の保水力が低下し、土砂が川底にたまって洪水が起きやすくなっていました。
現在は、戦争の傷跡は残っていませんが、山間部を中心に過疎化が進み、山林の手入れが行われなくなっています。また、厳しい財政状況から、堤防などの防災のためのインフラについての補修が行われなくなっています。
加えて、地球温暖化が原因かどうかはともかく、異常に多い雨量を観測することが増えているという現実があります。
カスリーン台風の災害拡大は、戦後の特殊事情によるものと考えるわけにはゆきません。
林業従事者の減少や高齢化などという理由は違いますが、山林の荒廃が進んでいることについては、今と同じであるからです。
災害に強い国土を作るためには、堤防の強化などの洪水・浸水対策に加え、山林の荒廃を防ぐ対策が不可欠です。
その意味で、「カスリーン台風は、大きな水害をもたらしただけの台風ではなく、土砂災害で多くの人が亡くなった台風である」という認識をもち、大規模な水害と多発する土砂災害に対して、日頃からの備えが重要です。
図1、図2、図3、表1、表2の出典:饒村曜(平成9年(1997年))、カスリーン台風から50年、雑誌「気象」、日本気象協会。