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空路の難所でもあった箱根と三島支台

饒村曜気象予報士
箱根旧街道杉並木(ペイレスイメージズ/アフロ)

古来から箱根は「天下の険」として、江戸と京都・大阪を結ぶ東西交通の難所でした。

陸路の難所を無くした東海道線

 明治時代となり、飛躍的に伸びた東京と大阪間の人や物の交流は、大阪から横浜まで船を使い、横浜から新橋まで鉄道と、箱根を避けていました。

 明治22年(1889年)に東海道線が開通すると、箱根は難所ではなくなります。

 しかし、これは陸路での話です。

 大正末期から登場した東西を結ぶ空路にとって、箱根は最大の難所でした。

初期の飛行機

 大正末期から昭和初期にかけて、航空機の民間利用が実用化の兆しを受け、中央気象台(現在の気象庁)では、大正12年(1923年)3月に航空気象を業務に付け加えています。

 昭和初期の飛行機は、陸上の目標を見ながら飛行していました。

 高い高度を飛行する能力もありませんので、昼間に海岸線に治って飛行するというのが一般的でした。東京から西へ向かう場合、安全に飛行するなら伊豆半島を一周するという方怯もありましたが、時間と燃料を多く使います。

 そこで、箱根越えの飛行ルートが選択されるのですが、夏はほとんど毎日、冬でも3分の1は霧が出る場所です。

 安全に箱根の難所を越えることが大きな課題となり、昭和4年(1929年)10月に、静岡県三島市海平に箱根山測候所ができ、翌5年1月から観測を開始しています。箱根山測候所の場所は、芦ノ湖南東の神奈川県境に近い場所です(図)。

図 箱根山測候所の位置
図 箱根山測候所の位置

明治末期から昭和初期の気象機関は、国の機関として中央気象台があり、各県等の機関として測候所がありました。中央気象台は測候所の技術指導等を行っていましたが、国の組織と地方の組織に分かれていました。

飛行機の利用が進み、航空事業が軌道に乗り始めると、中央気象台は昭和5年8月25日に静岡県三島に三島支台を作り、箱根山測候所を下において、東京と大阪を結ぶ航空路の最大の難所である箱根越えに備えました。

三島支台と同時に誕生したのが大阪支台(現在の大阪管区気象台)と福岡支台(現在の福岡管区気象台)で、かなりの権限を持っていました。

それだけ、三島支台は、箱根越えの飛行機への支援が期待されたのです

。三島支台の建物は、鉄筋コンクリート2階建、玄関や窓にステンドグラス、大理石作りの階段があるなど、当時としては豪華な建物です。

昭和51年に大がかりな補修工事が行われ、窓のサッシ化に伴いステンドグラスは、玄関上部を除いて撤去されましたが、昭和57年に日本建築学会が選んだ「明治以降の名建築2000」に入っています。

それだけ、箱根を越えることは、大変なことだったのです。

飛行場に気象分室

昭和6年(1931年)8月に東京府荏原郡羽田村に羽田飛行場ができると中央気象台分室を設置し、その後、次々に飛行場に分室ができます。

 旅客輸送は絶対安全であることが求められますが、経済性・定時制や快適さも求められます。しかも、当時の飛行機は、全て有視界飛行で、気象条件に大きく左右されていたからです。

昭和10年11月20日付けの大阪朝日新聞には、「空の難所 箱根 無線で征服」という記事では、箱根無線局が羽田飛行場に通報していた三鳥支台と箱根山f候所が発表した航空気象を飛行機に伝えることが可能になったことや、既存の箱根連山5力所の航空灯台に加えて、東京へ向かう飛行機のために三島に大信号柱をたてる計画があることを伝えています。

航空灯台

航空機灯台は、夜間飛行をする航空機のために、昭和8年から本格的に整備されたもので、東京から福岡まで約20から40キロメートルごとに設置されました。

直径60センチのレンズを使い、電球の光を10キロメートル先まで届かせたと言われています。

飛行機の発達とともに、航空灯台の役目は終わりますが、航空灯台の場所は、見晴らしが良く、静岡県の十国峠等、人気の観光スポットになっているところもあります。

現在の行政区と昔の国境は違いますが、昔の国境にちなむ地名は各地にいろいろあります。

静岡県西南町の熱海市との境界付近に標高77Oメートルの日金山があり、頂上付近は、伊豆・相模・駿河・遠江・甲斐・安房・武蔵・上総・下総・信濃の十国を見ることができるので、十国峠と呼ばれています。ここの航空灯台は、富士山の絶景とともに近代化を象徴する名所として、絵はがきも作られていました。

飛行機の性能アップで、箱根は陸路の難所ではなくなり、三島支台の役目も終わりました。

三島支台は、三島測候所となり、現在は、三島特別地域観測所として無人の観測所になっています。

そして、建物と敷地の一部は三島市が取得しており、現在も当時の立派な施設を見ることができます。

図の出展:饒村曜(2010)、静岡の地震と気象のうんちく、静岡新聞社。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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