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流氷の恵み 北海道・襟裳岬の自然復活の仕上げは32年前の流氷

饒村曜気象予報士
襟裳岬・昆布漁(写真:アフロ)

網走地方気象台は3月18日に、オホーツク海の流氷が沿岸から離れ、船舶が航行できるようになった「海明け」が、平年より20日早い、2月28日だったと、21日後に発表しました。

「海明け」は、流氷が再接近する可能性が低いと判断した後に発表するもので、少しでも流氷が戻ってくる可能性があれば発表しないので、このように発表が遅れることがあるのです。

今年の流氷は平年並みの面積でしたが、南下させる北風が弱く、網走への接岸が2月22日と観測史上最も遅く、たった6日間しか接岸しませんでした。異例の短さです。

流氷の海は豊かな海

オホーツク海南部が一番低緯度に凍る海となっているのは、アムール川などから多量の真水が流れ込むため、海の表面の塩分濃度が薄いからです。しかし、このことは、アムール川などからリンなどが流れ込むために大量のプランクトンが発生している海でもあります。このため、プランクトンを食べる魚達が集まり、世界有数の漁場となっています。

流氷の海は恵みの海なのです。

流氷に完全に閉ざされた期間は漁が行われませんが、流氷が沖合に去った直後も、流氷が風によって急激に移動するため危険回避で漁は行われていません。

毛ガニなどの春漁が行われるのは、海明け後からです。

オホーツク海の流氷は、毎年ではありませんが、寒気の南下が著しいと、2~3月にかけてオホーツク海から歯舞諸島付近を通って太平洋に流れ出すことがあります。

そして、思わぬ恵みをもたらすことがあります。

昭和59年の襟裳岬の流氷

昭和59年は、寒気の南下が著しく、流氷は2~3月にかけてオホーツク海から歯舞諸島付近を通って太平洋に流れ出しています。

3月20日には、北海道の襟裳岬の北東約40kmまで達した流氷は、3月23日になると本体は南東に移動したものの、その一部が襟裳岬の南に漂着しています(図)。

図 気象庁の発表した海氷情報(1984年3月20日と23日)
図 気象庁の発表した海氷情報(1984年3月20日と23日)

この漂着した流氷が沖合に去るとき、流氷が岩礁をこすり、襟裳岬付近の海底に蓄積していた土砂を沖合いに運び去るという、豊かな海が復活する大掃除をしています。

このため、「襟裳砂漠」という言葉が生まれるほど荒れ果てていた襟裳岬の緑化事業が始まった昭和20年代後半には70トンにすぎなかった年間漁獲高が、40年後の平成3年には2000トンを越えるまでに回復しています。

荒れはてていた襟裳岬の陸と海

明治時代まで、襟裳岬の沖合は、津軽海峡を通って東進してきた暖流と、千島列島の東を南下してきた寒流がぶつかることから、そこにある岩礁では良質の昆布がとれ、回遊魚や沿岸魚が多く生息し、海の幸に恵まれた土地でした。このため、昔からアイヌの人々が暮らし、本州の人々も豊かな海草や魚介類を求めて移り住んでいました。

しかし、襟裳岬に広がっていた柏や楢、楡などの広葉樹の原生林は、明治以降の急速に増えた移住者によって燃料のため、あるいは放牧地の開拓などのために伐採されています。そして、昭和に初めには砂漠化しています。

襟裳岬は、毎秒10メートルという強風が年間300日も吹く、全国有数の風が強い地域で、伐採などでまとまった裸地ができると強風で砂が舞い、植物の種は飛ばされて若木が育たなくなります。そして、裸地がどんどん広がるという悪循環が始まります。

草木の生えぬ赤土が続き、「襟裳砂漠」という言葉が生まれましたが、その影響は海にも及び、10キロメートルくらい沖合までの海に流入した土砂は、昆布などの海草類は生育に必要な岩礁を覆い、襟裳岬付近の回遊魚や沿岸魚を減少させています。加えて、昆布などを出荷前に干すときに飛び砂が付着するために市場価値が減るというダブルパンチをも受けています。

昭和28年から北海道営林局では襟裳岬緑化事業を始めていますが、この事業には、地元の漁民が雇われて、献身的に働いています。

しかし、強風に加え、夏は濃霧で日照時間が短いこと、冬は土壌凍結があることなどの悪条件があって、樹木はおろか、草をはやすだけでも昭和42年までかかっています。

しかし、草による緑化が終わった頃から海に流入する土砂が減り、海底に堆積していた土砂も一部は海流によって沖合へ流され、鮭などが少しづつ戻ってくるようになります。

昭和46年以降は、草地に黒松の苗木を植えるという本格的な緑化が始まり、不毛の海は豊な海にゆっくり変わっています。

そして、運命の昭和59年の流氷です。流氷が豊かな海への最後の仕上げをしたのです。

吉田拓郎の「襟裳の春は何もない春です」

吉田拓郎が昭和48年12月に初めて他ジャンルの歌手のために書いた曲「襟裳岬(歌:森進一、作詞:岡本おさみ、作曲:吉田拓郎)」では、「襟裳の春は何もない春です」というフレーズが繰り返しでてきます。

襟裳岬は、翌年の日本レコード大賞を受賞するなど大ヒットをしますが、「何もないような荒れた土地ではあるが人情がある春です」という意味の名曲は、継続されてきた植林事業と昭和59年の流氷によって書き直さなければならないほど、襟裳岬の状況は変わっています。

そして、襟裳岬は、襟裳岬という歌がヒットした頃から観光客は増え始め、平成3年にはNHKの番組(プロジェクトx)がきっかけで、緑化事業が再度注目されています。

図の出典:饒村曜(2012)、気象災害から学ぶ 流氷、近代消防、近代消防社。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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