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置き去りにされた旧東ドイツの子供達 ベルリンの壁崩壊が生んだ悲劇

シュピッツナーゲル典子在独ジャーナリスト
置き去りにされた子供達の悲劇は壁が崩壊した1989年11月9日から始まった

ベルリンの壁が1989年11月9日に崩壊して今年で31周年を迎えた。壁崩壊により東西間の検問所が開放し、東ドイツ市民が西側になだれ込んだ。

だが、自由を求めて西側へ行った旧東ドイツ人の喜びとは裏腹に、そこには知らざれる悲劇があった。親に置き去りにされた旧東側の子供達を追った。 

(トップ画像は、東西ドイツを分断していたベルリンの壁跡・イーストサイドギャラリーにて撮影・(c)norikospitznagel)

壁崩壊で始まった悲劇

毎年ベルリンの壁崩壊日の11月9日が近くなると、ドイツ各局のTV番組は、壁の歴史や満面の笑みを浮かべて西側へ流入する旧東側の人達、西ベルリン市民の出迎え、壁を乗り越える人達の歓喜シーンを繰り返し報道する。

しかし、世界を揺るがしたこの史実の陰に、その喜びを分かち合えない子供達がいた。彼らは、新天地西側へ自由を求めて行った親に置き去りにされ、悲劇が始まった。

奈落の底につき落とされた子供達を追ったドキュメンタリー番組「置き去りにされた(旧)東ドイツの子供達」は、1990年、1999年、2020年にMDR(中部ドイツ放送)で報道された。

壁崩壊を機会に親としての責任を放棄して西側へ移転した大人たち。一体何がそうさせたのか。憧れの西側での新生活の方が、自分の子供を育てることよりも魅力的だったのか。

置き去りにされた子供達

ベルリンの壁崩壊から30年以上過ぎ、かつて旧東ドイツに置き去りにされた子供達は、今何をして、どう過ごしているのだろうか。はっきり言えるのは、今も心に大きな傷を負っていることだ。

施設で過ごしていた当時の自分を初めて映像で知った人、母親になった人、トラウマに襲われ他人を信じることができなくなった人など、置き去りにされた子供の数だけストーリーもある。

壁崩壊から1990年までの1年間に、旧東側へ置き去りにされた子供達は数百人と推定される。児童養護施設(以下・施設)に入所した子供は、生活面でのサポートを受け、ある意味救われた。だが、なかにはアパートに置き去りにされ、食料も暖房もないまま餓死した子供もいた。

いらない子供をなぜ生んだ

1989年12月6日、ベルリンの施設に50人以上の身寄りのない子供達が預けられた。この日は聖ニコラウスの日。通常は家族が集まり、ニコラウスが子供達にプレゼントを渡す日。子供にとっては聖夜の24日と同様に毎年楽しみにしている日だ。だが施設に入った子供達は、事情も分からず、親族なしでその日を迎える羽目になった。

例えばステフェンさん(当時1歳)は、姉のカタリナさん(2歳)と共に、施設で生活を始めた。2人の母親は子供達を置いて1人で西側へ行った。カタリナさんは「ママはどこ?」と何度も聞いて泣き続け、うろたえていたと、施設のスタップは語る。

置き去りにされた子供達に気がついた祖母は、施設に通達し、孫たちを預かってもらった。母親は西側へ行ったばかりで、住民登録も済ませておらず、探すこともできない。その後、2人は養父母の下で育った。

今年、初めて1990年放映の映像に登場する自分の姿を見たカタリナさんは、怒りを抑えきれない。

当時をよく覚えていない。子供を育てる気持ちがないなら、なぜ生んだ?なぜ子供を捨てた?生みの母親とは一度も会っていないし、会いたくもない。幼少時代を破壊したエゴイスティックな母親の気持ちは全く理解できない。

現在5人の子供を持つ母親であるカタリナさんは、親の身勝手をこう非難する。

自分が母親となった今、なおさら子供を置き去りにするという親の惨い行為は許せない。最初の結婚では、一般家庭に育った夫と心が通じ合わず離婚した。人を信用できない、他人が近寄って来るだけで不安になる。いつも情緒不安定など、精神的なダメージは今も消えない。

その後、母親はバイエルン州のある病院の小児病棟で看護師として勤務していることが明らかになった。小児病棟とはなんと皮肉なことだろうか。病院の上司は、東側へ子供達を置き去りにしてきたことを知ると、母親を解雇したという。以後、母親の行方はわからない。

「ママは休暇でいない」と言われた

トーマスさん(当時5歳)は、壁崩壊後まもなくエアフルトの施設に入所した。その当時、彼は「ママは休暇でいない」と言われ、その言葉を信じて疑わなかった。

1990年のこのドキュメンタリー番組を目にしたトーマスさんの実父が連絡してきたことで、当時の事情が明らかになった。母親はアルコール依存症で、妊娠中も飲酒し続けた。その結果、トーマスさんは酸素欠乏で障害者として誕生したという。

トーマスさんが施設に入って数か月後、幸いなことに、養護学校勤務の女性シルビアさんが養母となった。

2度目に会った時、トーマスはママが来ると帰りを無心に待っていた。そんな姿を見て、自分が彼を育てようと決心した。

安定した家庭環境の養母にひきとられ、愛情をたっぷり注がれて育ったトーマスさん。実母に一度だけ電話をした。奨学金を受けるための手続きで必要な書類について問い合わせをした。その時の印象をトーマスさんはこう語った。

受話器の向こう側の母親の声は非社交的で冷たく、何の感情もわかなかった。こんな女性の下で子供時代を過ごさなくて本当に良かった。

「生みの母親が戻ってこないことを理解していたか」という問いに、トーマスさんはこう語った。

子供の頃のことは、はっきり覚えていない。今回(2020年)映像を見て、感情がこみ上げた。初めて何があったのかを知り、休暇で出かけたというのはうそだったと分かった。

1999年に放映された2回目のドキュメンタリー番組で取材を受けたトーマスさん(当時16歳)は、シルビアさんに絶大な信頼を寄せ感謝していた。

実の母親と思っている、なんでも話せる。施設の子供が養父母の下で育つのは稀なこと。本当に自分はラッキーだった。もし生みの母親と会うことがあったとしたら、殴りつけてやりたい。

現在トーマスさんは、依存症患者のセラピストとしてメンタルヘルスサポートをするため勉学中だ。かつて自身が置き去りにされたこと、そして彼を救ってくれたシルビアさんへの思いが背景にあるのだろうか、「過酷な運命に苦しむ人たちを支援したい」という。そしてふたりの娘の父親として、夫として家族と共に幸福な生活を送っている。

「反抗期は大変だったが、こうして自分の進む道を探しだし何より。理解ある妻に恵まれてトーマスは本当にラッキーだった」とシルビアさん。

最後に語ったトーマスさんの言葉に、シルビアさんは涙した。

今こうしてここに自分がいるのは、すべて養母のおかげ。養母に出会えたことは僕の人生で最高の幸運だった。現在は養子縁組の手続きをとり、実の親子となった。万が一、母親に介護が必要になったら、今度は自分が実の息子として介護を支えたい。

トーマスさんの生みの母親は、障害が悪化するのではと先行きを恐れて、息子を施設に預けることにした。だがエアフルトの施設にやってきたのは、母親でなく、ボーイフレンドだった。

男性は5歳のトーマスさんを施設に預け出て行った。そして母親はボーイフレンドと一緒に西側へ行き、新生活を始めた。かつて施設のスタッフはママを待ち続けるトーマスさんを見るに見かねて、「ママは休暇でいない」と苦しまぎれのウソをついた。今、トーマスさんはこの事実を全て知っている。

アパートに置き去りにされた3人の子供達

旧東ベルリン在住の女性は、3人の子供マーク(8歳)スティーブ(5歳)マルティン(3歳)を持つシングルマザー。日中は生活費を稼ぐため不在がちだった。

ある日長男は、母に「食べるものがない」と伝えた。すると母親は、翌日の朝食用のパンを戸棚に入れ、夜中11時半ごろに出かけて行った。「また帰って来るから、そしてお土産持ってくるから」と言い残したが家に戻ることはなかった。長男によると、母親は西側の自由な生活にあこがれていたそうだ。

子供達が警察に発見されたのは壁崩壊から数日後。その間、いったい何日三人だけで過ごしていたかは不明だ。食べるものもなかったと思われる。次男は皮膚病と下痢、その後三男が下痢に苦しみ、入院した。回復後、長男のいるベルリンの施設で3人一緒に生活するようになった。

長男は弟たちに責任を感じ、色々案じていたようだ。母親は見つかっておらず、3人は施設で1年間過ごしていた頃のことだ。

母親へ手紙を書き、電話もしたいが、住所も電話番号もわからず、どうしたらいいのか困っている。夜になるとママを思いだす。ママが恋しい。

次男は「母親は西ベルリンにいる、もう戻ってこない。僕は一人ぽっち」とつぶやいた。三男は、洗面所で2歳上の兄(次男)にあうのが1日の楽しみだった。年齢別に住む部屋が違い、別の階に住んでいたからだ。

長男はなかなか眠れない夜を過ごしていた。「どうしてママはいなくなったの」と、見つかるはずのない答えを探していた。

宿題をしない子はいらない

赤ん坊の時に養子となったアンドレアスさん(12歳)は、旧東側で母親と弟の3人暮らしだった。壁崩壊で母と弟は西側へ向かったが、彼だけ置き去りにされた。

エアフルトの施設で生活するアンドレアスさんの様子は、1990年に放映された。

施設の生活は快適、友達も見つけた。でも、ものを盗んだり、壊したりする子がいるのは嫌だ。なぜママは僕を一人だけ置き去りにしたのかわからない。毎日考えて、その答えを探している。ママのしたこと(置き去りにしたこと)は正しかったのか。

母親が君を迎えに来ると思う?の質問に、アンドレアスさんは涙を流すだけで無言だった。

その後、東西ドイツの協働作業で、母はニーダーザクセン州ツェレで弟と生活していることが判明した。ドキュメンタリー番組のプロデュ―サーは、アンドレアスさんを母親の元へ連れて行くつもりだったが、母親は受け入れを拒否した。

だがインタビューには応じてくれたため、ツェレへ向かった。当日、母親にエアフルトの施設で過ごすアンドレアスさんの映像を見せると、隣に座っていた弟が泣き崩れた。一方、母親は涙ながらに訴えるアンドレアスさんの映像を見ても、無表情でびくともしなかった。

アンドレアスさんを引き取りに東側へ行きますかという問いに、母親は次のように答えた。

アンドレアスを引き取りにはいかない。なぜ置いてきたか、本人が一番よく知っているはず。彼は昔、母の私に会いたくないと言った。だから私も会いたくないし、エアフルトへ出向いて会うつもりもない。彼は手のかかる子供だった。幼稚園の頃から、反抗して言うことを聞かなかった。学校に入ってからは宿題もしなかった。勉強しなさいと言っても口答えばかりで、『何も言う必要はない』と、母親の私を突き放した。

宿題をしなかったから、制裁として置き去りにした?当時その場にいた、プロデュ―サーとカメラマン、音声担当者は母親の冷酷さに言葉もなかった。

インタビュー後、なぜか母親も涙した。それは後悔の涙なのか自分自身への哀れみの涙なのかはわからない。アンドレアスさんの夢「母と弟と一緒に住む」は、ここで途絶えた。

アンドレアスさんは、16歳で母親と弟の住むツェレ近郊の少年保護所へ入った。そこで生活し、家具職人になるつもりで3年間修業したが、職は見つからず不運な日々を過ごしていた。

1999年の映像で、アンドレアスさん(22歳)は、施設での生活について本音を明らかにした。

1人でよく泣いた。施設でいじめにあった。母親に何度も手紙やはがきを送ったが返事は一回もなかった。それで母は自分を必要としていないと悟った。弟に会えなくてさみしい。せめて弟に会いたかったが、母親は禁じた。なぜなのかわからない。

母親はその後、他界した。

今、アンドレアスさんはどこへ行ったのか不明でコンタクトがとれないままだ。自分の人生をコントロールして、平穏な生活を送っていることを祈るばかりだ。

一体何人の子供が置き去りにされたのか

旧東側へ置き去りにされた子供が一体どのくらいなのか知る術もない。正確な統計もない。これまで紹介した例は、氷山の一角で一体何人の子供達が今も心に傷を負って生活しているのかはわからない。1990年に放映された番組で登場した子供達を紹介しよう。

マークさん(当時2歳)もその一人だ。母親は彼を置き去りにして身内の大人3人と共に西側へ行ったまま、音沙汰なしだ。

16歳の双子ヱンリコさんとスウェンさんの母親は、壁崩壊のニュースを聞き、「国境がどうなっているのかちょっと見てくる」と言って出て行ったきり、戻ってくることはなかった。

ふたりの心の傷は深い。

母親が帰って来ることは期待していない。自分が住みたくなかった東側に自分の子供を置いて西側へいった。理解できない。なんとひどいことをしたのか。もし母親が自分たちの元へ戻り、一緒に生活しようと提案しても、ここ(施設)に残る。

エアフルトの施設で160人の児童と生活するマニュエラさん(14歳)。父親は半年前、ガールフレンドと突然いなくなった。父親を今でも愛しているが、彼を許せないという。

マニュエラさんは西側で生活する父から一度だけ手紙をもらった。謝罪もいなくなった理由も書いてなかった。また東側を訪問する、その時には知らせると書いてあったが、連絡はないままだ。手紙に書かれたことが嘘だった娘のショックは大きい。

セバスチャンさんも同じく、母親が出かけたまま戻ってこなかった。万が一会うチャンスがあったとしても、「もとに戻ること(関係修復)はできない。会いたくないし、母を憎んでいる」と語る。

いまだに知られていない悲劇のドラマは数え切れないほどある。

寒さと飢えで命を絶たれた子供

1990年1月ザクセン州の女性刑務所。入所している殺人犯100人のうち80人が自分の子供を殺害した刑を受け、ここで生活していた。

その中の一人、ある女性は、壁崩壊直前の11月8日、子供を置き去りにして家を出た。11月30日に自分の荷物を取りに、再びアパートへ戻った。その間3週間ほど、子供は置き去りにされた。

水とパンを置いて家を出た。室内はとても寒かったので、飢えと寒さで餓死したのだと思う。子供の様子は見たくなかったので子供部屋へは行かなかった。自分の荷物をまとめて急いで家を出た。だが意図的に殺すつもりはなかった。その後、自分の命を絶つつもりだった。

最初の夫は暴力をふるい、酒癖が悪くて離婚した。だが経済的な理由からしばらく元夫と一緒に暮らした。その時も暴力を受けた。娘が泣いてうるさいと言われ、子供の世話をするために仕事をやめた。3か月後にアパートも見つかり、自立し職業につくつもりだった。だが、再び妊娠していることを知った。元夫も当時のボーイフレンドも自分を支えてくれなかった。そのため失望落胆し、娘を置いて家を出た。

生活に精一杯のシングルマザーが多かった旧東側での悲劇は後を絶たない。子供を置き去りにする親、子供を殺害する親、一緒に死のうと思い、母親だけ生き残ったなど、それぞれ事情は異なるが、途方に暮れてしまい犯した罪の数々。

旧東側で起きた子供の殺害は法律制度により、共同責任が存在しなかった。つまり、女性が殺害に至るまでの経緯でどんなことがあったのかは問われなかった。そして子供の殺人者はそのほとんどが終身刑を課された。

同刑務所の所長は、刑を受ける女性たちの事情を知っているだけに、複雑な気持ちだ。

母親が子供の殺人に至るまでのプロセスを解明し、父親の責任も問うべきだ。

歴史の証言者たち

旧東側の街エアフルトの乳幼児施設長だったクリスティーナ・ブランドさんは、当時を振り返り語った。

壁崩壊直後に預けられた子供は12人。親は子供を残して西側へ行ったと知り、スタッフと共に唖然とした。あの頃エアフルトだけでも置き去りにされて施設に入った子供は50人以上。そして旧東側で置き去りにされた子供は数百人に上ると思う。

エアフルトの他の施設には、学校に通う子供も多くいた。来週ひきとりに来るからと子供を預けた親もいたが、再び現れることはなかった。

クリスティーナさんは1990年、東西ドイツの政治家に、「子供達を助けるために動いてほしい」と訴えた。

そして30年後の今年、クリスティーナさんは再び当時の子供達の悲惨さを語った。

自由を求めて憧れの西側へ移転した親たちは、子供のことは微塵なりとも考えなかった。いったいどういった神経の持ち主なのか、理解に苦しむ。

時には西側で児童手当金を受給する親もいた。母親の身分証明書に子供の名前が記載されていたから。そのお金(児童手当金)で子供を迎えに行くこともせず、西側で過ごす親は、何らかの形で処罰を受けるべき。

1990年と1999年の2回にわたり、このドキュメンタリー番組を制作したプロデューサーのエバハルト・ウァイスバルト氏は、過去の映像を見ながら、涙した。

なぜ番組を制作したのかという質問に、同氏はこう答えた。

「置き去りにされた子供達」については、壁崩壊直後に雑誌やTV番組で知った。非常に驚くと同時に、心の琴線に触れた。実は自分も施設出身。西ベルリンの施設だったため、旧東側とは事情が異なるが、それでもこのテーマは自分が引き続き追跡したいと思った。

それまで映像番組制作を何本も手がけていた同氏は、「喜ぶべき壁崩壊により、悲劇が始まった子供達を紹介し、真相を伝えたい」と、番組制作を決心した。

今も、両親がどこにいて何をしているのか把握できない旧東出身の子供達を知るにつけ、「胸が痛み、魂が揺さぶられる思いだった」と明かした。2020年11月10日に放映された映像でのインタビューでウァイスバルト氏は、当時の思いが蘇り、言葉に詰まった。

施設を訪問して目にした光景は悲惨なものだった。子供達はなぜ、そしてどうして施設にいるのかわからず、トラウマ状態に陥っていることはひと目見て分かった。それまで当たり前だった生活が一変し、夜寝る前に抱きしめてくれた親はいない。朝起きてのキスも頬ずりもなくなった。両親の温かみや守られているという安心感は壁崩壊とともに崩れ去ってしまった。

子供を置いて西側へ移転した親は、自身の子供に致命的な精神的ダメージを与えた罪を犯したことを理解していない。親はまるでごみのように子供達を捨てて行った。新生活の基盤を確立した後、子供を迎えに行くという気持ちなど全くなかったのだろう。

なかでもウァイスバルト氏の頭から離れないのはアンドレアスさんだ。

母親の冷たい言葉には怒りで震えた。殴りたかったが、さすがにそれはできなかった。それでも感情を抑えきれず、大声を張り上げてしまった。なんて冷酷な母親なんだろうと。

同氏も児童手当を引き続き受け取る親を非難した。

子供達は祖父母や叔母の下で生活しているから一緒にいない、そんなウソをついてお金をもらう親がいた。なかには、子供を理由に社会福祉事務員から(東西)統合手当として6000マルク調達した親もいた。これは正当な犯罪だ。そんな人たちは罰せられるべきだ。

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置き去りにされた子供達の深い傷跡は、時間が経過しても拭い去ることができない。ベルリンの壁崩壊で始まった悲劇は、今も当事者の人生に大きな影を落としている。

在独ジャーナリスト

ビジネス、社会・医療・教育・書籍業界・文化や旅をテーマに欧州の情報を発信中。TV 番組制作や独市場調査のリサーチ・コーディネート、展覧会や都市計画視察の企画及び通訳を手がける。ドイツ文化事典(丸善出版)国際ジャーナリスト連盟会員

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