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ベルリン壁崩壊25周年レポート    東西ドイツ統合への長い道のり

シュピッツナーゲル典子在独ジャーナリスト
東西分断した境界線に設置されたLEDバルーンが夜空に放たれた

東西冷戦の象徴だったベルリンの壁は1989年11月9日に開放され、今年は壁崩壊25周年を迎えた。壁記念センターを訪問したメルケル首相は、「壁崩壊は、夢が実現することを実証した」と語った。

世界中が注目した壁崩壊25周年を祝うハイライトのひとつは、11月9日19時より開始されたLEDバルーン8000個が次から次へと放たれた瞬間だ。

東西統合から4半世紀たった今、首都ベルリンは歴史や文化、観光のメッカとして世界中の注目を浴びている。一方、市民の意識は、その後、どのように変わったのだろうか。

28年存在した「ベルリンの壁」 建設から崩壊まで

ベルリンの壁に関する文書や映像、歴史を詳しく展示しているベルリン壁資料センター(Gedenkstaette Berliner Mauer)に出向き、館長アクセル・クラウスマイヤー氏(Prof.Dr.Axel Klausmeier)の説明を伺った。 

ベルリンの壁に関する文書、映像や資料を収集の「ベルリン壁資料センター」
ベルリンの壁に関する文書、映像や資料を収集の「ベルリン壁資料センター」

第二次世界大戦後、敗戦国ドイツは連合軍(米・英・仏・ソ連)により西ドイツと東ドイツに分断された。東ドイツ内にあったベルリンはさらに分割されて、米・英・仏が西ベルリンを、そしてソ連が東ベルリンを統括していた。つまり西ベルリンは、東ドイツにありながらも西ドイツに属する孤島だった。

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1949年に東ドイツが建国されてから、経済状況は悪化の一途を辿っていた。そのため、「経済的にも恵まれた西側で生活したい」という思いを胸に東ドイツを去った市民は、全体で240万人、一日2000人にも上ったという。

そこで東ドイツ政府は、社会主義国家を作るには、国民が国を去ることを避けることが必要と考え、強制的に留まるようにと考えた挙句、壁を建設した。

東ドイツ政府によるベルリンの壁建設は1961年8月13日早朝から始まり、まず有刺鉄線が張り巡らされた。15日から、西ベルリンの周りを取り囲む全長155キロメートルの石壁が作られた。監視塔は、250メートル間隔で設置されていたという。

壁は二つあり、二つの壁の中間は、逃亡者を摘発するための死のゾーン(Todeszone)と呼ばれる無人地帯が設けられた。

壁資料センター展望テラスより。手前が旧西ドイツ、監視塔のある壁の外側が旧東ドイツ
壁資料センター展望テラスより。手前が旧西ドイツ、監視塔のある壁の外側が旧東ドイツ

壁資料センターで展示されている当時の東ドイツ地図に、真っ白な部分がある。道路や詳細が全く記されていないこの白い部分は西ベルリンを示し、東から西へ逃亡しても全く行き場がわからないようにという意図があったようだ。

白紙部分が当時の西ドイツだった場所
白紙部分が当時の西ドイツだった場所

1989年東ドイツで市民運動が起こり、ライプツィヒに始まる「月曜デモ」で、市民たちがより多くの権利を要求し、同年、ハンガリーの国境警備兵が、オーストリアとの国境地帯で鉄条網を撤去した。

ワルシャワ、プラハ、ブタペストのドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)大使館が東ドイツ国民に占領され、10月9日にライプツィヒで7万人がデモを行い、外国旅行の権利が認められることになった。

そして11月9日夜、「東ドイツ、西へ国境開放」の報道が流されると、多くの東ドイツ市民が壁に詰め掛け、よじ登ったり、壁を打ち壊したりと狂喜した(石壁の崩壊開始は、11月10日から開始)。こうして28年間存在したベルリンの壁は崩れ去り、その瞬間の写真や映像は世界中を駆け巡った。

壁崩壊の翌年にドイツは再統合され、10月3日は「ドイツ統合の日」として祝日となった。東西の統合は、新世代の幕開きとして市民は大きな期待を寄せた。

壁全長は155km。イラスト内の赤ポイントが現在壁の残っている場所です
壁全長は155km。イラスト内の赤ポイントが現在壁の残っている場所です

東西の再統合はメリット、デメリット?

2人に1人が「いまだに統合していない」

さて、ドイツに住んでいると、旧東側と西側ドイツ人の心の壁はまだ消えていないのではという事をよく耳にする。もちろん、生活環境、年齢などにより、一般市民の反応は様々である。統合が市民にとってメリットとなったのかという意見も東西、そして年齢層により大きな違いがあるようだ。

インフラテスト・デマップ(infratest dimap)の壁崩壊25年におけるアンケート調査「東西統合は市民にとってメリット、それともデメリット?」によれば、メリットと受け止める市民は、東74%、西48%、全体として53%。 

なかでも注目したいのは、若者層(14歳から29歳)の反応だ。東側96%、西側66%が統合はメリットだったと回答した。その内訳は、旅行が簡単にできるようになったこと。生活基準の向上、自由、職業選択や将来の見通しが大きい事などを上げている。

また、独紙ビルド(Bild)日曜版の委託で世論調査機関エムニド(TNS Emnid)が実施した調査によれば、56%が「ひとつの国民になったとは思わない」と回答。この内訳は、西側55%、東側60%に当たる。つまり2人に1人がいまだに統合していないと感じている。そして、回答者の76%は、東西での考え方や動向に今も違いがあると認識している。

ここでも若者層の考え方は旧東ドイツ社会主義を経験、あるいは見聞してきた高年層とは少し異なるようだ。若者層の57%は、「ドイツはひとつ」と回答し、前出のひとつの国民になったと思わないの56%とは逆転している。とはいえ、回答した若者層のほとんどは、壁崩壊後に生まれた世代のため、東独での生活を知らないまま育った。親達や周りの大人を通して知る範囲で判断したのであろうか。

西側の第一印象「空気の匂いが違った」

ベルリンで出会った東独出身者たちに壁崩壊当時の体験を聞いた。

カメラマンとして活動中のピエトロさん(45歳)。

「父はサンチアゴ(チリ)から来た留学生として旧東独で生活していました。その後、地元の女性と結婚し、僕が生まれました。壁崩壊のニュースを知った時、僕は20歳。兵役中で西独との国境近くにあるタイヤ工場に従事していました。

1989年11月10日金曜日、仕事を終えた後、解放されたオーバーバウム橋を渡って西側へ行ってみたけど、壁が崩壊されたというニュースは人づてに聞いたため、まだ疑心暗鬼だった。当時兵士が西側訪問することは許されていなかったため、不安になってそそくさと東側へ戻ったのを覚えています」

西側の第一印象を尋ねると、「空気の匂いが違った。洗剤のような、香水のような、とにかくいい匂いが漂っていた。灰色ばかりが目立つ東独と違って、西側は色鮮やかだった」

IT 技術者のリカルドさん(28歳)

「父に肩車してもらって、壁崩壊を祝った。何が起こったのか理解できなかったけど、周りの大人たちはそれまで見たこともないような大騒ぎをしていました。僕自身は、格差や自由を奪われたという感覚は全くないけど、やっぱり壁は崩壊してよかった。でなければ、IT業界で好きな仕事に就くことができていたかどうか。壁崩壊25周年はめったにない歴史的イベントなので、一緒に祝おうとブランデンベルク門までやってきた。本当は迷ったけど、やっぱりこのイベントに参加してよかった」

事務職のユリアさん(25歳)

壁崩壊の時、私は生まれてわずか10ヶ月でした。東西の違いや特にお話することはありませんが、両親や祖母から当時の話を時々聞きます。特に祖母は壁建設と崩壊の両方を体験しています。メディアで取り上げられているようなネガティブな思い出はなく、祖母も両親も旧東独生活をそれなりに満喫していました。それでも壁がなくなって、両親は、自由に旅行ができるようになったことが一番嬉しかったといってます」

広報マネージャーのクリスチャンさん(48歳)

「両親は、56年に現在自然保護地区に指定されている「グリーンベルト」地帯を辿って西にやってきました。東ベルリン生れの兄を祖母に預け、両親は二人で西ベルリンに向かいました。姉と僕は西ベルリン生まれです。毎年2週間ほど祖母と兄を訪ねたことをよく覚えています。西ベルリン在住者は、東ベルリン訪問を許されていたので、家族の面会も問題なくできました。当時東ベルリンを訪問するには、1日25マルクを支払わねばなりませんでした。壁は東独にとって大きな収入源だったのです。ちなみに西ベルリン在住者以外のドイツ人は、東独在住者の招待状が必要だった上、手続きが非常に厄介で、許可が下りるまで時間がかかりました」

これからの課題

東西が統合してから東独地域のインフラ整備や経済状況が改善しているのは事実だ。だが、今年10月の失業率は、旧西独の5.6%に対し、旧東独は9%と高く、いまだ格差があるようだ(独連邦統計局)。

平均月額所得は、旧西独1,722ユーロに対し、旧東独は1,416ユーロ(2011年調査)とこちらも東西に隔たりが見られる。しかし、1991年調査では旧西独1.148ユーロに対し、旧東独は595ユーロであったことを顧みると、現在、旧東独はかなり改善している。(独政府統計)

また、主として旧東側地域再建にあてる「連帯付加税」を支払う義務が91年より開始され、2019年まで導入予定だが、支払い続ける旧西独市民には不公平感に不満も蓄積している。

これを受けて、バイエルン州ゼーホーファー首相は、「西側の負担を軽減すべき」と見解を述べている。一方、東側は、20年以降も連帯付加税の存続を望んでいる。現在、連帯付加税収額は所得税の5.5%を占め、年間140億ユーロ(約1兆9000億円)に 上るという。

東西の生活環境の均一化は、今後も続けるべきだという声も多い中、市民の思いは複雑だ。ドイツ人は今、行く先を模索中だ。

取材協力

ドイツ観光局

ベルリン観光局

在独ジャーナリスト

ビジネス、社会・医療・教育・書籍業界・文化や旅をテーマに欧州の情報を発信中。TV 番組制作や独市場調査のリサーチ・コーディネート、展覧会や都市計画視察の企画及び通訳を手がける。ドイツ文化事典(丸善出版)国際ジャーナリスト連盟会員

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