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「中国と台湾の38度線」台湾海峡中間線が消滅した日

野嶋剛ジャーナリスト/作家/大東文化大学教授
軍事演習を報じる中国のテレビ(写真:ロイター/アフロ)

台湾に対する中国の大規模軍事演習が4日から7日まで行われた。日本では台湾東部沖の日本の排他的経済水域(EEZ)内に打ち込まれた弾道ミサイルが話題になったが、今回の演習で台湾の軍事専門家が口をそろえて「深刻だ」と口にするのが、台湾と中国との間の台湾海峡の真ん中に引かれた相互不可侵のライン「台湾海峡中間線」を無効化する中国の動きが、現実のものになるという問題である。

台湾海峡中間線とは、この線を越えてお互い軍機・軍艦は活動しないという冷戦期以来の米中台間の暗黙の了解事項だ。朝鮮半島に南北を分ける38度線の中台関係版のようなものとして、明文化されない「紳士協定」ではあるものの、長年、台湾海峡の情勢安定に大きな役割を果たしてきた。

多数の中国軍機が中間線越え

台湾国防部の発表によると、演習の4日間で活動した中国軍機は戦闘機など66機が確認され、うち22機が中間線を越えて台湾海峡を飛行したという。

中国の中央テレビは8日、「今後は軍機や艦船が台湾海峡の中間線の東側(台湾側)で訓練を続行することが常態化するだろう」と報じた。台湾の日刊紙聯合報は米国の見方として「中国は中間線を無効化し、台湾海峡の内海化を目指している。過去の暗黙の了解は抹消され、中間線は存在しなくなる」との分析を紹介した。

中間線の消滅は、どうやら可能性の高い未来のようである。

だが、その影響は極めて深刻だというしかない。

中国軍機の中間線越えを伝える台湾国防部の発表資料
中国軍機の中間線越えを伝える台湾国防部の発表資料

尖閣を思わせる「既成事実化」

台湾海峡は幅が130-150キロ程度しかない。台湾が設定する海岸線から12カイリの領空・領海はすぐだ。マッハ1〜2で飛行する戦闘機からすれば、中間線を越えれば台北、新北、台中、桃園国際空港、高雄などの大都市、重要拠点の上空にはあっという間に到達できる。

中間線を越えると、台湾空軍も戦闘機をスクランブル発信させ、近接警告を行う。台湾側は不測の事態を避けるため「1発目は撃たない」ことをルールで定めてはいるが、偶発的衝突の可能性は大いに高まっている。

日本からすれば、台湾海峡中間線はあまり馴染みがない問題かもしれない。しかし今回の演習を通して、中間線による抑止が無効になり、中国軍機の侵入が常態化すれば、台湾の安全保障環境は激変することになる。

それは、尖閣諸島への中国船の接近、領海・接続海域への侵入が2012年の尖閣諸島国有化以来、常態化した現実に日本が苦しめられているのと同じように、中国が台湾海峡の実力支配の常態化を試みている、ということを意味している。

中台の分断状態を固定化

1950年以来、圧倒的な軍事力を持つ米国主導で引かれた「中間線」は当時の米軍高官の名前にちなんで「デヴィス・ライン」とも呼ばれた。

米国と台湾はそのころ同盟関係にあり、台湾を守るために中国の侵攻をここで食い止める、という米国の意図で引かれた線だったが、一方で、台湾の蒋介石による大陸反攻作戦を行わせないという裏の狙いもあったとされる。事実上、中台の分断状態を固定化する役割を担っていた。

1979年に台湾と米国が断交し、中国と米国が国交を結んだあとも、中間線は基本的にうまく機能してきた。台湾側の政治行動に中国側が不満を感じたときは、デモンストレーションとして中国軍機が中間線を越えることはあったがあくまで散発的なものだった。

ところが、トランプ政権の末期に米中関係が極度に悪化し、台湾でも中国と対抗する民進党の蔡英文総統が圧倒的勝利を収めた2019年ごろから、中国軍機による中間線の侵犯が頻発していた。

「両岸の間に中間線は存在しない」

今回の演習で、中国軍は軍機だけではなく、艦船による中間線越ええも確認されている。台湾側の抗議に対して、中国国防部の報道官は会見で「行動が最も力のある言葉であり、絶対に我々は手を緩めない」として、「両岸の間にいわゆる海峡中間線は根本的に存在しない」と言い切ったこともある。

もとより中国は台湾を自らの領土の一部とみなしている。その論理では台湾海峡は中国の内海になるが、国際政治と軍事力の現実から、中間線をこれまでは黙認し、中国軍の活動範囲は主に中間線の西側で行われてきた。

しかし、中国が米軍の介入を恐れない実力をつけたという自己認識を強めているなか、今回の軍事演習をきっかけに中間線の否定へ向かう可能性は高い。それは、台湾海峡の「内海化」がより一歩進むことを意味し、日本にとっても原油や物資が激しく行き来する台湾近海の海上交通安全に深刻な影響が及ぶことになる。

ペロシ訪台を打ち消す「成果」に

ペロシ議長の台湾訪問を許した中国は、習近平国家主席の三選を決める党大会を前に、米台、そして日本に台湾問題で好き勝手をされた印象を残したくない。大規模軍事演習の成果として、中国軍の活動を事実上阻んできた中間線を打破したと宣伝し、「台湾統一に近づいた」と党内アピールのポイントを稼ぐつもりだろう。

紛争とはえてして各国がそれぞれの国内政治の延長戦で対外関係のコントロールを誤った時に起きるものである。「紳士協定」とはいっても機能してきた枠組みが壊れたことで、一触即発のリスクは急激に高まる。消えゆく中間線という現実を突きつけられた台湾海峡からは、しばらく目が離せそうにない。

ジャーナリスト/作家/大東文化大学教授

ジャーナリスト、作家、大東文化大学社会学部教授。1968年生まれ。朝日新聞入社後、政治部、シンガポール支局長、台北支局長、AERA編集部などを経て、2016年4月に独立。中国、台湾、香港や東南アジアの問題を中心に、各メディアで活発な執筆、言論活動を行っている。著書に『ふたつの故宮博物院』『台湾とは何か』『タイワニーズ 故郷喪失者の物語』『なぜ台湾は新型コロナウイルスを防げたのか』『香港とは何か』『蒋介石を救った帝国軍人 台湾軍事顧問団・白団』。最新刊は『新中国論 台湾・香港と習近平体制』。最新刊は12月13日発売の『台湾の本音 台湾を”基礎”から理解する』(平凡社新書)』。

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