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樋口新葉、北京五輪のメダルは「まだ全然、何も来ないです(笑)」。それすら笑顔で語る、今季の新しい喜び

野口美恵スポーツライター
公開練習後、インタビューに応じた樋口選手(c)筆者撮影

 整氷したばかりの、まっさらなリンクに、気持ちよさそうにトレースを描いていく。エッジの傾斜を使って、グインと加速していく滑りは、彼女の一番の魅力だ。昨季は疲労骨折のために1年休養した樋口新葉が、22歳での復帰を決意した。

 9月5日、樋口はホームリンクである神宮アイスアリーナで公開練習を行った。基礎のスケーティングを終えると、今季のフリー、コールドプレイの「Fix You」の曲をかける。

「今日は、プログラムの前半と後半に分けて、ジャンプのミスがないように調整していく練習をします」

 まずは前半の「3回転ルッツ+3回転トウループ」「3回転ループ」「3回転サルコウ」を曲に合わせて跳んでいく。1つでもミスがあると「あーー!」と言って天を仰ぐと、笑いながら曲をかけ直し、最初からジャンプを跳ぶ。何度かチャレンジし、とうとう3つ続けて成功すると、満足そうにうなずいた。

「最近は、前半と後半に分けた練習では、あまり失敗することがなかったので、今日はちょっと緊張してたのかな(笑)。疲れと息ぎれで、思わず声が出ちゃいました」

スケート人生の目標だった北京五輪での演技
スケート人生の目標だった北京五輪での演技写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ

北京五輪では団体戦銅メダルも、直後に骨折が発覚

「休養する前に先生と話し合い『絶対に戻ってくる』と話しました」

 北京五輪では、団体戦で銅メダルを獲得。個人戦では、ショート、フリーともにトリプルアクセルを降り、五輪女子史上5人目の成功者となった。しかし五輪後、右すねの疲労骨折が発覚。昨季は9月のロンバルディア杯に出場後、1年間の休養を発表した。

 スケート人生で1番の目標だった北京五輪とトリプルアクセルの夢を達成し、ひとつの分岐点を過ぎた。しかし簡単に引退しようとは思わなかった。

「岡島(功治)先生とは、休養を決める前に何回も話しあって決めました。休むと決めたけれど『絶対に戻ってきたいと思ってる』ということは伝えました。私がスケートを好きなんだ、ということは先生も理解してくれてたと思います」

 半年以上、氷に乗らない生活が続いた。5月のアイスショーへの出演が決まり、ここを復帰のタイミングにしようと思った。

「ショーの1ヶ月前くらいから滑り始めようかな、そろそろリンク行こうかなどうしようかなと悩んでいた時期に、岡島先生から『いつ練習にきますか』とメッセージが来て。その一言がすごく印象に残っています。まだリンクに行く前だった時期から、心配してくれているんだなというのはすごく伝わってきました」

五輪後は様々なイベントにも出演した
五輪後は様々なイベントにも出演した写真:森田直樹/アフロスポーツ

1年休んで復帰して気づいた、スケートの楽しさ

「跳べなくて悔しいこと、それすらも楽しい面白いと思えている」

 リンクに帰ってきた樋口は、スケート人生で背負ってきたすべての重圧から解放されていた。とにかく純粋な笑顔で、いきいきと滑る。それはスケートを始めた子供の頃のような嬉しさなのか、と尋ねると、違うという。

「私は、小さいころから『試合で勝たないといけない』『もっと頑張らないといけない』という気持ちが強いタイプでした。なので小さいころだからといって純粋にスケートが楽しかったという思い出はないんです。ずっとずっと、勝たなきゃって思っていました。だからこうやって純粋に楽しいのは、今、初めての気持ちです」

 8月のローカル大会で復帰。2戦出て、少しずつ感覚を取り戻した。

「どちらの試合でも岡島先生からは『楽しんでやってきたら良いよ』って言われました。もちろん全力で頑張りますが、今季の新鮮な気持ちを楽しんでやりたいです。今までのシーズン通りに戻す、というより、今までとは違った自分、新鮮な気持ちを出していきたいです」

 練習を再開してから、5ヶ月。女子にとって得点源である「3回転ルッツ+3回転トウループ」のジャンプの切れ味が戻ってきた。その復調の早さは、さすがとしか言いようがない。

「むしろ、今までのシーズンインより、調子が安定していると思います。練習でも手を抜かずに、前向きな気持ちでやれています」

 心の安定。それは、1年の休養をはさんだことが大きいという。

「スケートを楽しいと思えたのは、1回休んでからです。復帰してからは、出来ないジャンプやステップがいっぱいあって、それをもう一度出来るようになっていくことが嬉しかったです。小さいころからスケートしてきましたが、結果を出すことを1番に考えていたので、何かが出来るようになる喜びに気づかずにいたんです。だけど最近は、面白いとか楽しいという気持ちを優先して練習していくことで、結果がついてくるなと感じています」

そして「今日の練習でも、そう感じる場面がありました」といって続ける。

「今日は『ジャンプ3つ連続失敗なしでやる』と自分の中で決めていたんですが、それが出来なかった時に『出来なくてしんどいな、苦しいな』じゃなくて、『自分の目標があるのが面白いな、これができたら嬉しいな』と思えるんです。跳べなくて悔しいこと、それすらも楽しい面白いと思えている自分がいるのを感じました」

神宮アイスアリーナで練習を公開した(c)筆者撮影
神宮アイスアリーナで練習を公開した(c)筆者撮影

9月の東京選手権から本格的なシーズンイン

「今季に1度はトリプルアクセルも入れたい」

 本格的なシーズンインは、9月の東京選手権大会(東京ブロック)。GPシリーズは、11月のフランス杯とNHK杯にエントリーされている。

「東京ブロックは、全日本選手権につながる大切な試合なので、気を抜かないで頑張りたいです。8月の試合では、演技後半で崩れてしまったので、最後まで100%の力を保てるように。GPシリーズは、久しぶりの海外試合なので、ちょっと緊張も楽しみな気持ちもあります。ただ今季は、一番の目標は全日本選手権。GPシリーズで課題を見つけて、全日本選手権に向けてレベルアップしていけるようにしたいです。一歩一歩上がっていくイメージで、全日本選手権で5位以内に入りたいと思っています」

北京五輪で決めた大技、トリプルアクセルも視野にある。

「まだ全然練習は始めていませんが、今季の試合で1回は入れたいと思っています。まずは今のプログラムに入れているジャンプを完璧にしてから、です。振り返ってみると、五輪より前までのシーズンは、8月には、まだ3回転+3回転は安定していませんでした。今のジャンプの安定感や、トリプルアクセルを視野にいれて練習できているところを考えると、五輪前までの自分よりも成長できている気がします」

 気持ちよさそうに午前の練習を終えた樋口は、夜練に備え、神宮アイスアリーナを後にする。その入り口のギャラリーには、北京五輪の大会マスコット『ビンデュンデュン』のぬいぐるみが飾られ、「団体銅メダル獲得!」のお祝いメッセージが添えられている。

「メダルですか? 五輪後、何も連絡はないです。メダルの代わりにいただいたビンデュンデュンは、オリンピック後の集会で見せるために家に置いてあるので、神宮には買ってきたビンデュンデュンを飾っています。早く、メダルが届くといいですよね」

 そういって笑う。メダルが届かないことに苛立つわけでもなく、笑い話のように語る姿が、彼女の今の心境をよくあらわしている。スケートを好きだから滑っている。その純粋な気持ちに気づけたことが、五輪メダルに負けないくらいの勲章なのだろう。樋口の22歳のシーズンは笑顔に満ち溢れている。

スポーツライター

元毎日新聞記者。自身のフィギュアスケート経験を生かし、ルールや技術、選手心理に詳しい記事を執筆している。日本オリンピック委員会広報としてバンクーバーオリンピックに帯同。ソチ、平昌オリンピックを取材した。主な著書に『羽生結弦 王者のメソッド』『チームブライアン』シリーズ、『伊藤みどりトリプルアクセルの先へ』など。自身はアダルトスケーターとして樋口豊氏に師事。11年国際アダルト競技会ブロンズⅠ部門優勝、20年冬季マスターゲームズ・シルバー部門11位。

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