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伊藤みどりもハマったアダルトスケートの世界、80代も参加する国際大会「自分が輝ける場所」

野口美恵スポーツライター
仲間との再会を喜ぶ伊藤みどりさん(右)(c)筆者撮影

真っ白なリンクの上を、色とりどりの衣装に身を包み、艶やかに舞うスケーターたち。下は28歳、上は80代まで、高難度のジャンプはなくとも“国際舞台”へ立つ気持ちは一流だ。アルベールビル五輪銀メダリストの伊藤みどりさんも、2011年にドイツの国際アダルト競技会で銀盤に復帰し、年々、新たなプログラムを披露してきた。みどりさんも魅了された“アダルトスケート”の世界とはーー。

ISUの公認大会である「国際アダルト競技会」は2005年、ドイツのオーベルストドルフで始まった。一般的な競技者のカテゴリーであるノービス、ジュニア、シニアとは別に、28歳以上の「アダルト」というカテゴリーが創設され、趣味スケーターや引退した競技者が参加できる舞台ができたのだ。

オーベルストドルフは、ドイツの最南端、オーストリアの国境に位置するスキーリゾート。雪化粧をしたアルプス、赤い屋根の町並み、カウベルの音に振り返れば放牧に向かう牛たちとすれ違う――。美しく、のどかで、優しさにあふれる街は、アダルトスケーターの聖地としても知られるようになった。

現役選手と同様の採点システムを採用し、ISUのジャッジ経験者が採点する。ジャンプの回転不足や、スピンの回転数なども緻密に判定されるため、大人にはちょっと厳しいルール。でも、それがかえってやる気を引き出し、アダルトのスケート熱はヒートアップした。今では毎年500名以上、約30カ国が参加し、80代のスケーターがアクセルジャンプに挑戦するなど胸を打たれる名場面が続出している。

朝の散歩では放牧に向かう牛たちとすれ違う (c)bassy
朝の散歩では放牧に向かう牛たちとすれ違う (c)bassy

41歳から出場したみどりさん、53歳で新境地に

みどりさんが、初めて国際アダルト競技会への参加を決意したのは2011年の春。

「現役時代と違って技術的には落ちているけれど、そんな自分を受け入れて。滑るときの、風を切る心地よさをもう一度感じたいなって。それに日本って、“観るスケート”が主流だけど、大人になっても“滑るスケート”があることも知ってもらえたら」

選んだ曲は、辻井伸行の「川のささやき」。やわらかい旋律に溶け込むような滑りと、フェンスから飛び出そうなくらい高さのあるダブルアクセルで、41歳の自分を出し切った。

みどりさんはその後も、体力が許す限り、大会に参加し続けた。昨年は、コロナ禍をへて4年ぶりの出場を決意し、53歳の新境地をこう語った。

「今回は純粋にスケーティングや演技に力を注いで、ジャンプなしでもスケートを楽しんでいる姿を見せたいな」

選んだカテゴリーは、1回転ジャンプのみが許される『アーティスティック』。もしアクセルジャンプ(1回転半)を跳ぶと、違反要素として減点されてしまう部門だった。

アルプスの少女ハイジのような風景が広がる街、オーベルストドルフ (c)bassy
アルプスの少女ハイジのような風景が広がる街、オーベルストドルフ (c)bassy

4年ぶりに訪れるオーベルストドルフは、変わらず穏やかだった。カウベルの音とともに起き、木漏れ日の中を散歩する日々。リンクでは、12年来のアダルトスケート仲間であるナタリー・シェイビーさん(米国)と再会し、ハグを交わした。みどりさんへの敬意や憧れだけでなく、アダルトスケートの仲間としてスケート愛を深められる場所。その空気を肌で感じた。

ところが、本番が近づくにつれて、みどりさんの心に小さな不安も生じた。練習でアクセルジャンプを跳ぶと、拍手喝采。周囲の反応に敏感になっていった。

「やっぱり、皆さんが私に期待するのはアクセル。今回はアーティスティックにエントリーしたけれど、アクセルなしの演技で皆は喜んでくれるのかな?」

本番3日前の公式練習では、アドリブで“ルール違反”のアクセルを入れて滑ってみた。

「私が(試合直前の)4分間練習でアクセル跳んでたら、ジャッジがびっくりするだろうね。試合前からディダクション(減点)されちゃうかな。入れる意味があるのか、ないのか…。一晩考えます」

アクセルを跳べば、話題にはなるだろう。でもルール違反してまで必要なことなのか。アダルトスケーターとしての自分の気持ちと向き合った。

ホージー・スーさん (c)bassy
ホージー・スーさん (c)bassy

大会が始まった。全6日間のうち、伊藤の出番は最終日。伊藤は観客席から仲間の演技を見守った。

ニュージーランドのホージー・スーさんは70代。毎年、地球の裏側からドイツまでやってくる。今年は『バラ色の人生』をしっとりと演じた。

「今日はちょっと緊張して震えてしまったけれど、声援と拍手に助けられました。ISUアダルト競技会に出場するのはもう17回目。70歳をすぎてもスケートが出来るなんて思ってもみなかったけれど、歳を重ねてもスケートを続けることはとても意味あること。スケートが無かったら、家でテレビを見るだけになってしまうものね」

 スーさんはウィンクしながらこう続けた。

「このスポーツはとても難しいけれど、とっても素敵な世界。来年またこの大会に戻ってきてきます!」

リフトされるソニア・ゲラーさん(左) (c)bassy
リフトされるソニア・ゲラーさん(左) (c)bassy

日本在住経験があり、伊藤と親交の深いソニア・ゲラーさん(ドイツ)は、アイスダンスで出場した。10代の頃にスケートを習ったことがあり、大人になってから改めて魅力に取り憑かれたスケーターだ。

「私は10代のころは、レクリエーションレベルのスケーターが参加できるような大会がありませんでした。大人になってこの大会に出るようになり、お互いを称え合う素敵な空気感が大好きになりました。怪我をしてジャンプを跳べなくなり、3年前にアイスダンスに転向したんですが、今ではシングルよりも楽しくなってきています」

ダンスパートナーもソニアさんも、それぞれ結婚して子供がいるので、キス&クライは2つの家族が大集合し、席が足りないほどにぎやかに。

「今年の目標は、まずはスケートを楽しんで、怖がらずに膝がガクガクしないように、観客に伝わるような美しいスケーティングを見せることでした。こうやって、観客や仲間と感動を分かちあえるのはほんとうに素晴らしいこと。少しでもスケートを長く続けて、おばあさんになってもスケートを楽しみたいです」

マルチェロ・カッザニーナさん (c)bassy
マルチェロ・カッザニーナさん (c)bassy

続いてイタリアのマルチェロ・カッザニーナさん(イタリア)が登場。『死の舞踏』で軽快なスケーティングを披露した。32歳でスケートを始めて15年目。毎年、個性的なプログラムで皆を楽しませてくれる。

「フィギュアスケートは、とても特別なスポーツだと思います。氷の上にいる時は他の誰かになれるんです。お気に入りの音楽や新しいジャンルの曲で、これからも新しい表現にチャレンジし続けたいです」

 そして今後の目標を語る。

「技術的な要素ばかりに焦点をあてるのではなく、演技とか芸術面に焦点をあてていきたいです。ジャンプのテクニックや技術的な要素ばかりに傾きがちな、フィギュアスケートの現状を変えることができればいいなと思っています」

ベッティナ・カイルさん (c)bassy
ベッティナ・カイルさん (c)bassy

さらに56歳のベッティナ・カイルさん(ドイツ)は、2回転ジャンプも成功させ、大喝采を受けた。荒い息を整えながら話をする。

「なんとか無事に滑り終えてほっとしています。ここオーベルストドルフは海抜900メートルもあるので、年々標高が上がっていく感覚です」

 そしてこう続ける。

「私は子供の時から15歳まで、スケートを習っていました。32歳のときにまた滑るチャンスがあってからは、スケートへの情熱が消えたことはありません。ただ、9年前、がんの手術と化学療法を受けたんです。病気を克服して、ふたたび氷に降り立ったとき『ああ、私の人生を取り戻したわ』と実感しました。私にとってスケートはそれくらい大切なものなんです。次の目標は60歳まで何としてでも頑張ること。あと3年半ですね!」

年令を重ねていく自分を愛し、表現する

それぞれの人生を、スケートに託し、氷上で表現していく仲間たち。みどりさんの心は、決まった。

「やっぱり、今回はアクセルを跳びません。純粋にスケートを楽しむ姿を見せるのが目標と決めていたのだから。それにピアノを弾いて下さった福間(洸太朗)さん、振り付けて下さったデイビッド(ウィルソン)さんへのリスペクトを考えたら、勝手に演技をアレンジするなんて出来ません。アクセルがなくても、素敵な曲で、スケーティングを楽しんで、演技に心を込めて滑ればいい。それが53歳の私がやりたいスケートだから」

『マイウェイ』と『愛の讃歌』のメドレーを演じきり、拍手に包まれる。自分にとってのスケートはなにか、再確認するようにうなずいた。

アダルトスケートには、たくさんの夢がある。年令を重ねていく自分を表現すること、病気や怪我を克服して滑ること、力が落ちていく自分を愛すること。それぞれの思いを胸に銀盤に立ち、人生を投影する。

ナタリー・シェイビーサンと演技を称え合う (c)bassy
ナタリー・シェイビーサンと演技を称え合う (c)bassy

演技後、同じカテゴリーに出たシェイビーさんに「あなたがアダルトスケートのレジェンドよ」と声をかける。シェイビーさんは満面の笑みでみどりさんを抱きしめると、目を見つめて言った。

「また、この大会で会いましょう!約束よ!」

今年も5月にISUアダルト競技会がドイツで開催される。新たな人生がまた、氷上に刻まれていくことだろう。

スポーツライター

元毎日新聞記者。自身のフィギュアスケート経験を生かし、ルールや技術、選手心理に詳しい記事を執筆している。日本オリンピック委員会広報としてバンクーバーオリンピックに帯同。ソチ、平昌オリンピックを取材した。主な著書に『羽生結弦 王者のメソッド』『チームブライアン』シリーズ、『伊藤みどりトリプルアクセルの先へ』など。自身はアダルトスケーターとして樋口豊氏に師事。11年国際アダルト競技会ブロンズⅠ部門優勝、20年冬季マスターゲームズ・シルバー部門11位。

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