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金正恩氏との会談目指しハードルを下げたが……。安倍首相退陣で「拉致問題」が再び置き去りにされないか

西岡省二ジャーナリスト/KOREA WAVE編集長
辞意を表明した安倍首相(写真:ロイター/アフロ)

 北朝鮮による拉致問題の解決を最優先課題に掲げてきた安倍晋三首相が退陣することになった。北朝鮮側はこれまで「安倍氏の自民党総裁連続4選はないという前提」(日朝関係筋)で動いてきたため、対日政策に大きな変更はないとみられる。その一方で、拉致問題解決に強い意欲を見せてきたトップの交代により、日本側での拉致問題の位置づけが変更される可能性もあり、次期政権にどう引き継がれるか注視する必要がある。

◇「私が最高責任者であるうちに、きちんと解決したい」

 安倍氏は第2次内閣発足後の2013年1月、自身がトップを務める「拉致問題対策本部」の初会合で「北朝鮮による拉致は未曽有の国家的犯罪行為」「私が最高責任者であるうちに、きちんと解決したいと決意している」と打ち上げた。

 第1次内閣の際に掲げてきた▽すべての拉致被害者の帰国▽安否不明者に関する真相究明▽実行犯の身柄引き渡し――という基本方針を改めて確認していた。

 かつて日本の首相が毎年のように交代していた2000年代後半から安倍政権発足前まで、北朝鮮側は「日本の権力の所在」を見極められなかったという経験がある。

 ただ第2次安倍内閣については「権力基盤が安定しているので、必要のない勢力を気にしなくていい。安倍首相だけを見ていればいい」(北朝鮮側の日朝交渉実務者)というスタンスを取ることができた。もっとも、金正恩朝鮮労働党委員長は政権基盤の安定した「強いリーダー」を好むとされる。

 金委員長は14年、自身の権力基盤が盤石になったタイミングをとらえて、日本との交渉に打って出た。その結果、同年5月に「拉致問題は解決済み」との立場を改め、拉致被害者を含む日本人行方不明者を全面的に調査すると約束。7月には「特別調査委員会」を設置したことで、日本側は見返りに独自制裁の一部を解除した。

 だが16年2月、北朝鮮による核・弾道ミサイル実験により、日本が再び独自制裁を決めると、北朝鮮側は特別調査委員会を解体し、流れが止まった。

◇「日本が孤立」からの脱却を図ったが……

 その後、北朝鮮は2018年に対話路線に転じ、金委員長がトランプ米大統領との非核化交渉に乗り出した。ほかにも中国、韓国、ロシアの各首脳との会談に打って出て、北東アジア情勢は大きく動いた。北朝鮮の核問題をめぐる6カ国協議の参加国の中で唯一、日本だけ、北朝鮮との首脳会談が実現しなかった。

 安倍氏は孤立を避けるため、首脳会談の実現が不可欠と判断。それまでの「拉致問題解決に向けた会談」という文言を「拉致問題の解決に資する会談」に変更し、昨年5月には「無条件開催」にハードルを下げた。北朝鮮が弾道ミサイル発射を強行したあとも、その方針を変更することはなかった。

 この安倍氏の意向を、金委員長も認識し、同年6月に習近平・中国国家主席と会談した際、「留意している」と述べ、真意を見極める考えを表明していたという。

 北朝鮮は昨年後半、当初は2020年開催だった東京五輪を「対日関係を有利に動かす好機」ととらえ、ハイレベルの訪日団派遣を考えていたとされる。だが、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大の影響で五輪そのものが延期となり、その計画はとん挫した。

◇「三重苦」

 北朝鮮の経済状況は今、国連制裁と新型コロナウイルスの感染拡大に伴う国境封鎖状態、さらに水害という「三重苦」に陥っている。金委員長の業務軽減の観点から、実妹の金与正党第1副部長ら側近に一部の権限を委任したうえで統治を続けているようだ。韓国側では「経済状況の悪化は、北朝鮮が新たな変化を追求する基盤になる」(韓国大統領府高官)との分析につながっている。

 北朝鮮はまずは11月の米大統領選の結果を見極めたうえで、改めて関係国との仕切り直しを図るとみられる。その流れの中で日本にも交渉に向けたシグナルを送ってくる可能性はある。ただその中で再び「拉致問題は解決済み」という主張をゴリ押しして、揺さぶりをかけてくる恐れがある。拉致問題がまた、大きな試練に立たされるのだ。

 国際社会が再び、北朝鮮との対話モードに流れれば、日本の次の政権も対北朝鮮外交を動かすタイミングを計ることになる。その時には、拉致問題の解決に向けた、突っ込んだ国民的議論が必要となる。それまでの間、拉致問題の風化を防がなければならない。

ジャーナリスト/KOREA WAVE編集長

大阪市出身。毎日新聞入社後、大阪社会部、政治部、中国総局長などを経て、外信部デスクを最後に2020年独立。大阪社会部時代には府警捜査4課担当として暴力団や総会屋を取材。計9年の北京勤務時には北朝鮮関連の独自報道を手掛ける一方、中国政治・社会のトピックを現場で取材した。「音楽」という切り口で北朝鮮の独裁体制に迫った著書「『音楽狂』の国 将軍様とそのミュージシャンたち」は小学館ノンフィクション大賞最終候補作。

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