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病にもケガにも負けず。細貝萌、不屈のストーリー。

二宮寿朗スポーツライター
全治6カ月の大ケガを負った細貝。懸命なリハビリで早期復帰を目指す(撮影・高須力)

 困難を乗り越えるたびに、人はたくましくなる。

 35歳、細貝萌もまた然り。

 日本代表で30キャップを誇り、日本、ドイツ、トルコ、タイと渡り歩いてきた彼は「生まれ育ってきた群馬のために」という思いから昨年9月、故郷に戻ってJ2ザスパクサツ群馬でプレーしている。大槻毅監督を迎えた今シーズンはキャプテンに就任。近年低迷を続けてきたチームは開幕戦に勝利して、続く2戦目も引き分けとまずまずのスタートを切った。キャプテンマークを巻くボランチの細貝は代名詞となっているハードな守備力と、バランスを踏まえたクレバーな構成力でチームを引っ張っていく。

 開幕3戦目となった3月6日のアウェー、ベガルタ仙台戦でアクシデントは起こった。

 ボールホルダーに対してスライディングでボールを奪いに向かった際、芝に足が引っ掛かってしまい、痛みに顔をゆがめる細貝がいた。途中交代を余儀なくされ、群馬に戻って診断を受けた結果は「左足関節脱臼骨折」で全治6カ月。早期復帰を目指すため、負傷から2日後には手術を受けている。

 自分のコンディションもチームの調子もいいときに見舞われた大ケガ。よりによって、と計り知れないほどのショックを受けてもおかしくはない。だが細貝はすぐに気持ちを切り替えていた。

「相手との距離を縮める守備をしていればケガにはならなかった。でもチームがうまくいってない時間帯。強く守備に行くことでその雰囲気を変えられるかもしれないと思いました。結果的に芝の状態を気にしていたにもかかわらず、引っ掛かって自滅する形になりましたけど、あのシーンに特化すれば後悔はまったくありません。

 チームメイトにはもっと大きなケガでチームを離れている選手もいます。自分はチームを引っ張っていかなければいけない立場。これくらいでへこたれちゃダメです。僕の場合は、骨折なので骨がくっついて試合に出られるコンディションをつくっていけば、ピッチに戻ることができる状況になるので」

 リハビリに一切の妥協はない。4月のある一日のスケジュールを自身のブログに記したことがあった。まったくと言っていいほど隙間がない。

 早起きして酸素吸入からスタートして午前9時からリハビリと治療。愛妻弁当のランチを済ませてから午後はジムで筋トレと再びリハビリ、そして練習場に移動してウォーキングを行なう。交代浴などケアも入念に施したうえで自宅に戻り、超音波治療や水素吸入も念入りにやる。こういう日の連続なのだとか。きょうは何時に起きたのかと尋ねると朝5時だという。

「骨がくっついて復帰しようとなってもコンディションが戻っていなかったら、どうしようもない。執刀していただいたドクターや、チームスタッフをはじめ多くの方に支えてもらっているので、みなさんの思いも自分のモチベーションにして日々、前進できている感じはあります」

 予定より早く走り始めることができ、このまま順調にいけば前倒しで復帰できる可能性も十分にあるそうだ。

 つらいリハビリも、まったくへこたれない。

「サッカーができるだけで幸せというか。やっぱりあの経験が自分の心を強くしているなとは思いますね」

 あの経験――。

 足首の手術から1週間後、細貝はあることで世間からの注目を集めていた。日本テレビ系の番組において、隠された闘病生活があったことを初めて公表したのだ。

 柏レイソルからタイの強豪ブリーラム・ユナイテッドへの完全移籍が決まった2018年12月のことだった。体の不調を訴え、彼は病院で精密検査を受けている(ブリーラムには当然ながら病名が報告されている)。対外的には「体調不良」となっており、一定の空白期間を経てタイに渡って3月から試合に出続けたとあってそのことにあらためて周囲が目を向けることもなかった。ただ「コンディションが100%に戻るまで1年以上掛かるかもしれない」とのチームの見立てのなか、ただ一人2部練習を敢行して必死にコンディションを上げて、7キロも落ちていた体重を戻してピッチに復帰している。血がにじむような努力と執念がそこにあったことは言うまでもない。

 ただならないことがあったとは感じていた。「胃のあたりが何かおかしかった」とは聞いていたものの、プライベートなことゆえに、本人が明かさない以上は詮索すべきではない。「いつか話をさせていただきます」と本人から伝えられてもいた。

 後になって、細貝の口から病気の話を告げられた。

 膵のう胞性腫瘍。

 悪化すれば命にかかわる病気だった。医師から説明を受けた際、頭のなかが真っ白になったという。腹部を6カ所切る手術に踏み切った。

 番組にもエピソードとして紹介されていたが、自分でも情報を集めてみると「余命」の文字を目にしたこともあった。

 彼が重い口調で語ったあの日のことは忘れられない。

「死ぬかもしれないんだなって思いました。娘は2歳でまだ小さいし、どうすればいいんだって、あのときの自分のメンタルは本当にやばかったです。食事もノドに通らないし、夜も眠れませんでした。でも妻と娘に支えられて……。手術は成功しましたし、医師の方はじめ病院の方、支えてくれた妻や娘には感謝しかありません。サッカーもできないかもしれないと思っていたのに、こうやってプレーできているわけですから」

 再発する可能性もあり、定期的に検診を受ける必要があった。病名をしばらく公表しないこともこのときに告げられた。

 ブリーラムで活躍した翌シーズンはバンコク・ユナイテッドに所属。2020年2月にはタイリーグの月間MVPに選出されている。コロナ禍の過密日程にもコンディションを崩すことなく、チームの主力としてレギュラーを張り続けた。

 コンディション管理は徹底という言葉じゃ足りない。試合が終わって深夜にバンコクの自宅マンションに戻ってきてからもプールに入ってウォーキングしている。東南アジア特有の高温多湿にアジャストできたのも、こういった努力があるからだ。

 コンスタントに試合に出て存在感を示した細貝には昨年3月のシーズン終了以降、タイの他クラブや他国のリーグからもオファーは届いていた。しかしながら、体のメンテナンスを優先に置いたことでプレー先の選択に時間を置くことにした。

「やはり膵臓のこともありますから、あと数年しっかりサッカーをやりたいからこそ一度体のことをチェックしたい、と思いました。そうなると少々、(移籍先選びに)時間が掛かるのは仕方のないことだ、と」

 限りある現役生活で「やっておきたいこと」の一つが地元への恩返しとしてザスパクサツ群馬でプレーすること。代理人を通じて、その思いをクラブ側に伝えていた。ただオファーが来るかどうかは分からないため、併行して他国でプレーすることも頭には入れていた。

 プロである以上、報酬は重要である。だが群馬でプレーできるなら、報酬が優先事項ではなかった。

 9月頭に群馬からオファーが届いた。2022年からプレーすることも考えていたが、ピッチからあまりに遠ざかるのも良くないと思い直して「9月までの登録完了」という要請を受諾した。体と相談しながらコンディションを上げていき、11月から試合に出られるまでになった。メンテナンスに時間を掛けた甲斐もあって2022年シーズンは、ほぼ万全に近い状態で開幕を迎えることができた。

 細貝に一つ確認したいことがあった。

 なぜ、病気のことを公表しようと思ったか。

 彼は言った。

「これまで公表しなかったのは、やっぱり心配されてしまうじゃないですか。それが僕としては嫌だった。でも家族や周りの人に相談したら、僕と同じ病気で闘っている人の力にちょっとでもなれるかもしれない、ちょっとでもポジティブになってもらえるかもしれない、と。実際、公表したことで同じ病気の人から『励まされました』というメッセージもいただいています。公表して良かったなとは今、思っています」

 細貝のサッカー人生は困難の連続だ。ヘルタ・ベルリン時代は〝飼い殺し状態〟となり、ストレス性発疹から入院したこともある。日本代表ではワールドカップメンバーに届かず、むしろ悔しい思いをしてきたことのほうが多い。

 だが、いかなる困難にあっても彼は屈しなかった。困難の数だけ強くなった。

 一日でも早くピッチへ。

「今、チームに何も貢献できていないのは事実。リハビリでベストを尽くして頑張ってチームに戻って貢献することだけを考えています」

 大ケガを乗り越えた先、細貝萌はまた一層強くなる――。

スポーツライター

1972年、愛媛県出身。日本大学卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当し、2006年に退社。文藝春秋社「Sports Graphic Number」編集部を経て独立。著書に「岡田武史というリーダー」(ベスト新書)「闘争人~松田直樹物語」「松田直樹を忘れない」(ともに三栄書房)「サッカー日本代表勝つ準備」(共著、実業之日本社)「中村俊輔サッカー覚書」(共著、文藝春秋)「鉄人の思考法」(集英社)「ベイスターズ再建録」(双葉社)がある。近著に「我がマリノスに優るあらめや 横浜F・マリノス30年の物語」。スポーツメディア「SPOAL」(スポール)編集長。

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