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米大統領選挙の深層:大統領選挙の本当の争点は最高裁の支配を巡る対立にある

中岡望ジャーナリスト
最高裁は社会の方向性を決定する。大統領選挙は最高裁の支配権を巡る争いでもある(写真:ロイター/アフロ)

■ トランプ大統領は選挙で保守派の最高裁判事の指名を公約

 2020年の大統領選挙の結果は、アメリカ社会の将来に重大な結果をもたらす選挙である。トランプ大統領が再選されれば、保守派が狙う最高裁の「保守革命」が現実のものになるからだ。日本ではあまり意識されていないが、今回の選挙では最高裁の判事人事が主要課題になっている。世論調査法人ピュー・リサーチ・センターが2020年8月13日に行った「2020年選挙の重要課題」に関する調査によると、最も重要な問題という回答は「経済問題」で、その割合は79%であった。次が「医療保険問題」で、68%。そして第3位に「最高裁人事」が登場し、その割合は64%であった。以下、「コロナウイルス問題」(62%)、「暴力犯罪問題」(59%)、「外交政策」(57%)、「銃規制問題」(55%)、「人種差別・格差問題」(52%)、「移民問題」(52%)と続く。最高裁人事がアメリカの有権者にとってこれほど高い関心事であることは、日本人にはなかなか理解できないことかもしれない。

 こうした有権者の関心の高さに応じるように、トランプ大統領は2020年9月3日に妊娠中絶に反対するプロライフ・グループに書簡を送り、その中で「2016年に私はプロライフを支持する大統領候補として立候補し、ホワイトハウスを勝ち取った。私はわが国の歴史上最もプロライフを支持する大統領であることを誇りに思っている。私は第一期に胎児や母親のために非常に多くのことを成し遂げてきた」とし、「保守派のニール・ゴーサッチ連邦控訴裁判事とブレット・カバノー連邦控訴裁判事を最高裁判事に指名しただけではなく、連邦控訴裁判所、地方連邦裁判所で200名以上の保守派の判事の承認を実現し、連邦司法の改革を進めている」と、連邦判事指名で支持者の期待に応えたことを誇らしげに伝えている。さらに2020年の大統領選挙でも、「憲法を尊重し、法廷で中絶関連の法律の合法化を認めない最高裁判事、連邦控訴裁判事、連邦地方裁判事を指名する」と、新たな公約を掲げている。保守派の連邦判事を増やすと公約することで、トランプ大統領は支持層の動員を図ろうとしているのである。

 さらにトランプ大統領は50項目に及ぶ選挙公約の中に「最高裁と連邦下級裁に保守派の判事を引き続き指名する」ことを掲げている。これに対応するように、2020年9月9日に最高裁判事の候補者リストを発表している。これは7月に最高裁の裁判でトランプ政権の政策や保守主義者が支持する訴訟が相次いで敗北した時に、トランプ大統領は判決に反発し、最高裁判事候補者リストを公表するとツイッターで公言しており、それを実行に移したものである。最高裁判事候補者リスト発表に際して、トランプ大統領は「次の4年間で数百人の連邦判事を選ぶことになる。最高裁では1人、あるいは2人か3人、場合によっては4人の判事を選ぶことになるかもしれない」と語っている。最高裁判事候補者のリストの中には、テッド・クルーズ上院議員、ジョシュ・ホーリー上院議員、トム・コットン上院議員など、共和党の強硬な保守主義者の名前が挙がっている。

■ 最高裁判事の保守派とリベラル派の勢力図

 最高裁は9人の判事で構成されている。現在、保守派の判事は5人(ジョン・ロバーツ主席判事、クラレンス・トーマス判事、サミュエル・アリトー判事、ニール・ゴーサッチ判事、ブレッド・カバノー判事)、直近までリベラル派の判事が4人(ルース・ギンズバーグ陪席判事、スティーブ・ブライヤー陪席判事、ソニア・ソトマヨール陪席判事、エレナ・ケイガン陪席判事)であったが、9月18日にギンズバーグ判事がガンで死亡したため、リベラル派の判事は3人に減り、最高裁の勢力構造は保守派5、リベラル3、空席1に変わっている。

 保守派の判事5人を指名した大統領の内訳は、ブッシュ大統領(父)が1人、ブッシュ大統領(息子)が2人、トランプ大統領が2人である。リベラル派の判事は、クリントン大統領が2人、オバマ大統領が2人を指名し、上院で承認されている。最高裁判事の任期は終身であるため、空席ができない限り、大統領は新判事を指名することはできない。したがって、最高裁判事の空席ができると、リベラル派と保守派は後任を巡って激しい対立を展開することになる。

■ ギンズバーグ判事の死亡で最高裁人事が選挙の重要課題に

 ギンズバーグ判事の死去によって最高裁判事に空席ができた。ギンズバーグ判事は極めてリベラルな判事で、同性婚の合法化に賛成し、自ら同性婚者の結婚式に証人として立ち会った最初の最高裁判事である。通常ならトランプ大統領が3人目の最高裁判事を指名する可能性が強い。ただ2016年5月にオバマ大統領がリベラル派のメリック・ガーランド連邦控訴裁判事を最高裁判事に指名しようとした際、共和党のミッチ・マコーネル上院院内総務が「新最高裁判事は国民の声を聞いて決めるべきだ」と主張し、オバマ大統領の最高裁判事指名を阻止した経緯がある。その前例が踏襲されることになれば、新最高裁判事の指名、承認は大統領選挙後になる。

 ギンズバーグ判事は死亡する直前に「私が最も強く願うことは、新大統領が就任するまで、後任を決めないことだ」と遺言ともいえる言葉を残している。バイデン民主党大統領候補も「新大統領が最高裁判事を指名すべきである。これが2016年に共和党が取った立場であり、現在も上院が取るべき立場である」と語っている。だがトランプ大統領は、数日以内に最高裁判事候補を指名するとの意向を示している。マコーネル上院院内総務も「トランプ大統領が指名したら、上院総会で票決することになるだろう」という声明を出し、11月3日の大統領選挙前に上院で承認する意向を明らかにしている。

 ホワイトハウスに近い共和党支持者は「トランプ大統領とマコーネル院内総務が迅速な対応を取らなければ、共和党支持層は反乱を起こし、選挙で投票にはいかないだろう」と、トランプ大統領とマコーネル院内総務に圧力を掛けている。ただ共和党は決して一枚岩ではない。共和党のスーザン・コリンズ上院議員は「10月中に新最高裁判事を承認するのは性急すぎて反対だ」と、急いで新最高裁判事を承認することに反対する立場を表明している。(9月21日追記ーリサ・モーコウスキー上院議員もコリンズ上院議員に同調する意向を示している。現在の上院の議席数は共和党53議席、民主党47議席である。共和党議員がもう1人、選挙前の最高裁判事承認に反対すれば50対50になる。筆者の予想では、トランプ大統領の弾劾に唯一共和党議員で賛成したミット・ロムニー上院議員が同調する可能性がある=23日追記、筆者の予想に反し、ロムニー上院議員は、トランプ大統領の指名を支持=。ただ、それでも上院の規定では投票数が同数の場合、議長が決定することになる。ペンス副大統領が上院議長であり、このルールが適用されれば、共和党議員が4人反対に回らない限り、新最高裁判事の承認を阻止できない。バイデン候補は、共和党上院議員に対して「投票に際して、党派ではなく、良心に従って投票する」ように呼び掛けている。ちなみにアメリカの政党では、日本の政党のように”党議拘束”は存在しない)。選挙を前に最高裁判事人事が大きな選挙の焦点となるのは間違いない。

 大統領選挙の情勢はトランプ大統領に不利な状況にある。もしトランプ大統領が敗北すれば、保守派は絶好の機会を失うことになる。保守派は大統領選挙前に、トランプ大統領による新最高裁判事指名、そして上院での承認を一挙に行う意向を示している。

 トランプ大統領のもとで保守派の最高裁判事が誕生するのかどうかは、単に技術的な問題に留まらず、アメリカ社会の将来に極めて重大な影響を及ぼすことになる。

■ 最高裁がアメリカ社会の方向性を決める

 最高裁の持つ力は絶大である。日本で最高裁の裁判官の名前を知っている人は皆無といっても過言ではないだろう。だがアメリカでは9人の最高裁判事の名前を知らない人はいない。最高裁判事を含め連邦裁判所の判事の任期は終身である。最高裁判事は政治的中立性を保つために任期が終身となっている。それは4年毎に変わる政権の介入を阻止するためである。最高裁判事は死亡するか、辞任するか、弾劾されない限り、その座に留まることができる。かつて最高裁判事が弾劾された例はない。空席ができない限り大統領は自分の意に沿う人物を最高裁に送り込むことはできない。

 最高裁判事は超然とした存在で、国民からは敬意を込めて「ザ・ナイン」と呼ばれている。それだけに最高裁判事の空席が発生した場合、保守派の大統領は保守派の判事を、リベラル派の大統領はリベラル派の判事を指名し、政治的影響力を行使しようとする。そのため最高裁判事の承認を巡って、保守派とリベラル派の間で激しい闘争が展開されるのが常である。

 ただ最高裁判事は長期にわたって判事の座にあるために、指名した大統領の意に反して、途中からイデオロギー的な立場が変わることもある。たとえばレーガン大統領に指名された最初の女性最高裁判事のサンドラ・オコナー判事は、当初は保守的な立場に立っていたが、やがてリベラル派に変わっていった。とは言え、誰を最高裁判事に選ぶかは、極めて政治的に重要な意味を持っていることに変わりはない。

 過去に最高裁が下した判決がアメリカ社会を大きく変えた例は枚挙に暇がない。代表的な判決には、1876年の「プレッシー対ファーグソン裁判」がある。同判決では、「隔離しても平等であれば合憲(separated but equal)」という判断が下され、黒人の隔離が合法化され、その後の黒人差別を助長する結果を招いた。1954年の「ブラウン対教育委員会裁判」は、公立学校における白人と黒人の共学を禁止することは憲法違反であるとの判決を下している。これによって白人と黒人の公立学校での共学が実現した。同時に、この判決は公民権運動に大きな影響を与えた。

 1964年の選挙における1人1票の原則を確認した「レイノルズ対シムズ裁判」、1973年の女性の中絶権を認めた「ロー対ウエイド裁判」、投票権法を空洞化し、実質的に黒人の投票を阻害する道を開いた2013年の「シェルビー郡対ホルダー裁判」、同性婚を合憲と判断した2015年の「オーバーグフェル対ホッジス裁判」などがある。いずれも議会が制定した法律ではなく、最高裁の判決がアメリカ社会を変えたのである。そうした最高裁に対して、国民の選挙で選ばれていない最高裁判事が社会を変える影響力を行使することに対して批判的な声もあるが、最高裁がアメリカを変えるという構造に変わりはない。

■ 「憲法に反する法律は法律ではない」

 日本の最高裁は政治的な要素が加わる裁判では現状を追認する傾向が強い。時には「違憲状態」などと曖昧な判決を下し、判断を立法府に委ねる。だがアメリカの最高裁は明快な憲法判断を下す。最高裁に留まらず、連邦控訴裁や連邦地方裁も政府の政策に対して明確な判断を下す。そうした伝統は、4代目のジョン・マーシャル最高裁首席判事の1803年の「マーベリー対マディソン裁判」から生まれた。同裁判で、マーシャル主席判事は「憲法に反する法律は法律ではない」との主張を展開。それ以降、法律の合法性に関する最終判断は最高裁に委ねられるようになった。それだけに保守派もリベラル派も、自らの政策を実現するために自分たちのイデオロギーに近い人物を最高裁判事に登用しようと争ってきた。最高裁判事の過半数を得れば、自らの主張に沿った判決が期待できるからである。最高裁は、保守派とリベラル派の「イデオロギー戦争」や「文化戦争」の主戦場になっているといっても過言ではない。

■ トランプ大統領が狙う司法の「保守革命」

 最高裁人事が政策目標になったのは、1980年代のレーガン政権の時からである。それまでは保守派とリベラル派の対立はそれほど激しくはなく、両派が認める中庸な人物が最高裁判事に選ばれることが多かった。だがレーガン大統領は最高裁を含め連邦裁判事に保守派の人物を指名することを公約し、保守派やキリスト教原理主義者であるモラル・マジョリティ運動の支持を得て大統領選挙で勝利した。

 ブッシュ大統領(息子)も同じ公約を掲げ、保守派やエバンジェリカル(福音派キリスト教徒、キリスト教原理主義者)の支持を得て当選を果たした。だがレーガン大統領もブッシュ大統領も民主党が多数派を占める上院の抵抗に会い、保守派の連邦判事の承認を思ったように実現できなかった。トランプ大統領も連邦判事に保守派を指名する公約を掲げた。それが大統領選挙での勝因のひとつとなった。

 トランプ大統領は公約の実現を図る。強硬な保守派で知られるゴーサッチ連邦控訴裁判所判事とカバノー連邦控訴裁判事を最高裁判事に指名し、両判事の上院での承認を勝ち取った時、保守派やエバンジェリカルは喝采の声を上た。さらにトランプ大統領は法曹界を保守派で占拠することを目標に掲げる「フェデラリスト・ソサエティ(Federalist Society)」と密接な関係を構築し、同協会の推薦する人物を連邦判事に相次いで指名した。トランプ大統領は司法における「保守革命」を着実に実現してきた。

■ トランプ大統領は過去最高の保守派の連邦判事を実現

 トランプ大統領は最高裁だけでなく、連邦控訴裁や連邦地方裁でも多くの保守派の判事を指名し、上院の承認を得ている。トランプ大統領は先に指摘した書簡の中で「200人以上の連邦判事の承認を得た」と書いている。ピュー・リサーチ・センターの調査(2020年7月15日、How Trump compares with other recent presidents in appointing federal judges)では、7月7日現在、連邦判事の数は792人いる。7月時点でトランプ大統領が指名し、承認された連邦裁判事の数は194人で、連邦判事の24%を占めている。過去に最も多くの連邦判事を任命したのはオバマ大統領で、その数は312人である。次がブッシュ大統領(息子)の166人。任命数を比較すれば、オバマ大統領がトランプ大統領を上回っているが、オバマ大統領の場合、8年間の数である。これに対してトランプ大統領の任命数は在任期間3年半という短期間での数である。

 さらに連邦控訴裁だけでみれば、トランプ大統領が指名した判事は53人に達している。これはオバマ大統領の30人、ブッシュ大統領(息子)の35人を大きく上回っている。トランプ大統領の連邦裁判事の指名し、承認された数は際立って多い。

■ 上院の審議方法の変化が保守派に有利に作用

 歴代の大統領は自らのイデオロギーに近い連邦判事を任命しようとしてきたが、必ずしも思うように進まなかった。上院での承認を得るのが難しかったからである。与党が上院で多数派を占めても、上院ではフィルバスター(議事妨害)が合法的に認められており、少数派の野党が審議を拒否することで、実質的に大統領の連邦判事候補の承認を拒否することができた。フィルバスターを打ち破るためには上院議員100人のうちのスーパー・マジョリティと呼ばれる60議員の支持が必要である。審議終了、採決動議を成立させ、フィルバスターを阻止するためには60票が必要であるが、民主党と共和党はいずれもそれだけの数の議員の支持を確保することはできなかった。

 オバマ大統領とトランプ大統領が多くの判事を指名し、上院の承認を得ることができたのには理由がある。オバマ大統領はリベラル派の連邦判事を指名したが、上院で共和党がフィルバスターを行使して、承認を妨げた。そのため民主党は2013年に連邦判事の承認手続きでフィルバスターを使えないように上院の審議ルールを変更し、連邦裁判事の承認は多数決で決定されるようになった。ルール変更によってオバマ大統領はリベラル派判事を増やした。だが2014年の中間選挙で共和党は上院の過半数をずっと上回っている。加えて2016年にトランプ大統領が誕生した。その結果、トランプ大統領が指名した連邦判事候補者は簡単に上院の承認を得られるようになり、保守派の連邦判事が急増した。民主党は自ら行ったルールの変更でトランプ大統領の指名した連邦裁判事候補者の承認を阻止できなくなったのである。

■ 大統領権限に拮抗する最高裁の権限

 もうひとつ連邦裁に関する重要な事実がある。この10年で連邦裁の果たす役割がさらに大きくなっていることだ。民主党と共和党の対立で政治は極端なまでに両極化し、議会が機能を果たせなくなっている。両党の対立で議会は実質的に法律を制定できない状況に陥っている。

 議会の機能不全を背景に大統領は議会での審議を迂回して、「大統領令」を出すことで政策を推し進める傾向が強くなっている。ブッシュ大統領(息子)は8年間で291件、オバマ大統領も8年間で276件の大統領令を出している。トランプ大統領は就任から3年半で177件の大統領令を出している。在任期間を考えれば、トランプ大統領がいかに多くの大統領令を出しているかがわかる。

 議会の審議を経て政策が決まるのではなく、大統領が議会の意向を無視して大統領令を出すことで政策運営が行われるのが常態化している。議会は大統領令をチェックする機能を失っている。予算措置を伴う大統領令の場合、予算権は議会にあり、関連予算を認めないことで大統領令をチェックすることは不可能ではない。ただ多くの大統領令は予算措置を必要としないため、実質的に大統領は議会を無視して、大統領令という手段を使って政策を自由に実施できるのである。

 大統領権限が肥大化し、議会の役割が低下している。本来なら議会が果たすべき大統領の政策をチェックする機能は、現在、連邦裁に移っているのである。大統領は無制約ともいえる状況で大統領令を出すことができる。それを阻止する唯一の方法は、連邦裁で違憲訴訟を起こすことだ。実質的に連邦裁が政策の是非を判断しているのである。たとえば移民規制に関する大統領令の幾つかは、連邦地方裁で違憲判断が下されている。連邦裁は極めて重要な役割を担っているのである。訴訟は最終的に最高裁で判断が下される。そのため最高裁判事の人事は極めて重要性なのである。

■ ロバーツ主席判事の変心で挫折した保守派の思惑

 トランプ大統領のもとで保守派判事が最高裁の過半数を占めるようになったが、必ずしも政府の思い通りの判決が出ているわけではない。最高裁の開廷期間は10月の第1月曜日に始まり、翌年の7月初まで続く(これをSupreme court yearという)。それ以外の期間で最高裁は審理を行わない。

 2019年10月に始まる最高裁の開廷を前にリベラル派は陰鬱たる雰囲気に包まれていた。保守派が過半数を占め、しかも強硬な保守派とみられるゴーサッチ判事とカバノー判事の二人が初めて最初から審理に参加するからである。女性の中絶権の制限や同性婚の規制、性的少数者に対する規制、銃規制の緩和、大統領権限の拡大、宗教的自由の拡大などを求める保守派やエバンジェリカルは、最高裁で自分たちの主張が認められることを期待していた。期待通り、保守派の意向に沿う判決が多く下された。だが最高裁が休廷に入る7月初めにかけ雰囲気が変わった。最高裁が保守派の主張を退ける判決を相次いで出したからである。

 ペンス副大統領は、判決でリベラル派についたロバーツ主席判事を「最近の幾つかの最高裁判決でリベラル派に加担し、保守主義者を落胆させた。彼は保守主義の大義を裏切った」と公然と批判した。トランプ大統領もツイッターで「最近の最高裁の判決は新しい最高裁判事が必要であることを我々に語っている」と、大統領選挙に向けて次期最高裁判事候補のリストを提出すると語っている。ロバーツ主席判事はブッシュ大統領(息子)が2005年に指名した保守派の判事である。当初は陪席判事(associate justice)であったが、就任直後に前任の主席判事が死亡し、その後任として主席判事に昇格した人物である。中絶に関する「ロー対ウエイド裁判」にも批判的な人物で、保守派の判事だとみられている。

 ただロバーツ主席判事は必ずしも裁判においてイデオロギー的な立場に拘泥している人物ではない。2012年にオバマケアは憲法違反であるという訴訟「NFIB対セベリアス裁判(National Federation of Independent Business v. Sebelius)」が起こされた。当時、共和党や保守主義者はオバマケア廃止を強く主張していた。これに対して最高裁は5対4で、議会に個人の強制的な保険加入を決める権限があるという判決をくだした。オバマケアを合憲だと判断したのである。その判決文を書いたのがロバーツ主席判事である。2016年の大統領選挙でトランプ候補はオバマケア廃止を公約に掲げ、オバマケア廃止法案を提出したが、現在に至るまで公約を実現するに至っていない。ロバーツ主席判事は、法曹界の保守主義者の集まりである「フェデラリスト協会」に対しても一定の距離を置いており、イデオロギーよりも裁判官として法理論の忠実な能吏の面も強く持った人物である。

■ 保守派が敗北した重要な訴訟

 中絶禁止を目指す保守主義者は敗北を味わった。2020年6月に判決が出た中絶に関連する訴訟「ジュン・メディカル・サービシーズ対ルッソ裁判(June Medical Services, LLC v. Russo)」で、最高裁は中絶を行う医師は近隣病院の許可を得ることを義務付けているルイジアナ州の法律を違憲と判断した。保守派判事の中で唯一ロバーツ主席判事だけが同判決を支持した。

 「ロー対ウエイド裁判」で女性の中絶権は認められたが、現在、多くの州は中絶を制限する様々な法律を制定している。保守派やエバンジェルカルは、同判決を覆し、いかなる状況でも中絶を禁止しようと、州レベルで様々な反中絶法案を成立させようとしている。たとえばルイジアナ州議会は胎動が始まった胎児の中絶を禁止する法案を可決している。アラバマ州議会は強姦を含め、どんな理由であろうとも中絶を禁止する法案を可決している。保守派が最高裁判事の過半数を占めている今こそ、そうした目標の達成が現実味を帯びてきていた。だが最高裁の判決で保守派は大きく躓いた。

 さらにトランプ大統領の最優先政策のひとつである不法移民の子弟を保護する「DACA(Deferred Action for Childhood Arrival:若年移民に対する国外強制退去の延期措置)」の廃止を巡る「国土安全保障省対カリフォルニア大学理事会裁判」でも、ロバーツ主席判事はDACA廃止を認めない判決を支持している。さらにLGBTQへの雇用差別を巡る「ボストック対クレイトン裁判」でも、公民権法は性的少数者の雇用差別を禁止しているという判決を支持している。こうしたロバーツ主席判事の一連の判断に対してニューヨーク・タイムズ紙は、「ロバーツ主席判事は1937年以来、どの主席判事も果たしえなかった役割を果たした」(7月10日の記事)と高く評価している。

 ロバーツ主席判事は保守とリベラルが対立する訴訟でキャティング・ボートを握っているといえる。だがトランプ大統領がギンズバーグ判事の後任に保守派の判事を指名し、保守派判事が6人になれば、ロバーツ主席判事の判断とは関係なく、保守派判事主導の判決が下されることになるだろう。

■ 最高裁の保守派優勢は変わらず

 DACA廃止を阻止し、性的少数者の雇用を守るということでは、リベラル派は勝利したが、この1年に最高裁が下した判決全体で見れば、保守派が勝利した訴訟の方が多い。たとえば「リトル・シスターズ・オブ・ボア―対ペンシルベニア州裁判」では、最高裁は宗教的理由から雇用者が避妊・中絶費用を負担しなくても合法であるとの判決を下している。アメリカの医療保険制度では雇用者が保険の一部を負担することになっている。しかしエバンジェリカルは、中絶は言うまでもなく、避妊も否定しいる。そうした宗教的信念を持つ雇用者が中絶や避妊の費用を負担することを拒否する出来事が出てきている。

 エバンジェリカルの主張する「宗教的自由(religious liberty)」とは、キリスト教徒は宗教的信念に基づいて行動する自由があることを意味する。たとえば2018年の「マスターピース・ケーキショップ対コロラド州公民権委員会裁判」では、宗教的理由から同性婚に反対するケーキ店が同性婚カップルから依頼のあった結婚式で使うウエディング・ケーキの注文を拒否し、その合憲性を巡って争われた。最高裁は、一般的に差別と思われる事柄でも、それが宗教的信念に基づいている場合、宗教的自由として容認されるべきだと判断したのである。同裁判では、最高裁は7対2で「信教上の理由による同性婚への反対は保護される」として、ケーキショップの主張を支持している。2019年にオレゴン州でキリスト教徒のケーキ職人が同性愛者の結婚ケーキの注文を断った裁判で、最高裁はオレゴン州控訴裁判所の判決を覆して、宗教的自由を認める判決を下している。

■ 保守派の主張に傾く最高裁の判決

 もうひとつの保守派が勝利した訴訟は「アワ・レディ・オブ・グアダルーベ・スクール対モリッセイ・ペール裁判」である。カトリック系の学校で働く職員(裁判の原告は教師)に対して雇用差別規制関連の法律が適用されるかどうかを巡って争われた。これに対して最高裁は、宗教組織で働く労働者に対して労働関係法は適用されないとの判断を下した。要するに宗教的な組織で働くことは通常の労働は通常の労働と違うと判断したのである。これは保守的な宗教組織にとって革命的な勝利ともいえる。

 「エスピノザ対財務省裁判」がある。アメリカでは教会や教会関連の組織、活動に公的資金の交付を憲法修正第1条の「政教分離の原則」に従って禁止している。この裁判では、宗教系の学校の学生に対して公的な奨学金を供与することの合法性を巡って争われた。最高裁は宗教系の学校の学生に奨学金を供与することは合憲であると判断した。これは「宗教的自由」を主張する保守派やエバンジェリカルの勝利であった。この判決で「政教分離の原則」が揺るぎ始めたといえる。

 もうひとつ紹介すると、「サウライスギアン対国土安全保障省裁判(Thuraissgian v. Department of Homeland Security)」がある。この裁判は国土安全保障省がスリランカからの亡命者の強制送還を巡って争われた。最高裁は原告の強制送還を認めると同時に、亡命者が連邦控訴裁判所へ控訴をする権利を否定した。これは移民規制を強化するトランプ政権にとって大きな勝利であった。

 最高裁の判決ではないが、9月14日に連邦地方裁はペンシルバニア州のトム・ウルフ知事がコロナウイルス関連で出した自宅待機や集会の人数制限、生活に必需でないビジネスの営業禁止措置を憲法違反であるという判決をくだした。保守派やエバンジェリカルは、こうした措置や、教会での礼拝禁止措置は個人の自由を侵害するものであると全国各地で訴訟を起こしている。本判決は保守派やエバンジェリカルの主張を支持するものである。

■ 2020年の大統領選挙と最高裁の行方

 大統領選挙との関連で最高裁は厳しい選択に直面する可能性がある。それはトランプ大統領が選挙で敗北した場合、選挙で不正があったとして敗北を認めないと予想されるからである。通常、投票が終わると、即日開票で最終結果が出ない段階で、劣勢に立たされた候補者は「敗北宣言」をするのが慣例である。現職の大統領が敗北した場合、新大統領への政権移行に協力する意向を示す。だがトランプ大統領は敗北宣言を拒否し、政権移行の手続きを拒否する可能性が強い。2000年の大統領選挙で民主党のアル・ゴア候補はフロリダ州の投票の再集計を求める訴えを出した。同州の結果次第でゴア候補がブッシュ候補を破る可能性があったからだ。訴訟は最高裁に持ち込まれ、最高裁は再集計を拒否する判断を下し、ブッシュ候補の当選が確定した事例がある。もしトランプ大統領が選挙無効を訴えた場合、保守派が多数を占める最高裁はどう判断を下すのだろうか。

 また上院の選挙結果で最高裁判事の人事を巡る状況は大きく変わる。RealClearPoliticsによれば、上院選挙の状況は非改選を含めて共和党と民主党がそれぞれ47議席を確定している。残りの6議席を巡って激しい選挙運動が展開されているが、6選挙区のうち共和党が5選挙区でリードしている。予測通りになれば、最終的に上院の議席は民主党48議席、共和党52議席となり、共和党が過半数を維持することになる。上院はトランプ大統領が指名した最高裁判事候補者を躊躇することなく承認するだろう。

 トランプ大統領は、ギンズバーグ判事の後任だけでなく、アメリカのメディアはリベラル派のスティーブン・ブライヤー判事の辞任を予想しており、4人目の最高裁判事を指名する可能性もある。そうなれば保守派の最高裁判事が6人、または7人になり、法曹界の保守派が夢見る最高裁の「保守革命」が現実のものになる。そうなればエバンジェルカルが熱望する「ロー対ウエイド裁判」の判決が覆され、中絶が全面的に規制される事態も起こりうる。宗教的自由の解釈もさらに拡大されるだろう。最高裁判事の任期は終身であり、4年後にトランプ大統領が去っても、保守派の最高裁判事は長期にわたってその地位に留まることになる。

 バイデン候補が勝利しても、保守派が多数を占める最高裁を変えることはできない。長期にわたって民主党政権は最高裁に苦しめられることになるだろう。こうした事態に対して民主党内では、最高裁判事の数を9人から増やす案も浮上している。それは1930年代にフランクリン・ルーズベルト大統領がニューディール政策の基本政策を違憲と判断した最高裁に反撃するために採用した戦略である。最終的に最高裁はルーズベルト大統領の脅しに屈した。ただ、その戦略が可能だったのは、民主党が上院と下院で圧倒的な議席を持っていたからである。共和党が上院を支配している限り、そうした奇策は通用しないだろう。

 最高裁の保守化はアメリカ社会の保守化を促進することになる。大統領選挙はどちらの候補が勝つかだけでなく、アメリカ社会の方向性を決定する選挙なのである。

9月21日追記〉民主党はトランプ大統領による後任の最高裁判事指名、上院共和党の承認という手続きを阻止することは難しいだろう。新体制の最高裁で再びオバマケアの合憲性を巡る訴訟が起こされる可能性がある。極論すれば、リベラル派が支持する法律がことごとく最高裁で憲法違反という判決が出るかもしれない。バイデン政権が誕生しても上院の共和党多数派の状況は変わらず、議会での法案の成立は厳しいうえ、最高裁でも民主党政権の政策が阻止されることになるかもしれない。

9月21日追記〉ロイター通信が9月19日~20日に行った調査では、回答者の62%が選挙後に新最高裁判事を承認すべきだと答え、23%が選挙前の承認を支持している。党派別では、民主党支持者の80%、共和党支持者の50%が選挙前の承認に反対している。

ジャーナリスト

1971年国際基督教大学卒業、東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)、東洋経済新報社編集委員を経て、フリー・ジャーナリスト。アメリカの政治、経済、文化問題について執筆。80~81年のフルブライト・ジャーナリスト。ハーバード大学ケネディ政治大学院研究員、ハワイの東西センター・ジェファーソン・フェロー、ワシントン大学(セントルイス)客員教授。東洋英和女学院大教授、同副学長を経て現職。国際基督教大、日本女子大、武蔵大、成蹊大非常勤講師。アメリカ政治思想、日米経済論、マクロ経済、金融論を担当。著書に『アメリカ保守革命』(中央公論新社)など。contact:nakaoka@pep.ne.jp

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