闇営業、コンビ解散、これからの思い。宮迫博之が語る今
2019年6月の“闇営業”騒動を境に人生が様変わりした宮迫博之さん(52)。吉本興業退所、YouTubeへの進出、「雨上がり決死隊」の解散、飲食業への挑戦などこの3年弱であらゆる経験をしました。環境の劇的な変化、現状への逡巡、そして元相方・蛍原徹さんへの思い。一言一言嚙みしめるように、これまで明かさなかった胸の内を語りました。
普通じゃない顔
これまでも、人生いろいろあった人間やと思ってきたんですけど、ここ何年かは本当にいろいろありました。
先月、焼肉のお店をオープンさせたので、今はそこに注力することが軸になってはいるんですけど、YouTubeも出力を下げずにやっています。止まるわけにはいかないので。
この一年ほどでも、いろいろありました。去年からは焼肉店のことも加わってきて、自分が感じている以上に自分に負荷をかけていたのかもしれませんね。周りから見たら普通じゃなかったんだろうなと思うこともありました。
だいぶ焼肉店のことで煮詰まっていた時期だったと思うんですけど、事務所で打ち合わせをして、いつも通り自宅まで歩いて帰ろうとしたんです。
疲労困憊ではあったんですけど、学生時代にサッカーの中盤をしていたので視野の広さは残っていて(笑)、少し離れてスタッフがついてきているのには気づいてたんです。
「何しにきてるんや」と思っていたら、歩道橋をのぼったところで、スタッフが一気に距離を詰めてきたんです。
そこで状況がつかめたというか「オレ、周りから見たら『何かバカなことをするんじゃないか』と思うような顔してたんや…」と気づきました。
そこで我に返って「アホ!」とツッコミましたけど、スタッフが心配になるくらい、普通じゃない顔をしてたんやなと。
まずは2019年6月からの闇営業騒動。そして、去年のコンビ解散。そこに焼肉店のオープンも加わって、だいぶ滅入ってたんでしょうね。
自分でも「疲れてるなぁ」とは思ってたんですけど、自分が感じている以上に限界やったのかもしれません。そもそも、身から出た錆なんですけどね。
解散
特に解散は、本当にいろいろと思うところがありました。長い間「雨上がり決死隊」としてやってきただけにね。
ここまでコンビをやってくれて、もちろん感謝なんですけどね。…なんでしょうね、蛍原さんには昔からものすごく迷惑をかけてきたので。
これはね、ずっと、ずっとです。ホンマにずっとです。どれだけ僕の代わりに頭を下げてくれたのか。それはもう、数えきれません。これだけの時間、よく一緒にいてくれたなと思います。もちろん、ショックはショックですけど。
若い頃、僕は時間にルーズで、夜通し飲んでサウナで寝てしまいNGK(なんばグランド花月)の出番を飛ばしてしまう。そんなことが何回もありました。
一番の若手が大遅刻で来ているわけですから、どれだけ平謝りしても足りないんです。けど、何なんでしょうね。トガっていたというか、純粋にアホやったんでしょうね。遅れてきてるのに、僕は逆ギレというか、カンカンに怒ってるんです。
正確に言うと、怒気を発することで周りからヤイヤイ言われにくくするというか。ただ、そんなもん、もちろん何の根本的な処置にもならないわけです。結局、きちんと謝って、頭を下げるしかない。
でも、僕がそんなんですから。相方が、…蛍原さんが謝ってくれてるんです。劇場のスタッフさんや出番を代わっていただいた師匠たちに。
そらもうね、アホそのものです。トガっていたというか、もう反り繰り返ってました。そんな僕の尻拭いをし続けてきてくれたわけですから。ホンマに、しんどかったと思います。
今ね、蛍原さんが出ているテレビを見ていると、すごく楽しそうやなと感じるんです。顔が変わったと思います。僕が言うのもアレなんですけど、楽なんかなと。もう荷物を背負わなくていい。それによる変化なのかもしれませんけど、逆に考えると、これまでやっぱり苦労をかけてたんやなと改めて感じています。
解散の理由、どうなんでしょうね…。もちろん、いろいろと話してきました。ただ「これです」という明確な理由は聞いていないかもしれない。蛍原さんからの申し出があって、それを僕が受け入れた。その流れは間違いないんですけど。
一つ言えるのは、これまでは僕が勝手にコンビのことを決めてきました。そして、蛍原さんは僕の意見を尊重してくれました。コンビの方向性、新たな仕事を受けるかどうか、今の仕事を辞めるかどうか。僕の意見が常に先にあって、蛍原さんはそれを受け入れてくれる。今回だけ、逆でした。
2019年にああいう騒動があって、吉本興業も退所することになった。それでもコンビを解散するとは言わずにいてくれたのに、僕がYouTubeを始めることになり、幾重にも勝手に走っていってしまった。
蛍原さんはいろいろいろいろ考えて「舞台から一緒に」ということを言ってくれていました。でも、僕は止まることができない人間なので、後ろを振り向くことなくどんどん走っていった。いろいろ考えてくれていたのに。
そら、そうなったら、ついていけないですよね。僕が逆の立場でもついていくことはなかったと思います。
なぜそこで振り向かなかったのか。止まらなかったのか。その余裕がなかったのも事実ですし、僕がそんな人間やというのもあったし、走るしかなかったというのもあったと思います。
「それでも走らなアカン」。当時の僕はそう思ったんですよね。
今の蛍原さん、本当に良い顔になったと思います。その顔を見ると、いろいろ感じます。30年、一緒にいましたからね。
換気扇の下
今は焼肉店のこともやってますが、それでもほぼ毎日動画撮影はしています。動画の企画も考えないといけないし、YouTubeに多くの時間を費やしているのがルーティンになっています。
テレビに出ていた時代に比べて、自分が関わらなければいけない領域は増えましたね。チャンネルの方向性や動画の企画構成などもスタッフと一緒にミーティングを重ねています。
テレビの番組とは違い、自分のチャンネルなので自分で動いて、考えて、責任を取る。そのやりがいと大変さを感じています。
あとは、会う人がガラッと変わりました。テレビ時代は毎日のように周りに腕のある芸人さんがいて、お仕事とはいえ、これでもかと腹を抱えて笑っていたなと。
今は今で自分の責任でやりたいことができている。それはとてもありがたいんですけど、腹を抱えて笑う回数は純粋に減りました。
あとね、僕は落ち込んだら台所の換気扇の下でタバコ吸いながらハイボールを飲むのがクセというか、昔からのムーブみたいになっているんですけど、その時間は増えたと思います。
吉本を辞めた時も、解散の時も、焼肉で動いていた時も、家ではほぼ換気扇の下にいました。
ウチの換気扇は古いタイプなので、スイッチを入れると「ゴーッ!」とすごい音がするんです。それを“強”にすると、さらに音が大きくなる。本当にうるさいので、その音でモノが考えられなくなるんです。その下でタバコを吸いながら、缶のハイボールを飲む。
ただ、その時間がどんどん長くなっていくと、空き缶がすごい数になるんで、途中から業務用のウイスキーを買ってきて、自分でハイボールを作って飲んでました。エエ悪いじゃなくそれがホンマの話です。換気扇に救われてきました。
これからの自分
これから何を目指していくのか。それでいうと、もともと松田優作さんにあこがれて、役者がやりたくてこの世界に入ったんです。
なので、自分の劇団を作って、最終的には劇場も建てたい。それが今思っていることですし、これは必ずやると決めています。
元気に動ける間にやらないとダメですし、今52歳なので、どれだけ遅くとも60歳までには実現する気でいます。
テレビの世界に戻る、すなわち、相方の横に戻る。それが当初の目的だったんですけど、今は何が何でもテレビということではないかなと。もちろん、オファーをいただければ出たいんですけど、そこに固執することはないかなと。
いつか時間が経った時に、いろいろな縁が重なって蛍原さんとまた一緒にやることになる。そんなミラクルみたいなことが起これば、何かが変わるのかもしれませんけど…、ま、それはない。ないですね。
今は焼肉屋さんなんでね。焼肉屋さんの中では面白い方だとは思うので、そこも生かしながら頑張っていこうと思っています。
少なくとも、たむらけんじよりは絶対に面白いんで(笑)。それで言うと、たむけんより面白い一般の焼肉屋さんは結構な数いるとは思いますけど(笑)。
たまにコメント欄とかに「元芸人」と書かれていたりもするんです。でも、いろいろありましたけど、芸人を辞めたということはないですから。これからも芸人として、宮迫博之として前に進んでいく。そう考えています。
■宮迫博之(みやさこ・ひろゆき)
1970年3月31日生まれ。大阪府出身。大阪NSC7期生。89年、蛍原徹とお笑いコンビ「雨上がり決死隊」を結成する。コンビとしてABCお笑い新人グランプリ優秀新人賞、上方お笑い大賞銀賞、上方漫才大賞新人奨励賞などを受賞。また「FUJIWARA」「ナインティナイン」らとのユニット「吉本印天然素材」として人気を博す。お笑いのみならず、俳優としても活動し、フジテレビ系「救命病棟24時」、映画「20世紀少年」など出演多数。2012年、早期胃がんの手術を受けた。テレビ朝日「アメトーーク!」、TBSテレビ「炎の体育会TV」、ABCテレビ「松本家の休日」などに出演していたが、2019年6月に起こった“闇営業”騒動により所属していた吉本興業を退所。以降、YouTubeを主戦場として活動を行い、現在「宮迫ですッ!」はチャンネル登録者数138万人。今年3月1日に東京・渋谷に焼肉店「牛宮城」をオープンさせた。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】