「半端ない」特需の「トータルテンボス」が語る「ハンパねぇ」への思い

「トータルテンボス」の大村朋宏(右)と藤田憲右

 サッカーワールドカップ・ロシア大会のコロンビア戦で決勝ゴールを決めた日本代表・大迫勇也選手を称える「大迫、半端ないって」。このフレーズが世の中を駆け巡る中、ネタの中で15年以上「ハンパねぇ」をフル活用してきたお笑いコンビ「トータルテンボス」にも注目が集まっています。ボケの大村朋宏さん(43)へのツッコミとして藤田憲右さん(42)が出したワードが「ハンパねぇ」。藤田さんは「また、いつもの『ハンパねぇ』かと思われているんじゃないかと、実はここ数年は使う頻度を落としていたんです。でも、まだまだ知られていなかったことを今回のことで痛感しました(笑)」と自虐的に語りますが、21年にわたるコンビの歴史で「ハンパねぇ」というフレーズが果たした役割は、それこそ半端ないものでした。

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「正確には『半端ない』ですから」

大村:コロンビア戦の後、たまたまツイッターを見てたら、どうも「半端ない」というフレーズがたくさん出ているなと。その中で、かなりのお笑い好きの方が最初はごく少数「これって、もともとは『トータルテンボス』だよな」みたいなことを書いてくださっていて。その数が、ツイッターを見るたびにどんどん増えていくんです。もしかしたら、これは大きな波が来たのかなとその時に感じました。

藤田:僕もはじめは「半端ない」という言葉の文脈というか、意味が全く分かってなくて「大迫選手が言った言葉なの?」くらいの認識だったんですけど、調べてみると、なるほどそういうことかと。なので、あえて僕もシャレで「大迫、ハンパねぇ」ってツイッターでつぶやいたら、全然知らない人から「正確には『半端ない』ですから」とコメントで訂正が入りまして(笑)。実は、ここ数年はあんまり多投したら「また『ハンパねぇ』かよ…」と思われるんじゃないかと、使うのを控えたりもしていたんですけど、なんのことはない。まだまだ知られてないんだと思い知りました(笑)。

大村:それが現実だったんですね(笑)。

きっかけは「オールザッツ漫才」

藤田:1998年からコンビで活動していて、デビューの少し後くらいから劇場とかでは「ハンパねぇ」というフレーズは使ってたんです。ただ、それが大きくはねたのは2003年の年末です。毎年放送されている「オールザッツ漫才」(MBSテレビ)で、爆発的に「ハンパねぇ」がウケまして。

大村:もう少し流れを説明しますと、僕らが出た2~3年前から、大阪バリバリの空気でやっている「オールザッツ-」では東京勢がことごとくスベるというのが、ある意味、恒例化してまして。なので、なかなか東京から芸人が行きたがらない。そこで「どうせウケないなら、とことん東京のニオイがするコンビを派遣しよう」と会社(吉本興業)が考えたみたいで、僕らが行くことになったんです。当時、僕らも“渋谷系漫才”なんて言われたりもしてましたし、その色が強いということで選ばれたみたいで。

藤田:もちろん、僕らも「オールザッツ-」の状況は知ってますから、最初は怖いというか、イヤだなぁとも思いました。でも、もう行く前日には完全に開き直りまして。行きの新幹線でも「ヨシ!こうなったら、ギネス記録くらいスベろう!真空状態くらい、シーンとさせよう!」と逆の意味で腹をくくりました。

大村:ランナーズハイならぬ、スベリーズハイになるくらいスベろうと(笑)。

藤田:となると不思議なもので、その覚悟でいってるから、心が揺るがないじゃないですか。舞台に出たら、ウケちゃったんです。ものすごく!トーナメント形式のお笑いバトルだったんですけど、1回戦、2回戦、3回戦とどんどん勝ち抜いていきまして。

大村:ただ、困ったのが「勝つプラン」は完全にありませんでしたから(笑)。1回戦で木っ端みじんに散る。それしかシミュレーションしてなかったので「さぁ、どうする…」となって。

藤田:ネタも用意していないし、考える場所もないし…。お客さんも入ってくるスタジオ横の普通のトイレで必死にネタを考えて、練習して、2回戦、3回戦とやってました。練り上げたネタなんてないですから、とにかくオレが大村に「ハンパねぇ」を連発する。もう必死の展開だったんですけど、それがまたガンガン盛り上がりまして。ただ、さすがに準決勝で完全に案もネタもパワーも枯渇して…。もう完全に出し切ってしまったので、対戦相手の「千鳥」に「頼むから、オレたちを負かしてくれ…」とネタの前に言いました(笑)。その時、初めて「千鳥」としゃべったんですけど、向こうからしたら「…何というお願いだ。この人たち、頭おかしいのか」と思ったそうです(笑)。ただ、それくらい想定外のことが起こっていて、それを起こしたのが「ハンパねぇ」だったんです。

大村:絶対にウケないと思っていた大阪でウケた。しかも、爆発的にウケた。これは、とんでもなく大きな自信になりましたね。

藤田:実際に仕事が増えて目に見えて変わった転機でいうと、04年の「M-1グランプリ」決勝進出だと思うんですけど、そこへの道を作ってくれたというか、一歩を踏み出させてくれたのは「オールザッツ-」での「ハンパねぇ」でした。

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解散決意から漫才へ

大村:その自信ができたので「よし、04年は『M-1』をしっかりと狙いに行こう!」と思って、自分たちからウワサを広め始めたんです。「どうやら『トータルテンボス』のネタが仕上がっているらしい」と(笑)。3カ月くらい経ったら、楽屋で先輩から「お前ら、仕上がってるらしいな」と言われまして。お、一周まわって戻ってきたと(笑)。それだけまわってきたということは、いろいろな方の耳にその話が入っているということだし、それがやっぱり人間なので深層心理に何らかの影響を与えたのかなと。ま、今から考えたら、なんとも思い切った、リスキーな作戦でもあったんですけど、そんなことをやろうと思えたのも「オールザッツ-」での手ごたえがあったからだったんです。

藤田:「ハンパねぇ」をきっかけに、たくさんの方々に知ってもらうことができましたけど、そこに行くまでも、なかなかの道のりでした。デビューして、最初は同期の中でもポンポンといけた方で、若手の中ではスムーズに上がっていけたんです。3年目、4年目くらいまで。ちょうどその頃に、大村が「辞める」と言い出しまして。

大村:今では皆さん売れてますけど、当時は本当に面白い人たちがまだ全く売れてなかったんです。「次長課長」さん、「サバンナ」さん、「ブラックマヨネーズ」さん、「チュートリアル」さん、「野性爆弾」さん、「フットボールアワー」さん…。「こんな人たちが売れてないのに、オレたちが売れるのはいったいいつになるんだ。ここで辞めるのも賢い選択ではないのか」という考え方になりまして。

藤田:オレとか、当時の大村の彼女、今の奥さんですけど、一緒になって説得したんですけど、決意は本当に固かったです。

大村:親だとか彼女、そういう人間にも迷惑をかけてしまっている。そんな思いがあって、見切りをつけるべきじゃないかと。さらに、地元の連れで、IT系で当てたヤツがいまして。月に400万円とか稼いでるんです。一緒に遊びに行っても、そいつが全部払ってくれる。ありがたいのかもしれないけど、ずっと「これでいいのか」という焦りが渦巻くようになってきたんです。

藤田:説得しても聞く耳を持たない。じゃ、もう辞めるしかない。だったら、もちろん会社に報告にも行かないといけないし、当時、本当にお世話になっていた劇場「ルミネtheよしもと」の支配人に言いに行ったんです。そうしたら「調子いいのに、本当に辞めるのか?支配人としてお前らだけをひいきすることはできないけど、一人の人間として言わせてもらうなら、オレは本当にもったいないと思う」と言ってくださいまして。

大村:その言葉はうれしかったですね…。そこで、もう一回頑張ろうと思ったんです。

藤田:そのタイミングで支配人から「君ら、コントしかやってないだろう?『M-1グランプリ』という漫才の大会も今年から始まるから、一度、漫才をやってみないか」と声をかけられたんです。

大村:それまでは“ボキャブラブーム”もあって、だいたい若い世代はコントが主流。どちらかというと「漫才は古臭い」なんてことを言ったりもしてたんですけど、僕らで言うと、心の奥底では「漫才は関西のもの。静岡生まれのオレたちができるわけない」という思いにフタをして、斜に構えて、カッコつけて、否定するみたいな感覚だったんです。本当に正直な話で言うと。ただ、支配人にせっかく言われたし、一度、やってみようかと。そうしたら、劇場の中でのお笑いバトルでも、どんどん漫才で勝ち上がっていけるんです。自分たちには無理だと思っていた漫才ができている。しかも、それで勝ち進めてもいる。さらに、コントはキャラクターになって笑わせていたけど、漫才は大村と藤田で笑わせている。その喜びと気持ち良さもあって、漫才にシフトしていきました。

自分の言葉で

藤田:ま、確かに、ウケてたんですけど、本当に、本当に、厳密にいうと、僕と大村とでは感覚の違いもあったんですけどね。ネタは大村が書くので、大村は自分が考えた自分の言葉でしゃべっている感覚が強いけど、僕からしたら、大村が書いたセリフをツッコミ役として演じているだけだから、本質的にはこれまでのコントと同じという感覚もあったんです。

大村:それと、藤田のルックスがこんな感じで迫力があるので、ネタを書く僕としたら「その上、普段みたいな荒々しい若者言葉だったら、お客さんがひいちゃうんじゃないか」という考えもあって、あえて角を取った、丁寧な言葉でのツッコミを書くようにもしてました。

藤田:僕としたら、漫才になったとはいえ、変わらず大村が作ったセリフを言っているだけ。そんなことで、よりフラストレーションがたまってきてた部分もあって、ある日、言ったんです。「自分の言葉でつっこませてくれ」と。そして、普段しゃべるような「ハンパねぇ」とかのフレーズを使いだしたら、それがまたすごくウケたんです。僕としてはそこで初めて「藤田として笑いを取った」という感覚になって、とにかくそれがムチャクチャ気持ち良くて!明らかに自分の中では、そこが一皮むけた瞬間でした。それが「オールザッツ-」につながり、翌年の「M-1」につながっていったんです。

大村:「M-1」に出てからは、コンビの紹介文みたいなところにも、必ず「ハンパねぇ」というフレーズを入れていただいたりするようにもなりましたしね。

「M-1」ロス

藤田:ただ、さっきも言わせてもらったみたいに「ハンパねぇ」をあまりにも多投しすぎなんじゃないか。もうお客さんはお腹いっぱいなんじゃないか。そんな葛藤も一時期ありました。それは、今回の大迫選手の流れで、完全なる杞憂だと分かったんですけど(笑)、他にもいろいろと僕の中では揺れてきました。この10年近くは。2007年にキャリア的に「M-1」の出場資格がなくなって、完全に目標を失ったんです。漫才の全国ツアーをするのも、舞台に立つのも、正直「M-1」で優勝するためにやっていた。それがひいては、お客さんのためにもなるという思いもありましたけど、とにかく目標は「M-1」優勝。その一点だったんです。それがなくなって、さぁ、どうしたらいいのか。それでも漫才をやった方がいいのか、テレビへのシフトを目指した方がいいのか。揺れまくってました。いくら「お客さんのためにやるんだ」と頭で思っても、本当に正直な話、心の奥の思いと合致していないから板についていないというか…。

大村:実際、揺れてたし、その頃は本当によくケンカもしましたね。

藤田:ツアーにしても、当時は「それは大村が勝手にやってるだけだろう!」と強く当たったりもしてましたね…。「オレはやりたくないんだよ!」と。

大村:「M-1」に関しては、そりゃ、僕も“M-1ロス”的な思いはありましたけど、やっていくしかないですからね。漫才師として「ハンパねぇ」とか、そういうフレーズだとか、キャラでやっていくのは若さゆえの特権を生かしたものですから。僕たちも歳をとっていって、年齢に応じた漫才をやっていかないといけない。それは急には無理なことだから、ツアーをやって、積み重ねをして、少しずつやっていくしかないんだろうなと。

藤田:大村に背中を押されて、いろいろな思いはあるけど、それでも、やって、やって、やって。やっと一昨年くらいから「これは自分のためでもなんでもなく、お客さまのためのものなんだ」ということを芯のある言葉で言えるようになりました。

大村:正解はないけど、やっていくしかないからね。

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相方への思い

藤田:20年以上、一緒にやってきましたけど、なんでしょうね。相手にないものを、互いが持っている。それが、いいんでしょうね。僕がやりたくないことを相方はやれるし、その逆もそうだし。相方は流れを読むし、僕は計算なくグッと前に出る。僕みたいな人間が二人いたら、とっくに破綻してたでしょうしね。

大村:僕からしたら、藤田は喜怒哀楽もハッキリしているし、分かりやすいし、とんでもないこともしますし。それが面白い。そういうのが今の時代に合わないところもあるのかもしれませんけど、それもまた面白いと思います。本当に“ザ・人間”だなと。

藤田:オレが“ザ・人間”なら、お前は“ザ・コンピューター”になるんだろうな(笑)。

大村:一時期、コンピューターを相方に漫才をされていたぜんじろうさんじゃないんだから!

藤田:期せずして、ハンパなく、文字では伝わりにくいオチになったじゃねぇか(笑)。

(撮影・中西正男)

■トータルテンボス

1975年4月3日生まれの大村朋宏(おおむら・ともひろ)と75年12月30日生まれの藤田憲右(ふじた・けんすけ)が98年にコンビ結成。静岡の小中学校の同級生で、ともにNSC東京校3期生。2004年に「M-1グランプリ」で決勝に初進出し、大村のボケに藤田がつっこむ“ハンパねぇ”というフレーズも注目される。07年には「M-1」で準優勝。9月8日の静岡・しずぎんホール公演からスタートする全国漫才ツアー「いきなりミックスベジタブル」(11月25日の大阪・なんばグランド花月公演まで全国20カ所21公演)も開催する。