日本政府の二枚舌―ウチとソトでの「移民」の使い分けがもたらす矛盾

参議院法務委員会に出席する安倍首相(2018.12.6)(写真:つのだよしお/アフロ)

 「人手不足」を強調し、外国人労働者の規制緩和を定めた改正入管法に関して、安倍首相は「移民政策」ではないと力説するが、その一方で日本政府は12月10日、国連の会議で移民保護の取り決めに署名した。ウチとソトでの言行の不一致は、政府の「理念なき対策」を象徴する。

国連移住グローバル・コンパクトとは

 モロッコで10日に開催された国連の会議では、国連移住グローバル・コンパクトが164カ国の賛成で採択された。

 国連移住グローバル・コンパクトは、移民の権利保護に関して各国が取り組むべき共通の方針だ。34ページにおよぶ文書では、23項目におよぶ目標が設定されているが、これらのうち主な点だけあげると、

  • 証拠に基づく政策を実施するためのデータの収集
  • 出身国を離れざるを得ない状況を最小限に食い止めること
  • 移民に関する正確でタイムリーな情報を提供すること
  • 全ての移民に身分証明を発給すること
  • きちんとした就労を可能にする公正な求人と社会保障
  • 移民の立場の弱さを軽減すること
  • 基礎的なサービスの提供
  • 移民を社会に溶け込ませ社会を強化すること

 その一方で、国連移住グローバル・コンパクトでは紛争などで居住地を追われた難民や、誘拐されるなどした人身取引の犠牲者など、自発的な移民とは異なる人々の取り扱いも、その対象になっている。世界規模でかつてなくヒトの移動が増えるなか、国連移住グローバル・コンパクトはどんな形であれ国境を超える人々の権利を向上させようとするものといえる。

 ただし、これに参加していない国もあり、「移民に過度に配慮している」と主張するアメリカは署名を拒否。同じく、不法移民が国内問題となっているイタリアなどEU6カ国のほか、オーストラリアも参加しないなど、先進国の対応は分かれた

 これに対して、日本は国連移住グローバル・コンパクトに署名した。ここに、日本政府のウチとソトでの二枚舌を見ずにはいられない。

「移民政策ではない」

 何が二枚舌なのか。それを考えるときに、以前にも取り上げたことだが、まず国会審議での、いわばウチ向けの政府の説明をみていこう。

 臨時国会で議論の的となり、8日に成立した改正入管法案は、外国人労働者の受け入れを拡大するもので、永住権の付与にも道を開くこの法案は、その賛否にかかわらず「移民政策をとらないという従来の方針からの転換ではないか」と指摘されてきた。これに対して政府は「移民政策を考えていない」と強調し続けた。

 その主張を要約すると、こうなる。

 「我々の考え方によると、移民とは入国の時点でいわゆる永住権を持つ者であり、就労目的の在留資格による受け入れは移民には当たらない。この定義に照らして、人口の一定程度の外国人を家族ごと、期限を設けることなく受け入れることによって国家を維持していこうとする政策をとることは考えていない」。

 一見もっともらしいが、そもそも入国段階で永住権を取得している人間など、ほとんどいない。

 もっとも、そのためにこの答弁は「ほとんどいない人間を対象にする政策をとらない」と言っているという意味ではウソにならない。

 とはいえ、それは「超能力者を対象とした法律を作るつもりはない」と言っているのと同じくらい当たり前すぎることで、何も言っていないのと同じだ。

 この定義は自民党政務調査会の労働力確保に関する特命委員会でひねり出されたもので、安倍首相の主たる支持基盤のうち、経団連に代表されるビジネス界からの要請に基づいて「外国人材の受け入れ」を進めながら、やはり安倍首相の主たる支持基盤であり、「移民」を嫌う保守層への配慮から出た弁明とみられる。

 いずれにせよ、実態からかけ離れた定義は、ただの願望に過ぎない。願望で実態を規定することは、あるものを「ない」と言い張る虚言癖に等しい。

ウチとソトの矛盾

 このようにウチ向けの説明だけでも問題が多いが、さらに問題なのは「移民政策ではない」はずの改正入管法成立のわずか2日後、日本政府が「移民の」権利保護を承認する国連移住グローバル・コンパクトに同意したことだ。

 国境を超えてやってくる人々の権利を保障しなければ、海外在住の自国人の権利を守るよう相手に求めても説得力がないため、国連移住グローバル・コンパクトへの参加そのものは支持できるが、それはさておき「移民政策を考えていない」はずの政府がこれに署名したことには矛盾がある。

 念のために補足すれば、国連移住グローバル・コンパクトでは、移民(migration)を「本人の(1)法的地位、(2)移動が自発的か非自発的か、(3)移動の理由、(4)滞在期間に関わらず、本来の居住国を離れて、国境を超えた、あるいは一国内で移動している、あるいは移動した、あらゆる人」とする国際移住機関(IOM)の定義が採用されている。

 つまり、日本政府は国連移住グローバル・コンパクトで、ウチの定義ではなくソトの定義に基づく「移民」の保護を約束したことになる。この定義に照らせば、現在日本にいる外国人だけでなく、改正入管法で増やされる外国人労働者も「移民」にあたる

 だとすれば、安倍首相の答弁とは裏腹に、政府はやはり(ごく一般的な意味での)移民政策を考えていることになる。その場合、安倍首相は現実的ではあるだろうが、「移民政策を考えていない」という発言との齟齬は免れない。

誰の権利を守るのか?

 もっとも、それでも政府関係者は言うかもしれない。

 「日本には既に永住権をもつ定住外国人がいるが、それは政府が政策として受け入れたわけではない。国連移住グローバル・コンパクトへの署名はその人たちを念頭に置いたもので、『(自民党の定義に沿った)移民政策をとらない』という答弁と何ら矛盾するものではない」と。

 しかし、もしそうなら、裏を返せば「既にいる定住外国人の保護は国連移住グローバル・コンパクトで約束したが、改正入管法で国策として受け入れを増やすことにした外国人労働者は『移民』に当たらないのだから、その保護まで約束したことにはならない」とならなければ、論理的に辻褄が合わなくなる。

 その場合、政府は「ソトに向かってウソをつきました」と言わなければならない。なぜなら、先述のように、国連移住グローバル・コンパクトでの移民の定義はIOMのもので、その定義にのっとって移民の保護が定められているからだ。

 さらに言えば、ウチ向きに「移民ではなく、深刻な人手不足に対応するために、即戦力となる人たちを期間限定で受け入れる」と説明すればするほど、例えば現在の人手不足の状況が緩和されて人出不足が解消され、その人たちが用済みになれば帰国させても問題ない、となる。それは国連移住グローバル・コンパクトで約束された、「移民を社会に溶け込ませ社会を強化すること」とも合致しない。

 安倍総理は臨時国会の所信表明演説で、入管法の改正に関連して「世界から尊敬される日本になる」と力説したが、人間を使い捨てにする国が世界から尊敬されるとは思えないし、外国で働こうとする人から見て日本が魅力的に映るとも思えない。

「高貴なウソ」の先にあるもの

 古代ギリシャの哲学者プラトンは、民主主義が衆愚政治に陥るなか、哲人王による支配を構想したことで知られる。民主主義に幻滅していたプラトンの説に従うと、統治の実効性をあげるために哲人王による「高貴なウソ」さえ認められることになる。

 残念ながら、政治が(それが高貴かどうかはともかく)国民に真実を語らないことは珍しくない。むしろ、情動的な世論に振り回されずに政治を回すために、方便が必要な場合もあるだろう。

 ただし、「高貴なウソ」の行き着く先は、実際にあるものを「ない」ことにする全体主義への道である。旧ソ連で指導者の発言こそが真実と扱われ、そこに誤りはないと扱われた(無謬性の原則)ことは、その典型だ。それは自由で開かれた社会とは相反するものである。

 人手不足に鑑みれば、外国人労働者の受け入れが急務であることは確かだ。しかし、必要性のみを強調する議論は、少なくとも日本という国をどこへ導こうとしているのかという理念を語っていることにはならない。そのなかで「世界に尊敬される国になる」という言葉が空疎に響くのは、私だけだろうか。