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テレビは自由であるべきか―米国の経験にみる放送法見直しの危険性

六辻彰二国際政治学者
衆議院本会議場で安倍首相を捉えたテレビカメラ(2014.12.24)(写真:ロイター/アフロ)
  • 政府は放送事業における「政治的公平」の撤廃を検討
  • これは「視聴者の選択の自由」に任せるもの
  • しかし、米国では「自由な報道」が地上波での誹謗中傷を増やした
  • 政府提案には外資参入の解禁も含まれ、米国式の「自由な報道」が輸入される懸念もある
  • 米国の経験では「自由な報道」が「多様な報道」を生まないこともある

 内閣府の規制改革推進本部は3月15日、TVやラジオの「政治的公平」を定めた放送法第4条の撤廃を提案。その後、審議が続いています。

 2016年2月に高市早苗総務大臣(当時)が「政治的公平を欠く放送を繰り返した」とみなされる放送局への電波停止の可能性に言及したように、これまで政府は特にTVが特定の立場から報道することに否定的でした。

 いきなり正反対の方針を打ち出した安倍首相は2月の国会審議で、AbemaTVに出演した体験を踏まえて「視聴者には地上波と全く同じ」と発言。TVとネットの融合を念頭に法制度を改革するなら、ネットにTV並みの規制をかけられない以上、TVの方の規制を緩和するべき、という路線に転じました。

 その動機はともかく、「公平」という原則がなくなれば、意見が対立する問題で各局はこれまで以上に独自の立場で報道できます。それは「表現の自由」に沿ったものともいえます。

 しかし、ネット上のヘイトスピーチやフェイクニュースの規制はグローバルな課題です。その水準に規制が引き下げられれば、TV報道が誹謗中傷とプロパガンダに満ちたものになる恐れすらあり、米国の事例からはその危険性を見出せます。

「公平」撤廃の論理

 今回の提案は放送事業と番組制作の分離による競争促進や外資の参入許可などを含みますが、これまで放送事業の規制緩和を支持してきた専門家からも困惑疑問が続出。所管省庁である総務省も同様です。

 ビジネスの観点はさておき、ここでは放送法第4条の「政治的公平」の見直しに焦点を絞ります。

 放送法第4条では、公序良俗に反しない、政治的公平、事実を曲げない、意見が対立している問題には多角的に伝える、などの原則が定められています。これを撤廃する論理としては、以下があり得ます。

  • そもそも意見が対立する問題を、全ての立場から等しく距離を置いて報道することは極めて難しい、
  • 各局が実際に独自の論調で報道している(特に現政権に対して)、
  • ならばいっそ事業者ごとに自由にさせ、あとは視聴者の選択に任せればよい。

「公平」の難しさ

 「公平」撤廃の論理は「視聴者の選択の自由」を強調します。これはネットで好きな情報を選び取ることに慣れた現代人にとって分かりやすいものかもしれません。

 実際、人間には国籍、年齢、職業、所得など必ず何らかの立場や属性があり、言葉通りの意味での「公平で客観的な視点」はほぼ不可能です(社会学ではこれを存在拘束性と呼ぶ)。そのため、あらゆる報道には多かれ少なかれ偏向(バイアス)があり、これを緩和させるなら複数の見方や確実な証拠を示し、論理的に矛盾なく伝えるしかありません。

 しかし、特にTV、ラジオは他のメディアと比べて「時間の制約」が大きく、複数の見解や情報源を省略したよりコンパクトなメッセージになりがちです。実際、「公平」で定評のある英国BBCでさえ「EU離脱問題をめぐる論調が偏っている」と与党議員から批判され、対応に苦慮しています。

 「公平」が有名無実化しやすい状況で、「だったらいっそなくして視聴者の判断に任せればいい」という主張は明快ともいえます。

視聴者の選択に任せる是非

 とはいえ、「自由な報道」がよい結果を生むとは限りません。

 1987年に米国は放送局に複数の視点から報道することを定めた公平原則(Fairness Doctrine)を撤廃。ロナルド・レーガン大統領(当時)はこれを「政府の規制は(表現の自由を定めた)憲法第1条に反する」と正当化。今回の提案で安倍首相もこれに言及しています。

 ところが、その後の米国では各局が正確さより政治的な主張で他局との差別化を図るようになり、これは結果的にジャーナリズムへの信頼の低下につながりました。

 最近の例をあげると、大手TV局FOXニュースの司会者ローラ・イングラハム氏は、2月にフロリダ州の高校で発生した銃乱射事件を生き延び、銃規制の強化を求める活動に参加している生徒の個人情報をさらして「UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に落ちた」などと揶揄。さすがに非難が相次ぎ、多くのスポンサーが降板したため、3月29日に謝罪に追い込まれました。

 FOXニュースはトランプ大統領を支持する保守的な論調で知られ、銃規制にも消極的。イングラハム氏の一件は、そのイデオロギーにかかわらず、特定の立場を前面に出した「自由な報道」が、日本ではかろうじてネット上にとどまっているレベルの誹謗中傷になりかねず、社会の分断をさらに深め得ることを示す一例にすぎません。

「自由な報道」が輸入されたら

 ただし、日本の場合、放送免許の許認可権を政府が握っており、今回の提案でもこの部分には触れられていません。この点で、政府が許認可権を持たない米国と異なり、「公正」が廃止されても「好ましくない報道」を政府が管理することは可能です。しかし、それでは政府のいう「自由な報道」も有名無実になります。

 さらにここでの文脈で重要なことは、仮に「公平」が撤廃された後も政府に許認可権を握られる放送局が「自発的に」言論を抑制したとしても、今回の提案には外資参入の解禁が含まれることです。

 米国の巨大メディア企業が資本力を武器に参入した場合、米国式の「自由な報道」が日本でも行われかねません。その弊害は、電波事業への外資参入が認められている英国ですでに報告されています。

 2017年11月、英国の放送・通信を監督するOfcomはFOXニュースの報道番組が同国の公平原則に反したと結論。この番組は、2017年5月にマンチェスターで発生した、22人の死者を出す爆破テロ事件を取り上げ、「ポリティカル・コレクトネスという『公式のウソ』を強制する『全体主義』の政府がテロ対策に失敗した」という見解を紹介。批判された政府の見解は紹介されず、司会者も異論を示しませんでした。

 日本で「公平」が撤廃されれば、この種のニュースも規制されにくくなります。

「自由な報道」は多様性を生むか

 これに加えて注意すべきは、自由な報道が「視聴者の選択の自由」の前提である「多様性」を生むと限らないことです。よく知られる例としては、イラク侵攻(2003)があげられます。

 「イラクが大量破壊兵器を保有し、これがアルカイダに渡ると危険」という、およそ荒唐無稽な主張と、「米国の安全のための予防的先制」という論理には、多くの国から反対が噴出。しかし、他の見解を省いたシンプルな意見が各局から洪水のように流された結果、世論調査によると開戦に反対した米国市民はわずか27パーセント。TV報道に何らかの反対意見を表明した市民は3パーセントにとどまりました。

 9.11後の米国が一種の集団的なヒステリーに陥っていたことは割り引くべきでしょう。また、CIAなどが誤った情報を提供していたことも確かです。

 しかし、疑心暗鬼になりやすい時に何の規制もなければ、全ての放送局からフェイクとヘイトに満ちたニュースが垂れ流され、ほとんど全員が同じ方向に向かっても不思議ではありません。「空気」がまかり通りやすい日本では、なおさらです。

後発者の利益とは

 念のためにいえば、報道には公平とともに自由が不可欠です。「報道の自由度」が先進国中最低レベルで、「公平」が政府批判を抑制させる手段の日本では、なおさらです。

 その一方で、公平が時につまらなくて非生産的になるのと同じく、自由が過激主義や排他主義に向かいかねないこともまた確かです。

 重要なことは、先行する者が常に有利と限らないことです。後発者は先行者の試行錯誤をみて、よい部分を効率的かつ選択的に吸収できます。これは「後発者の利益」と呼ばれます。

 「公平」を放棄した米国は自由な報道で間違いなく他国に先行しています。しかし、そこには光も影もあります。後発者はその光を追い、影を避ける余裕があるはずです。少なくとも米国の経験を全面的に見習う必要があるかは疑問で、自由で公平な報道の実現には、より慎重な検討が求められるでしょう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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