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中国艦船のレーダー照射を「面子」から考える (2)

六辻彰二国際政治学者

「人権」と外交の難しさ

次に国際レベルですが、久しく使われていない「戦略的パートナー」という言葉に象徴されるように、「相手を信用はしないが、事を構えないことが双方の利益になる」という相互理解が、日中関係の基本でした。経済的な観点からすれば、日本政府には中国との緊張緩和は避けられず、先ほど述べたような人的交流でその糸口を探ってきたとみるべきでしょう。同じことは、中国政府にも言えます。日本との緊張緩和を図ること自体、中国政府からすれば、(それは中国政府自身が生み出してきた部分もある)国内の反日的世論を抑えたものです。ただし、その一方で、中国政府が国内向けの「面子」に突き動かされ、日本に威圧的な態度をとっているとみることに、大きな無理はありません。

ところが、一方で緊張緩和を模索しながら、他方で緊張を高めてきたという意味で、日本政府は中国政府とほぼ同じです。安倍総理は1月18日、インドネシアで、自由、民主主義、法の支配といった普遍的価値観を拡大する「価値観外交」を掲げました。さらに1月20日には、これを推進するパートナーとして、インドやオーストラリアを巻き込んで中国をけん制する「セキュリティ・ダイヤモンド」構想も発表しています。これらが中国を標的にすることは、衆目の一致するところです。

1989年の冷戦終結後、西側先進国は開発途上国に対して、援助の前提条件として民主化や人権保護を求めてきています。その意味で、自由や民主主義といった「普遍的価値観」を外交の手段あるいは目的にすること自体は、目新しいものではありません。もっとも、西側先進国のなかでも日本は、形式的にはともかく、実際にはこれらの価値観を相手に強く求めてきませんでした。その背景には経済的利益を優先させる日本外交の「実利主義」があったといえます。いずれにせよ、仮に安倍総理がこれらの「普遍的価値観」を政治的ツールとして捉えているとしても、その取り扱いが難しいことだけは確かです。理由は二つあります。

  • 自由、人権、民主主義といった原理に、いかに普遍的な価値があったとしても、それを強要することは相手からの反発を招くこと。古くは、ナポレオンがフランス革命の理念を大義に近隣諸国を占領した結果、ドイツやスペインで反乱・抵抗が起こりました。ドイツやスペインでも自由の価値そのものは受け入れられましたが、それが他者から強制されることは、話が別だったのです。現代でも、中東諸国では人権規範が浸透する様相がうかがえますが、これを欧米諸国から強要される際には強い反発があります。
  • 理念に照らしていえば、人権や民主主義の普遍的な価値を強調するなら、相手を問わずそれを求めなければならないが、実際には相手を選ぶ「ダブルスタンダード」が拭い難いこと。それは、価値観を強要される側から、「人権の政治利用」の批判を招きます。

日本が損なった中国の「面子」とは

故に、自由や民主主義の重要性を訴えること自体はともかく、それを手段として用いるときには、相当程度の慎重さが求められることは確かです。しかし、例えば同じく人権状況に問題があるミャンマーに、1月初旬に麻生副総理が訪問した際、政府高官との会談でそういった話題がのぼったとは寡聞にして聞きません。また、イスラーム圏諸国の多くは欧米諸国から、女性の人権保護などの不備を批判されていますが、これらに日本政府は黙して語りません。そこには、人権や民主主義の普遍的価値を特定の国(中国)だけを念頭に強調するという矛盾があります。人権や民主主義といった原理を露骨に「手段として」用いることは、2003年にブッシュ政権が「大量破壊兵器をもっている」という主張のもとにイラクを攻撃し、それが発見されないとみるや、攻撃の大義を「中東の民主化」に切り替えたことを想起させるもので、やり方としては粗雑と言わざるを得ません。

のみならず、「普遍的価値観」を強調することは、物質的な制裁以上に中国政府の反発を強めるものになります。もともと、「普遍」の強調には「特殊」を見下す視線があり、「否定できない普遍的原理を振りかざされる」ことは、相手にとって「自分たちが劣ったものみなされている」感覚を強くします。アフリカ諸国で西欧への反発が根強い背景には、奴隷貿易や植民地支配といった歴史だけでなく、冷戦終結から現在に至るまで、ほぼ一貫して人権や民主主義の重要性を「説教」されてきたことがあります。しかも、西欧とアフリカという、いわば実質的な上下関係があるものと異なり、中国からみた日本はもはや対等、あるいは格下の相手です。米国政府から人権侵害を批判されても「内政干渉」でつっぱねてきた中国政府にしてみれば、少なくとも格上でない日本政府から「説教」されることが、先ほどから述べている「相手の社会的立場を傷つけない」という、中国の行動原則「面子」に抵触したとしても、不思議ではありません。

仮に日本で、法令順守や両性の平等といった今の社会常識をもった若いひとが、それらを半ば無視している年配者に異議申し立てをした際、後者はどんな反応を示すでしょうか。私個人の経験でいえば、「生意気言うな」とか、「昔からこうやってきたんだ」といった、およそ理不尽な返答が返ってくることが多かったと思います。つまり、中国ほどでないにせよ、日本でも(特に年配男性に)社会的立場による外面的評価を重視し、それが損なわれたときに意固地なまでに抵抗する「面子」意識は強くあると思いますが、いずれにせよ「価値観外交」に対する中国の受け止めは、これに近いものがあると思います

「価値観外交」は進めるべきか

中国が自由や民主主義を欠いた国であることは言うまでもありません。また、個人的には、日本政府がその改善を求めること自体は支持します。さらにまた、今回のレーダー照射に関して、中国政府が責任転嫁を図ることは受け入れられません。

しかし、激昂するだけが外交ではありません。まして「説教」するからには(欧米諸国がそうであるように)自らを律し、少なくとも国内では人権や民主主義を誠実に守らなければなりません。また、ダブルスタンダードを完全になくすことは難しいとしても、できるだけ幅広く「普遍的価値」の唱導を図らなければ、説得力は出ません。ところが日本の場合、インターネットでの選挙活動、警察などによる取調べの可視化、難民の受け入れなど、人道・人権にまつわる問題への取り組みに、欧米諸国と比較した温度差があることは否定できません。これらを「個別の事情」と割り切り、しかも全世界的にそれを訴えるのではなく、こと中国に対してのみ人権の擁護を求めることは、いかに中国での人権侵害が日本と比較にならないものとはいえ、やや「ご都合主義」ではないでしょうか

「中国の機嫌をとれ」と言っているわけではありません。本気で「価値観外交」でもって中国を攻めるなら、あからさまに中国を標的にして反発を煽るだけの手法ではなく、以上のような課題をクリアして「別に中国だけを標的にしたものでない」と言い張れるだけのものを用意しないといけない、ということです。そうでない限り、「価値観外交」は中国に対するプレッシャーにはなるものの、説得力を欠いたものとなり、「面子の国」中国の反発を煽る効果以上のものを期待できないのであり、少なくとも当面は引っ込めた方が懸命です。いかにやっかいな隣人でも、こちらも引っ越すことはできません。シナリオ1で検討したような、東シナ海での偶発的な衝突の危険性を今後軽減するためには、日本側にもタイミングやアプローチの再考が必要といえるのです。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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