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下部降格、出場停止…。 日本代表を支えるベテラン、伊藤鐘史の「特別な試合」【ラグビー雑記帳】

向風見也ラグビーライター
海外組が離脱するいま、副キャプテンを務める。「やることは変わらない」

どれだけ身を削っただろう。

どれだけ面倒なことを乗り越えてきただろう。

いつもはそういう背景を見せまいとする34歳のプロラグビー選手だが、この日ばかりは、笑顔の奥から沈んだ声を漏らした。

2015年5月9日、福岡はレベルファイブスタジアム。日本代表の伊藤鐘史が、韓国代表とのアジアラグビーチャンピオンシップ第3戦に先発する。

互いに激しくぶつかり合うロックのポジションにあって、「冷静さを保てること」を売りにする。ボールがタッチラインに出た後のラインアウトという空中戦で、いつものように司令塔役を担う。

「野球で言えば、キャッチャーに似ていますよね。ピッチャー(ボール投入役)の調子やバッター(相手の列)の様子を観ながら、適切なサインを出していくところが」

身長191センチ、体重100キロ。「サイズの割に低いプレーができる」と自己分析したこともある。理不尽の理を突き詰める京都産業大学にいた頃、「ひたすら地面に転がる」ような練習ばかりをしていた。だから、「そういうの(低い姿勢でのプレー)は普通に」できてしまう。

ノーサイド。後半24分まで役割を全うし、66―10で勝利。

「いやぁ、大分、追い込んだんで。身体の色んなところに、キてます」

実はチーム方針で、2日前まで猛練習をしていた。9月にある4年に1度のワールドカップは、試合間隔が短い。首脳陣は選手に、タフなコンディション調整への耐性をつけさせたかったのだ。

ただでさえ疲れた状態だった伊藤は、試合が終わった頃にはさらに疲れていた。「きつい」と漏らしたのは、そのためだった。

「でも、しょうがないんです。ワールドカップへのテストだから。個人的には、難しかった。すっごい、重かった。ハードにトレーニングをしながら、それに自分の身体を慣れさせていかないといけない…。いい勉強になりました」

古傷を抱えている。右膝と左足首には、氷の束を巻きつけていた。それでもどうだ。

「とにかく、ハードにやるだけですよね。考えてどうなるものではないので」

言葉を重ねるうちに、徐々に声を弾ませてゆくのだった。

忘れられないゲームがある。

2010年9月4日、冷えたビールがのどを貫く夜。大阪は長居スタジアムでの、国内最高峰トップリーグの開幕節である。神戸製鋼の伊藤は、移籍2年目にして新天地で初のゲームに挑んだ。

その前年度は、参加資格すらもらえなかった。

2003年から6シーズン社員としてプレーしていたリコーを離れ、出生地でもある神戸でのプロ転向を決めた。思いを貫く際、雇い主とのすれ違いがあった。移籍元から「リリースレター」という許可承諾が出ず、規定上、伊藤は移籍先での公式戦出場を1年間も禁じられた。

古巣のリコーでは、最後の3年間はキャプテンを務めていた。2008年度は下部リーグでのプレーを余儀なくされるなか、左足首、右膝を順に痛め、逃げなかった。正直、その際のチームメイトからも応援はしてもらえていた。だから、フロントサイドからの温情は働くかと思った。そこが「甘かった」と、当時の伊藤は悔やんだものだ。

雌伏の時は怪我の治療に専念し、虎視眈々とその日を待った。

そして例の夜だ。背番号19をつけ、後半10分からカクテル光線を浴びる。タックル。相手を倒す。すぐに起きる。その後ろにいる選手にタックル。とにかく飢えていた。

クボタに34-3で勝ったこの一戦は、スポーツ界全体にとっても特別な時間だった。同じチームの大畑大介が、試合前にその年度限りでの引退を表明していたのだ。

テストマッチ(国同士の真剣勝負)で世界最多トライ記録を樹立した稀代のスターを見届けるべく、国内リーグでは珍しい1万人超の観客が集った。グラウンドレベルには、ニュースの主役を捉えようとするレンズとファインダーも並んでいた。

「いま思えば…」

すっかりジャパンに定着したある冬の日。「プロテイン」としてのビールを片手に、伊藤は恍惚と語ったものだ。

「これまでの現役生活で、あの試合が一番、燃えたかもしれないですね」

移籍目的のひとつは代表入りへのアピールだったが、それは一時、諦めていた。11年のワールドカップニュージーランド大会の時は「30歳、代表経験なし」。所属先の優勝だけを目指した。

だから翌12年、就任したてのエディー・ジョーンズ現ヘッドコーチにリストアップされたのには驚いた。公式発表日の電話取材で、「ここまで来るのに時間がかかった分、心を込めてやりたい」と伝えた。

15年のワールドカップイングランド大会を見据える指揮官は当時、「メンバーの6割はワールドカップに出る。4割は文化を作る」との思惑を抱いていた。「4割」の献身的な生き様が、「6割」の態度にいい影響を与えると考えたのだ。

自分が「4割」と「6割」のどちらなのか。

そんなことは、誰よりも本人がわかっていた。

「せめて1キャップ(テストマッチデビュー)を…。それが叶ったら次、また次、と」

蓋を開ければ、しかし、その「次」は「31」まで連なった。

13年6月には当時欧州6カ国対抗2連覇中だったウェールズ代表を倒した。11月には世界ランク1位のニュージーランド代表に挑んだ。14年6月には、欧州6強のイタリアを破った。その全ての試合で、伊藤は、先発したのである。

ワールドカップイヤーもラインアウトの軸となり、指揮官には「テストマッチをするのに年齢は関係ない。テストマッチができるかどうかだ」と言わしめる。期待の若手や外国出身選手との競争に揉まれ、結局、生き残っているのだ。

「他の選手がどうこうなんて考える余裕は、正直、ないんです。ただ、1つひとつの練習や試合から、何かを学ぼうとはし続けてきました」

最近では、元オーストラリア代表ロックのヒーナン ダニエルが日本国籍を取得。7人制のワールドシリーズであと3戦以上の出場で、ワールドカップのメンバー争いに加われるようになった。怪我のため実現は難しそうだが、同じポジションの選手は少なからず心を揺らしただろう。

ただ、伊藤は淡々と語る。

「そこは僕がコントロールする部分じゃない。僕は、僕の強みをチームのために出す。スマートなラインアウトのコール、仕事量を」

――とはいうものの、その情報を初めて耳にした時のお気持ちは。

「それは、まぁまぁ…」

最初は言葉を濁し、最後は決意を示す。

「そのことだって、チームにとってはウェルカムなことですから。やはりジャパンが勝つことが一番、ハッピーなので」

組織にとらわれない自分であろうとした。組織に忠義を誓うのが、自分だった。試合に出たいのはもちろんだが、もし出られなくても「ジャパンが勝つことが一番、ハッピー」。そう言い切れる人であろうとしている。

加齢には逆らえない。練習前後のアイシングやストレッチは、若い頃よりも念入りにしなくてはならない。

しかし――。

「少しでも、観ている人の心に残るプレーをする。それだけです」

あの晩夏以上の熱狂を求め、明日も古傷にテーピングを巻く。

ラグビーライター

1982年、富山県生まれ。成城大学文芸学部芸術学科卒。2006年に独立し、おもにラグビーのリポートやコラムを「ラグビーマガジン」「ラグビーリパブリック」「FRIDAY DIGITAL」などに寄稿。ラグビー技術本の構成やトークイベントの企画・司会もおこなう。著書に『ジャパンのために 日本ラグビー9人の肖像』(論創社)『サンウルブズの挑戦 スーパーラグビー――闘う狼たちの記録』(双葉社)。共著に『ラグビー・エクスプレス イングランド経由日本行き』(双葉社)など。

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