「下の下」、初任給でI pad、「不器用」を磨く。宇佐美和彦、日本代表初先発へ【ラグビー雑記帳】
キヤノン株式会社からの初任給で、I padを買った。
定時よりも早くオフィスを失礼すると、間もなくそいつを起動させる。帰宅ラッシュとほぼ無縁の電車内で観る映像は「練習や練習試合で仕事ができているか」だった。
「あ。あとはリツメイの試合も観たりします。それで後輩にコメントしたり」
2014年度入社の宇佐美和彦は、ラグビー部の期待の新人でもあった。
当時の公式記録で「身長197センチ、体重112キロ」。高さがあるのに姿勢の低いプレーをたくさんできる逸材として、立命館大学からスカウトされていた。I padは母校の赤井大介フォワードコーチが部のために買ったのを見て、「自分にお金ができたら欲しい」と思っていた。
液晶画面と向き合う。勤務地のある神奈川県川崎市から東京都町田市のグラウンドまで、約1時間である。緑の芝に立てば、走り、ぶつかり、起き上がる、また走る。その先に国内最高峰ラグビートップリーグでの全試合出場があり、そのさらに先に日本代表入りがあった。
「合同チーム」の人だった。ラグビーを始めた愛媛県立西条高校は、部員数が試合のできる15名に満たなかった。県大会に出るには、他校の生徒と仲間になるしかなかった。
そんな宇佐美が飛び込んだ立命館大学は、関西大学Aリーグで優勝争いをする有名校だった。身体が大きいという文句なしの才能を評価された結果、四国の少年はカルチャーショックを受けた。入学前までの経験値の差で、周りに圧倒された。
「自分は下の下なんで」
この先、高いステージに挑むたびにこう言うようになる。
20歳以下の日本代表に選ばれた。誕生日が1992年3月17日と早生まれだったから、大学3年生になってからもその輪に入った。下級生の仲間から「うーやん」と呼ばれた。
当時の首脳陣からの評価は、上々だった。
「不器用だけど、チームがやるべきことをやりきることができる」
その資質を高く評価したのが、キヤノンの瓜生靖治スカウトだった。「ちょっと言葉には表しにくいんだけど…」。練習の合間のしぐさや態度から、競技に取り組む精神性を見定めようとする人だったのだ。
サイズ、運動量、何より、ひとつのタスクに腰を据える「不器用」という長所。
I padで「仕事量」を精査する青年の、それが持ち味だった。
実戦形式のトレーニングで、どれだけ自分はプレーに参加できているのか。もしそれが不十分なら、どの局面で、どんな意識づけや動作があればよかったのか…。こうしたI padを使ってのレビューは、移動時間や就寝前の習慣となった。そもそも宇佐美は、どんなところからもものごとを吸収しようとする人でもあった。twitterで相互フォローをしたスポーツ総合サイトの編集者に、自分から会いに行ったこともあるという。
トップリーグの舞台。上位チームの外国人選手には吹っ飛ばされ、「自分はまだまだ先輩に付いて行っているだけ」と背中を丸めながら、誰よりもタックルした。大きいがゆえに重責を担う空中戦のパートでは、チームメイトで元ニュージーランド代表のアダム・トムソンから戦略と感性を授けられた。そう。ものごとを吸収しようとする人だった。
秋には初めて、正規の日本代表となった。その頃には、I padに関するエピソードが記事になった。「おかげで、キヤノンでもI padが流行り出したんです」。瓜生スカウトがこう言う傍ら、当の本人は代表選手として取材陣に囲まれるようになった。
「あ、この間、書いてもらったやつなんですけど…」
解散後、律儀にひとりのライターを呼び止める。
――どうしましたか?
「代表に入ったら、そっちの方からI padを貸してくれるようになって。自分の持っているやつはリツメイに寄付しました」
5月9日、福岡レベルファイブスタジアム。アジアラグビーチャンピオンシップの韓国代表戦で、テストマッチ(国同士の真剣勝負)での初先発を飾る。4年に1度のワールドカップイングランド大会出場に向け、メンバー入りへのアピールチャンスである。
同じロックのポジションは多士済々だ。国内最多の87ものテストマッチに出た大野均。31歳での初代表から4年の歳月を生き抜いてきた伊藤鐘史。大野と同じ時代を戦ってきたトンプソン ルークら、複数の外国出身選手もいる。
簡単に「I padで夢舞台へ」と言えるほど、現実は甘くない。そんななかでも「うーやん」は、「下の下」から世界を覗く。