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3大会連続メダルで示した底力。33歳・渡部暁斗が究めた「コンバインド道」

元川悦子スポーツジャーナリスト
五輪3大会連続メダルの偉業を達成した渡部暁斗(写真:長田洋平/アフロスポーツ)

金メダルまで0・6秒差の銅メダル

 中国・張家口の国家クロスカントリーセンターで15日・現地時間18時半から行われた2022年北京五輪・ノルディックスキー・複合個人ラージヒルのクロスカントリー。前半のジャンプで135mを飛んだ渡部暁斗(北野建設)は、トップから54秒差の5番手でスタートした。

 2014年ソチ、2018年平昌の個人ノーマルヒルで連続銀メダルを獲得している33歳のベテランはまず2番手集団に入って機を伺った。そして3・5キロ付近でトップに立つと、上位陣と駆け引きを続けながら飛び出すタイミングを計り続けた。

 迎えたラスト1周。彼はマヌエル・ファイスト(ドイツ)とヨハネス・ランパルター(オーストリア)を引き離し、金メダルを取りに行った。そのままスタジアムに入って逃げ切るかと思われたが、後続のヨルゲン・グローバク、イエンスルラース・オフテブロのノルウェーコンビが猛追。ラストのスプリント勝負で抜かれてしまう。

 最終的には3位でフィニッシュ。逆転優勝したグローバクと0・6秒という僅差だ。「金メダルを取る」と公言し続けてきた男にとっては悔しい結果に他ならなかった。それでも、ジャンプに苦しみ、W杯でも結果を出せなかった今季の戦いぶりを考えれば、ある程度、納得いく銅メダルだったのかもしれない。実際、タイム差もソチと平昌でエリック・フレンツェル(ドイツ)につけられた数字より今回の方がわずか。それだけ頂点に近かったのだ。五輪5大会連続出場の大ベテランは改めて凄まじい底力を示したと言っていい。

「僕の全盛期のはるか先を行っている」と荻原健司に言わしめた男

 長野県白馬村生まれの渡部は、小学校3年だった98年、長野五輪で「日の丸飛行隊」が金メダルを獲得するのを現場で目撃したのをきっかけにジャンプ競技を始めた。当初はジャンプ専門の選手を夢見たが、白馬中学校時代からクロカンも始め、白馬高校入学時に自ら複合の道を選んだ。

 そして2年だった2006年にはトリノ五輪に初参戦。19位という順位だったが、本人にとってはいい経験になった。その後、早稲田大学時代には苦手だったクロカンの走り方の改善に注力すると、成績が急上昇。2010年バンクーバー五輪では個人ラージヒルで9位と1ケタ順位に食い込んだ。

 2011年に北野建設に入社してからは世界を転戦。2011ー12シーズン以降はW杯総合ランキング3位以内をコンスタントにキープ。17ー18シーズンは念願だった頂点にも立ち、「キング・オブ・スキー」の称号を手にした。8シーズン連続表彰台というのは、荻原健司(長野市長)・次晴兄弟も成しえなかった偉業。「彼を見ていると僕の全盛期のはるか先を行っていると実感します」と健司氏も神妙な面持ちで語っていたことがある。

ソチ・平昌で立てなかった頂点を追い求めて

 本人も「取れるタイトルは全て取りたい」と闘志を燃やしていた。が、五輪ではどうしても金メダルに手が届かない。とりわけ2018年平昌五輪では、個人ノーマルヒルでフレンツェルに苦杯。個人ラージヒルもジャンプでトップに立ったが、最後の最後にドイツ勢のスパートに遭い、引き離されて5位に甘んじるという悔しい経験をした。

「あの年は『平昌とW杯の両方で優勝するんだ』と欲を出し過ぎたのかな。平昌後にW杯が7戦もあって『気を抜いちゃいけない』と意識し過ぎた分、4年に一度の大舞台で力を出し切れない自分がいましたね」

 コロナ禍が始まったばかりの2020年春。筆者のインタビューに応じた渡部はこんな反省を口にしていた。

 とはいえ、もともとは五輪の金メダルに強く固執するタイプではなかった。「五輪のためのスイッチを入れるっていう感覚が分からない。僕はいつも自然体なんでスイッチが入らないというか、毎日スキーをしていたいんですよね」とも笑顔で話したように、彼にとって競技は「遊びの延長」という感覚だったようだ。とはいえ、やはり手にしていないものはほしくなる。自身の集大成と位置付けた今回の北京五輪では、一番高いところに立ちたかったに違いない。

平昌の個人ラージヒルではジャンプでトップにつけたが5位に
平昌の個人ラージヒルではジャンプでトップにつけたが5位に写真:ロイター/アフロ

できることは柔軟かつ意欲的にチャレンジ

 そのために、思いつく限りのトライを惜しまないのが、渡部暁斗という男だ。

「僕は変わることへの好奇心がすごく旺盛なんで、いろんな練習に手を出すんです」と平昌前にも笑っていたが、その時点ではロードバイクやマウンテンバイク、TRX(ファンクショナルトレーニング)にチャレンジ。当時の北野建設でも、荻原健司氏ら指導者陣のアドバイスに耳を傾けつつも、山に行ったり、室内で筋トレに勤しんだりと、ほぼ自分で練習メニューやスケジュールを組み立て、実践していた。

 2020年春にはファスティング(断食)にもチャレンジ。腸内環境を整えたことで脈拍が落ち、心身ともにスッキリしたと話していた。さらには、ピラティスや古武術などにも手を広げ、体の使い方や上半身のバランスに磨きをかけてきたという。

「いいと思えることは何でもやる」という柔軟性と視野の広さはいかにも彼らしい。SNSでも定期的に発信し、我々ともフラットに接してくれるが、五輪メダリストという肩書に関係なく、肩の力を抜いて高みを目指し続けるスタイルが人々の共感を呼んでいるのだろう。

2020年に誕生した長男・雄然君の存在が新たな活力に

 こうして30代のトップアスリートとして「自らのコンバインド道」を追求し続ける渡部。この4年間には1人の人間としての大きな変化もあった。最大の転機は、2020年11月の長男・雄然君の誕生だ。

 冬季は海外を転戦するため、平昌五輪の後、引退した元フリースタイルスキー・ハーフパイプ選手の妻・由梨恵さんに子育てを任せる形になったこともあり、「父親としてしっかりしなければいけない」という気持ちはひと際、強まったはず。それまでは「自分のために」という意識が強かった彼が「家族や息子のために」という考え方に変化し、より強い意思と闘争心を持って努力できるようになったのも確かだろう。

 だからこそ、得意だったはずのジャンプが伸びず、W杯で表彰台に一度も上がれなかった今季も心が折れることなく前進できた。今回の北京五輪では日本選手団の旗手という大役も任され、自然体の男もさすがにプレッシャーを感じたはずだが、あえて「金メダルを取る」と言い続け、自らを鼓舞し、意気揚々と本番に挑んだ。

「僕のお兄ちゃんはスゴい人」と実弟・善斗も称賛

 ご存じの通り、9日の個人ノーマルヒルは7位入賞。ジャンプで9位と出遅れ、トップから1分29秒差のスタートを強いられる中、そこまで巻き返した点は、本人もポジティブに受け止めただろう。それからジャンプの修正に努め、浮上のきっかけをつかみ、15日は135mという納得できる結果を出した。そのうえで、クロカンで一番手を長時間走り、堂々とレースをけん引したのだから、理想の戦いに近かったのかもしれない。

「ジャンプとクロカンは対極の存在。両方やることで偏らない人間になれるのが魅力なんです。自分は人生で200試合以上やってますけど、どっちも満足できたのは片手もないですよ」

 2年前にこう語っていた本人にとって、3大会連続メダルという結果は一応、納得できるものだったのではないか。

「いつもはこんなこと言わないけど、今日だけは言わせてください。僕のお兄ちゃんは、スゴい人です」

実弟・善斗ら後輩たちのためにも団体で結果を!
実弟・善斗ら後輩たちのためにも団体で結果を!写真:ロイター/アフロ

 ソチ五輪から3大会ともに五輪で戦ってきた実弟・善斗(北野建設)はレース後、SNSでこんな言葉を綴った。一番近くで戦い続けてきた同志から最大級の賛辞を贈られた兄は心底、喜んだに違いない。

 そんな善斗や山本涼太(長野日産自動車)ら後輩たちのためにも、17日の団体戦では、確固たる結果を残さなければいけない。かつて荻原兄弟が残した日本ノルディック界の大きな財産を継承してきた男には、それを後世に引き継ぐ重大な責務がある。自らの使命を心に刻み、再び闘争心に火をつけ、渡部暁斗は北京五輪「最後の戦い」へと挑んでいくはずだ。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

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