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「僕の選択は間違ってない」日本復帰を決めた宮市亮が5年前に語っていたこと

元川悦子スポーツジャーナリスト
日本という未知なる舞台で再起を期す宮市亮(写真:アフロ)

18歳で欧州に行った男がJリーグに初参戦 

 東京五輪に挑むU-24日本代表の田中碧(デュッセルドルフ)や今年日本代表デビューした川辺駿(グラスホッパー)のように海外に出ていく者がいれば、酒井宏樹(浦和)のように日本に戻る者もいる。ただ、Jリーグを経由せずに、18歳でいきなり欧州へ渡って10年以上を過ごした人間が国内復帰するというのは、過去に前例のないことだ。

 その選手とは、横浜F・マリノス入りした宮市亮。中京大学中京高校の卒業式を待たずにイングランドの名門・アーセナルに赴き、そこからオランダの名門・フェイエノールトにレンタルされたのが、2011年1月のことだ。そして2月6日のフィテッセ戦でデビューするや否や、爆発的なタテへのスピードと突破力で見る者の度肝を抜いた。

2011年2月、フェイエノールトで鮮烈な欧州デビュー

 当時、欧州のメディア仲間から「ミヤイチのバックグラウンドを教えてくれ」という連絡が筆者のところに来たが、それほど現地ではインパクトが大きかったという。

「高校サッカー選手権大会が終わって2日後くらいにイングランドに飛んで、着いたらワールドクラスの選手たちが練習してました。2週間後にフェイエノールトへ行ったら『お前は今からここの選手だ』と。実は中学2年の時もフェイエノールトに練習参加したことがあったので、当時の仲間もいて、タテに速く出る戦い方も理解していた。その通りにやったらうまくいったんです」と本人は電撃的な展開を述懐したことがある。

 新天地では半年で12試合出場3得点という華々しい実績を残し、すぐにアーセナルに呼び戻された。宮市がどんな成功ロードを歩むのかをワクワクしながら見守っていたファンや関係者は少なくなかっただろう。

2012年のザックジャパンデビュー時に放った輝き

 ところが、2011年夏にアーセナルに戻ると、試合に出られなくなる。オランダでは自由自在にプレーできた宮市が、周囲のレベルに戸惑い、ドリブル突破もタテへの抜け出しも容易にはできなくなる。18歳の選手がそういう環境で練習するだけでも意味あることだが、当時の指揮官、アーセン・ベンゲル(FIFA技術研究グループ長)の「公式戦出場経験が必要」という考えから、2012年1月にボルトンへ2度目のレンタルに出る。ここでは継続的に出番を得て、5月にはアルベルト・ザッケローニ監督率いる日本代表初招集を受け、アゼルバイジャン戦(静岡)で初キャップを飾る。

「プレミアデビューの時は足が震えるような緊張感があったけど、今回はいい雰囲気でやらせてもらったかな」とこの時の彼は19歳ながら余裕を感じさせる口ぶりでコメントしていた。この逸材ならば、本田圭佑や香川真司(PAOK)ら個性豊かな攻撃陣に入っても存在感を発揮できるはず。我々も大いなる可能性を感じていた。

2012年に日本代表デビューした頃の宮市
2012年に日本代表デビューした頃の宮市写真:アフロスポーツ

その後の度重なる移籍とケガ、そして最悪の試合

 だが、そこから負の連鎖が始まるとは、本人も想像しなかっただろう。2012年夏からプレーした3つ目のレンタル先、ウィガン・アスレティックでは11月に右足首じん帯を負傷し、長期離脱。シーズン終盤にも同じ箇所をケガして手術を余儀なくされた。翌13-14シーズンはアーセナルに残留したものの、リーグ1試合出場にとどまってしまう。再起を賭けて2014年9月に赴いた4つ目のレンタル先・トゥウェンテでもパフォーマンスが上がらず苦しんだ。

 迎えた2014年11月1日のヘーレンフェーン戦。宮市はスタメンでピッチに立ったが、本来の自分とはかけ離れた状態に苦悩し、消極的プレーでミスを連発。今にも泣き出しそうな悲愴感を漂わせ、前半45分を終えた。闘争心を失った背番号14は熱狂的サポーターから痛烈なブーイングを浴びられ、ロッカールームでは仲間からも怒声をぶつけられた。

「ルック・アップ(顔をあげろ)!」

 この言葉で目が覚め、ピッチに戻ったが、切れ味鋭い動きは戻らない。結局、後半21分に下げられた宮市は2軍落ちを突きつけられる。不甲斐ない自分に対しての苛立ち、悔しさ、むなしさ、悲しみ…。複雑な感情で自分自身が押しつぶされそうになったが、それでも日本に戻りたいとは思わなかったという。

ドイツ2部・ザンクトパウリ時代に口にした覚悟

「僕は間違ってないし、生まれ変わってもこの選択をすると思います」

 2015年夏にアーセナルとの契約が終了し、ドイツ・ブンデスリーガ2部・ザンクトパウリでの1シーズン目を終えた2016年夏、筆者の単独インタビューに答えてくれた宮市は、こう語気を強めていた。

 もはやメスを入れていないところがないくらい体中を切り刻む状況に陥った挙句、移籍するたびに異なる戦術や価値観への適応を求められる。その環境は、高校を出て、Jリーグからプロキャリアをスタートさせ、守ってくれる人が沢山いる中で自分の強みを出せる他の日本人選手から見れば「異次元」と言うしかない。「宮市はJを経由していないから、日本に戻る場所がない」と見る人もいたが、当時23歳で規格外のポテンシャルを持つ彼を「ほしい」というJリーグクラブはいくらでもあったはずだ。

 それでも、彼は欧州挑戦続行を選んだ。「モヤモヤしていることがあるなら、1回しっかりとぶつかってみよう」とドイツで新たな覚悟を決めたからだ。恐怖心を感じて逃げたり、課題に向き合わなくなることだけは、絶対に避けたかった。その矜持ゆえに、彼はドイツ2部で5シーズンも戦うといういばらの道を歩んだのではないか。

欧州でできることをやり切った10年間

 結果的にそのチャレンジは大成功したとは言えない。「正直なところ、18歳でアーセナルと契約した時に思い描いていたようなキャリアではない」と本人も認めている。数えきれないほどケガを繰り返し、極限状態まで追い込まれたのは1度や2度ではない。喜びよりも迷いや苦悩の方が多かった10年間を経て、宮市はようやく「欧州ではできることはやり切った」と思える境地に達したのではないか。そうでなければ、あれだけ欧州に強くこだわり続けた男が日本に戻る気持ちにはなれなかっただろう。

7月5日の横浜加入会見で笑顔を見せる宮市(写真提供:横浜F・マリノス)
7月5日の横浜加入会見で笑顔を見せる宮市(写真提供:横浜F・マリノス)

 人間として大きく成長し、幅広い視野を持ったフットボーラーになった宮市が、Jリーグという新たな舞台で貴重な経験値をどう還元するのか。そこは非常に興味深いところだ。

 かつて清武弘嗣(C大阪)や細貝萌らは、欧州から日本に戻ってきた際、「ピッチの状態が違ってうまくプレーできない」「Jリーグの方が明らかにテンポが速くて疲労がたまる」といった違いを口にしていた。宮市も武器であるスピードや突破力をいきなり発揮できるとは限らない。加えて言うと、横浜のウイングには、前田大然、エウベル、仲川輝人といった実績ある面々が並んでいる。彼にポジションが用意されているわけではないのだ。

「ホントにこの10年で学んだことは、1日1日、1トレーニング1トレーニングをどれだけ大事にするかということ。若い時は数字だったり、先を見すぎて、自分を苦しめていた。次々と世界各国から若い選手が入ってくる中、激しい競争があり、焦りが生じてケガをしていたこともあった。そういう時期を経て、今は自分にフォーカスできていますし、メンタル面のコントロールは10年前とは比べようがないほど大人になったと思います。

 今はホントに幸せだし、今の自分も好きです。マリノスでまたプレーできる機会をもらえたので、全力で戦いたい。自分の特徴であるスピードを出して、チームに貢献していきたいと思います」

「今の自分も好き」。新たなチャレンジに期待

 フレッシュな気持ちでゼロからのリスタートに踏み切った宮市亮。彼を支持する人は少なくない。同じく欧州から日本に戻った大津祐樹(磐田)も「加入前に相談を受け、全力で推したので、選手もサポーターも可愛がってください。とんでもなくいいやつなんです」とツイートしていたほどだ。

 28歳になった今も高校時代やザックジャパン時代の快活さは変わらない。爽やかな笑顔を含めて数々の魅力を持つ快足アタッカーが、Jリーグで大輪の花を咲かせてくれることを切に願いたい。

スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

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