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一つの時代が終わった「内田篤人引退」。20歳の優しさに心染みた若かりし日のエピソード

元川悦子スポーツジャーナリスト
内田篤人をもう一度、代表戦で見たかった(写真:アフロ)

「内田篤人選手が2020シーズンをもって現役を引退することになりましたので、お知らせいたします」

 将棋の藤井聡太棋聖の二冠達成で日本中が沸いていた2020年8月20日の午後5時20分、突如として鹿島アントラーズの公式HPにショッキングなニュースが掲載された。多くのサッカー関係者やファン同様、筆者にも悲しさと寂しさ、悔しさが一気に押し寄せてきた。

今季公式戦2試合出場、32歳、若すぎる終焉

 2014年2月のハノーファー戦で右ひざを負傷してから6年超。長期リハビリと復帰を繰り返してきた彼は満身創痍の状態で、2019年10月の松本山雅戦でのパフォーマンスを見た時に「もしかしたら今年でやめるのではないか」という嫌な予感も覚えた。

 それでも2020年も契約延長したと聞き、少し安堵していた。が、今季開幕直前の2月の水戸ホーリーホック戦で右下腱三頭筋損傷の重傷を負ってしまう。新型コロナウイルスの感染拡大で中断していた3月には復帰に向けて強度の高いメニューをこなす内田の真剣な姿を見たが、再開後は7月4日のJ1・川崎フロンターレ戦と8月12日のYBCルヴァンカップ・清水エスパルス戦に出場しただけ。

「もはや理想のプレーができない」と感じたことが、電撃引退決断の引き金になったと見られる。以前から決める時は迷わずキッパリというタイプの人だったから、シーズン途中の電撃引退というのも十分にあり得たが、まだ32歳。あまりにも若すぎる。誰よりも本人が一番つらいだろうが、2004年のAFC・U-16選手権(藤枝)から16年間にわたって見続けてきた筆者にとっても、一つの時代が終わったような気がした。

言うべきことは言う、骨のある男

 2006年の鹿島入団、2006年のAFC・U-19選手権(インド)、2007年の鹿島J1制覇からの3連覇、2008年の日本代表入りと北京五輪、2010年南アフリカワールドカップでの苦悶、シャルケ移籍とUEFAチャンピオンズリーグ4強入り、2014年の右ひざ負傷とブラジルワールドカップでの鬼気迫るプレー、2015年の手術、2016年12月のUEFAヨーロッパリーグ・ザルツブルク戦での公式戦復帰、2017年夏のウニオン・ベルリン移籍、2018年1月の鹿島復帰……。内田の節目節目にはかなりの確率で立ち会い、さまざまなウッチー節を聞いてきたが、「言うべきことは言う」という骨のある男だった。2008年北京五輪代表の指揮を執った清水東高校の先輩・反町康治氏(日本サッカー協会技術委員長)も「篤人は物事が見えすぎるところがあるから、発言には気をつけろと言った」と話していたが、周りに流されず自分の考えをしっかりと口にできる意思の強さが彼にはあった。

シャルケ時代の内田篤人(筆者撮影)
シャルケ時代の内田篤人(筆者撮影)

 とりわけ、日本代表のようなプライド高き選手の集団で堂々と意見を言うのは難しい。ザックジャパン時代は主導権を握って日本らしいサッカーをしたい遠藤保仁(ガンバ大阪)や本田圭佑(ボタフォゴ)らの考えが主流の中、内田は3戦全敗を喫した2013年コンフェデレーションズカップ(ブラジル)以降、つねに警鐘を鳴らし続けた。

「やっとドイツでプレーする人が増えてきたくらいで、日本代表はそんなに戦えるようになってる? ドイツの人からしたら『日本?』くらいなもんだし、たぶん日本でサッカー見てる人たちの意識と僕らがドイツでやってる日本のサッカーの意識は差があるかなと。そんなに強くないじゃん、俺らって。そこをもう1回ちゃんと見つめて守備をしっかりやんないと。点取られたら勝てないよ」

 2013年8月のウルグアイ戦(宮城)でディエゴ・フォルランやルイス・スアレス(バルセロナ)に4失点で粉砕された後、甘いマスクをゆがめてチームの方向性に疑問を呈したことは筆者らメディアの心に響いた。内田のように勝利への最短距離を進もうとする選手がもっと多かったら、ブラジルワールドカップでの惨敗はなかったかもしれない……。本人もそんな悔しさを感じるからこそ、2018年ロシアワールドカップにこだわったのだろう。

叶わなかったロシアワールドカップでの活躍

 ハリルジャパンの初陣2連戦だった2015年3月のチュニジア(大分)・ウズベキスタン(東京)2連戦で右ひざの痛みを押して強行出場し、手術後もたびたび欧州組の合宿に参加していたのも、「3度目のワールドカップは何としても納得できる結果とパフォーマンスを残したい」という強い思いの表れだった。2016年6月の代表合宿で筋肉が落ち、白い足が細くなった内田を見た時には切なくなったが、それでもゼロから肉体改造をして、ロシアのピッチに立とうと精一杯の努力を続けた。

 それが叶わず終わった2018年夏、久しぶりに鹿島の練習場で会った彼は「ロシアのこと? 踏ん切りなんかついてないよ」と吐き捨てた。それでもプレーを続行したのは、恩ある鹿島に少しでも報いたいと思ったからに違いない。その結果、2018年アジアチャンピオンズリーグ(ACL)制覇を果たし、尊敬する先輩・小笠原満男(鹿島アカデミーアドバイザー)を送り出すことができた。そして自身も2019年はキャプテンとしてチームを支えた。そういう義理堅いところも、内田篤人の大きな魅力だった。

多くのメディアを虜にした人情味ある人柄

 人情味という部分では、若かりし日のこんなエピソードもある。筆者は2005年から3年の間、某メディアで鹿島を担当し、ホームゲームには毎回のようにスタジアムに通っていたのだが、2008年春にさまざまな事情で急に辞めることになった。それを代表合宿の際、内田に伝えると「えっ、仕事大丈夫なの? 生活できる?」と心配されたのだ。「別の媒体で取材に行くから何とかなるよ」と答えると、「ああそうなの。じゃあよかったね」と笑顔で返してくれた。弱冠20歳の選手に生活面の心配をしてもらうとは思わなかったが、優しさは心に染みた。そんな内田の人柄に虜になったメディア関係者は少なくなかったが、ちょっとした気配りができるからこそ、多くの人に愛されたのだろう。

 豊かな人間力と鋭い察知力、岡田武史監督(FC今治代表)が太鼓判を押した非凡なサッカーセンスを備えた右サイドバックはそうそう出てこない。かつて元日本代表DF加地亮も「内田君を見て代表引退を決断した」と偽らざる本音を口にしたが、何十年に一人の逸材だったのは紛れもない事実だ。ケガという不本意な形でユニフォームを脱ぐのは本当に残念でしかないが、気配りと優しさ、意思の強さを持つ彼ならば苦しい経験も今後の糧にしてくれるはず。まずは8月23日のガンバ大阪とのラストマッチの一挙手一投足に注目したいところだ。

スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

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